カサンドラ症候群は医学用語ではないが、もうかなり有名なのでその説明は省く。実際には数としてはかなり多いものと感じるが、潜在的なケースもかなりあると思う。後者について述べる。
一つは典型的なカサンドラでも、ASDな方が社会的に適応をしていて潜在化していることがある。例を挙げると、夫が医師、妻が看護師で、妻がうつ状態でこられたケースで、職場は別々で、夫は職場では患者さんの話をよく聞く、スタッフにも優しい先生と言われているとのこと。隣近所の人からもお宅の旦那さんは気さくでやさしいといわれるということだった。一方、妻は職場でストレス因と思われることはなく、お子さんも居られないので育児の悩みなどもない。子ども時代から現在に至るまでの話を時間をかけて伺っても、特別なことはなかった。ただ、食欲について尋ねたときに、主人と一緒に食事をすることがないと言われたので、医療職同士で時間が合わないのかとも思いながら、あまりに彼女の表情が重くなったので、理由を尋ねると、私が悪いので主人が口を聞いてくれないということを話し出された。そこから詳細は個人の特定につながるので書けないが、結果だけを書くと、夫は社会的には適応しているASDで、家の外では適応しているためにASDであることを誰も気づかなかった。適応といってもかなり無理をされているので、家に帰って適応を解くと、何も喋らず、食事も一緒に摂らず、ただ自分の部屋にいるということだった。それを妻は夫は皆さんが優しい人、穏やかな人、話をよく聞いてくれる人というし、友人や親に相談しても、夫が自分にそういう態度を取るのは自分が何かして怒らせたのではないかと言われ、悩みを話す人もいなくなってしまい、ついには自分が怒らせてしまった、自分が悪いと責め続ける状態になっていた。
もう一つのケースは、これを私はカサンドラ・スペクトラムと勝手に名付けているのだが、夫婦あるいはパートナーの片方がASDとは診断できないが、いわゆるグレーゾーンのような場合でも、もう一方の方のパーソナリティ次第では、典型的なカサンドラ症候群を呈することがある。こういうグレーゾーンの方は先の適応型のASDの方とは異なり、一見対人関係の問題はなく、会社と家での極端な違いもない。ただその人が今まで経験したことのない立場に置かれたり、急な負荷が加わった場合に、その人の社会的立場にそぐわない言動をされることがある。これは私見であるが、このような言動を実際に対話者として聞くと、一義表現、つまり詩的言語ではなく、記号論理的な、空虚な語らいをされるのが特徴だと思っている。心的現実が一次元なのだと思う。普段の会話は相互的であり、多義的、象徴表現と思うが、混乱したり、予想外なことに出会うとそうではなくなってしまう。それがパートナーとの人生の大事な局面で起こった時に、もし相手の性格が内向きで、相手の気持ちを察しようとする場合には、どうしても察しきれずに、理解できないために、自分の責任として受け取り、結果自分を責め、典型的なカサンドラ症候群を呈することがある。
おそらく、グレーゾーンでなくても相手のパーソナリティによっては、カサンドラ症候群は起きると思う。対人関係というのは、片方だけを見ていてはわからないことがある。
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相談者やその現場の小学校を特定できないように最新の注意を払わなければならないのでぼかした表現にはなるが、先日本当に小さな相談者がカウンセリングルームに来られた。内容は、以下のとおりである。
ある公立小学校全体が荒れていて、特にひどい学年が二つあり、そこでは特定少数の生徒によるからかい、無視、暴言が横行し、暴力も珍しくはないという。相談者はその学年の一つに属されている。元々は学校が好きな子供で、友達もたくさんいる。荒れていたのはもうかなり前からだったが、昨年の時点で、自分のクラスにいたときに、数名の男子からその子本人がいじめに遭い、いじめが頼りにしていた若い担任の先生にも向くようになって、もう学校では誰も助けてくれないし、安心していられる場所が学校にないことから、不登校となった。
保護者は学校に相談し、それで、いわゆる保健室登校のような保護教室への登校(先生の配置がある。)、教育委員会のスクールカウンセラーによるカウンセリング、警察OBの配置などが行われた。しかし、その特定少数の生徒によるいじめはなくならず、その保護教室にいた時に、またいじめにあい、もう学校自体が怖くなり、再び不登校になった。そしてこの小さな子が「死にたい」と口にするようになった。
こうなるまでの間にも保護者は学校、教育委員会に相談をしたが、学校、教育員会は「いじめ」の存在を認めず、隠蔽しようとしているように思えるという事であった。
私のすべきことはこの子を元気にすることであり、これ以上の内容を書くのは、この子のプライバシーの侵害になる可能性あり、できない。ただ、来たときは固い表情であったのが、帰る時には笑顔を見せて、バイバイと言いながらドアを閉めて帰っていったことだけ述べておく。
私のような仕事をしているものにとって、「いじめ」は、子供に限らず、大人の社会でもよくあることではあるが、こんな古典的な荒れた学校がいまだに存在すること、学校や教育委員会はやることをしているように見えるのだが、それでもおさまらない「いじめ」の存在の理由を監督官庁(県や市)、その下部組織の教育委員会は、どう考え、どう対処しようとしているのかを知りたい。「あったことをなかったことにする」(隠蔽)は精神病の機序である。
私見ではあるが、以前から何度かこのブログで書いた「機能集団であるべきものが共同体化している」のが、日本社会の宿痾の病であり,今回のいじめが解決しない根本原因だと思う。今回の出来事がもし一般社会で行われたら、警察が介入できるし、そうなれば、解決するかは別として、被害者はとりあえず守られるだろう。なぜ学校だからといって加害者が治外法権的な扱いを受け、被害者が守られないのか? 過去に私が関係したケースでは学校が加害者側の親が有力者だったので、それに忖度して隠蔽してしまったことがあった。また、そうでなくとも学校側も強制力のある捜査権はないし、限界はある。今回のように保護教室を作っても、スクールカウンセラーを派遣しても、加害者には何もしていないし、警察OBの配置といってももう一般市民だからなんの強制力もないのだから、張子の虎だとわかってしまう賢い加害者には無力である。なんでもうちうちで済ませようとする「共同体」意識をすてさせなければならない。そのためには、報道が社会の木鐸として働くことが大切である。
つい最近の「宮城・女性教諭パワハラ自殺」の河北新報の報道で教育委員会は、第三者機関の設置を拒否したらしいが、そういう感覚が教育界に蔓延っていることが「いじめ」問題の根本解決を遅らせているの一因ではないか? 特に子供が被害者の場合は、教育側は「やることはやったがどうにもならない」では済まないのだから、せめて第三者機関の設置を問われたら「検討します」ぐらいは当たり前ではないのか? また報道した方も、なぜ第三者機関の設置を拒否するのかについてそれだけで引き下がらないで根拠を取材する必要、いや義務があるのではないか?ついでながら記事の書き方で、3月6日の同新聞朝刊23面にこのパワハラ自殺の記事で、「人としていかがなものか」という表現自体が「人格を否定し」という意味を持つと受け取られる記載があり、この「人としていかがなものか」という表現自体は、人格の否定の表現ではなく、このようなパワハラとされる手紙の文脈の中でだけ、人格否定の意味を持つのであって、文脈さえ違えば人格否定の意味は持たないので、しかも白抜きでその表現だけを見出しにするのは「言葉狩り」の一種で誤解を与えるし、問題の所在をぼかしてしまい、ひいては記事全体の信頼性を低下させる危険性が高いと思う。
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はじめに
ヒスタミン食中毒は紙面で見られた方もあるかもしれないが、日本で多いのは赤身の魚、例えばカツオ、マグロ、鯖などを食べた人が食後1時間ぐらいで顔面の紅潮、蕁麻疹、発熱、頭痛などを呈し、食べた人の多くが発症することで食中毒と気づかれる。これはアレルギーに似た症状ではあるが、これらの魚の中で(菌による発酵で)ヒスタミンが大量にヒスチジンというアミノ酸からつくられ、症状は、この大量のヒスタミンを摂取したことによるので、アレルギーではなく、物質による中毒なのである。いわば急性のヒスタミンの絶対的な量的過剰摂取である。
一方、これから述べるヒスタミン不耐症は細胞外(腸管内)でヒスタミンを分解する酵素であるDAO(DiーAminoーOxidase)、細胞内でヒスタミンを分解する酵素であるHNMT(Histamine-N-MetylーTransferase)のどちらかあるいは両者の絶対的あるいは相対的な量的不足、あるいは活性の低下によって起こる慢性の疾患である。こちらは、本来はアレルギーではないが、何らかのアレルギーがあるとこれらの酵素が足りなくなり、ヒスタミン不耐症が悪化することがあり、また、そもそもがヒスタミンはアレルギーの時にも肥満細胞から放出され、お馴染みの鼻水、鼻詰まり、咳、蕁麻疹といったアレルギー症状を出す物質であり、またこれらの症状に抗ヒスタミン薬が有効なので、アレルギーとして治療されていることが多いものと推察される。最近自験例を含め、数例を経験したので以下にまとめてみたい。なお、Dirk Schweigler著 HISTAMINE INTORERANCE を参考にしている。
ヒスタミンの働き
ヒスタミンは前述したようにアレルギー症状を引き起こす物質ではあるが、体の中で以下のような重要な役割を果たしている。(ですから、ヒスタミンが問題なのは多くなりすぎる時なのです。)
胃酸の分泌
睡眠覚醒リズムの調整
腸の運動を促進する
体温の調整
外因性物質に対する防御
血圧の調整
ヒスタミンは活性アミンの一つで、セロトニン、ドーパミン、ノルアドレナリンも活性アミンです。脳の働きを調整する神経伝達物質である事は有名ですが、他の臓器においても重要な役割を果たしています。あまり聞いたことが無いと思いますが、cadaverineやtyramineもそうです。
体の中で活性アミンを分解する主な酵素はDAOになります。DAOは細胞外の、HNMTは細胞内のヒスタミンを分解します。DAOは腸の細胞で主に作られます。
ヒスタミンは多くの食物に含まれる他に体内でも(内因性ヒスタミン)作られます。体内では胃、腸、脳で作られ、そこに貯蔵されます。この多所性が人によりヒスタミン不耐症の症状が違う原因となります、ある人は頭痛と顔面の発赤を訴え、またある人は消化の問題を訴えることになります。
健康な人の場合、ヒスタミンは、必要な時にのみ分泌されます。例えば、血圧を正常に保つ、あるいは傷の付いた場所で炎症を開始させるなどです。でも、備蓄されたヒスタミンが無闇に放出される、ある薬による場合などですが、その場合には手に負えなくなります。
ヒスタミンは、正常最大値は決められないので、個人的な耐性の限界値でどれぐらいの量に耐えられるかが決まります。この耐性限界値はホルモン値、腸内細菌叢の働き、ストレスによって変化します。ですから、あるひとはグラス一杯のワインでさえ頭痛を引き起こすことになります。
つまり、ワインを飲んで起こる頭痛、普通は、ワインに加えられる硝酸塩などの酸化防止剤で起きる偏頭痛などを考えるのですが、ヒスタミン不耐症でも起こるということです。
どんな症状が出るのか?
ここまでの出たことと重複する症状もありますが、ここで教科書的な症状をまとめておきます。
皮膚症状:顔面の発赤、かゆみ、皮疹。
呼吸の問題:鼻水、鼻詰まり、くしゃみ、呼吸困難。
脳:頭痛、偏頭痛、めまい、吐き気、疲労、睡眠障害。
心臓血管:頻脈、血圧下降。
胃・腸:胃痛、疝痛、下痢、鼓腸。
ホルモンバランス:月経困難症。
この症状が、人により様々な組み合わせで出てくることや、食べ物による場合には、DAOの責任範囲であり、食後、数分から、1日以上経ってから出てくるので、原因食物を特定しづらいことがあります。というより、こういう症状の人がヒスタミン不耐症だと疑われることすらないことが診断をさらに困難にしているのだと思います。さらにヒスタミンを含まない食物でも、前に述べた他の活性アミンが含まれている場合、そちらのアミンが優先的に分解されるために、ヒスタミンの分解が二の次になってしまい、ヒスタミン不耐症が引き起こされることがあるので、これも原因食物の同定を困難にしていると言えるでしょう。こういうことが三分間診療にとっては天敵のような病気だと言えるでしょう。
さらにことを複雑にするのが、細胞内のヒスタミンを分解する酵素、HNMTです。DAOは細胞外の、HMNTは細胞内のヒスタミン分解という区別があるためにヒスタミン不耐症の症状に違いが出てくる。HNMTが十分にない場合は、症状が慢性に経過することと、食物との関係が必ずしもはっきりしないこと、HMNTは主に腎臓、気管支、脳と中枢神経系で働くので、その症状が、落ち着きのなさ、筋肉の痙攣、睡眠障害、疲労、めまい、不安となることが特徴となる。これらの症状で受診した場合、不定愁訴か、不安障害にされるのがせいぜいであろう。
さらにDAO障害と、HNMT障害の混合型もあり、この場合はほとんどが薬物によるDAOとHMNTの障害によるものと考えられるが、同じヒスタミン不耐症でも純粋なDAO障害によるものと純粋なHMNT不耐症では症状が全く違うし、しかもこれらの混合型もあるのだから、事態はますます複雑なものとなる。
どうしたらいいのか?
医者にとっての答えは、この病気の存在を知り、鑑別疾患のリストに加えられるようにすることに尽きると思う。患者さんにとっての答えは、この病気の確定診断は便の臨床検査でなされるので、それをしてくれる、良いかかりつけ医を持つことに尽きる。どうしてもという場合に私が有効だと思うのは、elimination diet (この場合はヒスタミン除去食)を2〜3週間続けることである。ヒスタミン含有量の少ないものだけ食べることである。これでご自分の悩む症状が消えてくれれば、その症状はヒスタミン不耐症であった可能性は極めて高くなる。
このやり方の問題点は、食べてもいいものが極めて少なくなることである。食べてはいけないもののリストは長大なもので、ここに挙げる事はできないが、俗に体に良いとされる食べ物、発酵食品、ヨーグルト、柑橘類などが多く含まれている。また薬の類もある。魚も新鮮であっても赤身の魚はダメだし、エビ、カニ、貝もダメである。肉類も屠殺から時間の経ったものはダメで、熟成肉など論外となる。安心して食べられるのが梅干しご飯ぐらいかと思われるほどである。ちなみに、梅干しは抗ヒスタミン薬に匹敵する作用を持っている。
腸管病変の可能性や、診断法の詳細、治療法などまだ述べるべき事はあるのだが、それは前掲の本に譲り、最後に自験例を示してみたい。
この症例は70代男性で、経過を辿ると平成元年からと思われる。現在の症状としてはDAOとHMNTの混合型障害で、高齢になりある市販薬の整腸剤を服用するようになってから、それまで間をおいて単発の症状であったものが、一気に症状が出た例である。
幼少時よりアトピーがあり、アトピー自体は10代で寛解した。ちょっとした怪我をした時に、発赤が強く、浅い傷でも跡が残りやすいと感じていた。蕁麻疹が出やすく、平成元年に父親の病死に伴うストレスで、いわゆるコリン作動性蕁麻疹と診断される頑固な慢性蕁麻疹を主に四肢に経験している。その後自覚的には何もなかったが、人工蕁麻疹、アレルギー性鼻炎などは認められた。約20年前からスポーツの最中や、後で、両下肢に強烈な筋攣縮を認めるようになり、後日検査で低Mg血症が認められた。(この症状も腸管でのヒスタミン不耐症の症状と考えられる。)同じ頃から間欠性の逆流性食道炎を発症し、頓服のプロトンブロッカーを使っていた。5年前から寝入りは良いが、何度も中途覚醒を起こすようになり、やはり頓服で安定剤等を服用していた。昨年に腹部膨満感があり、整腸剤を継続使用するようになった。この頃から、疲労感、イライラが出現したが睡眠不足によるものとされた。その後顔面の浮腫、目の周囲の腫れ、発赤と同時に、頚部から前胸部にかけてジャボ状の皮疹が出現した。この時点でヒスタミン不耐症を疑い、elimination diet (薬も中止)を開始し、約3週間後には、ほとんどの症状が消失した。その時点から、一つずつ食品を解禁してゆき、サラミソーセージを解禁した時に頸の皮疹が再発し、再びelimination dietとし、再び症状消失。そこから再び食品、香辛料を解禁していき、屠殺後7日間以上経過した牛肉で再び皮疹、逆流性食道炎が出現。この時は牛肉を除去し、回復。そこから食品についてはかなりの種類のものが摂取可能となり、今年12月から、整腸剤を再開したところ、顔面の腫れ、発赤、頚部の皮疹ガラ割れ、睡眠障害(中途覚醒)が出現した。整腸剤を止めて様子をみたところ症状消退を確認し、elimination diet後の急性憎悪は、この薬物によるものと判断した。
このケースは、軽いヒスタミン不耐症(DAO障害)があり、慢性に経過していたものが、薬物(整腸剤)服用により、DAOのみならずHMNTにも障害をきたすようになり、はっきりしたヒスタミン不耐症として発症したものと考えられる。ヒスタミン不耐症は、特にDAO障害の場合、その原因として腸管病変が挙げられるが、この例でも整腸剤が原因であった可能性が強く、腸管でのバランス調整がうまくいかなくなったことが考えられる。
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車で仙台から盛岡に戻る途中、古川を過ぎた辺りから、雁の編隊飛行を目にすることができる。よく見ると編隊飛行の群れには加わらず、単独で飛んでいる個体も見受けられる。群をなすことで、役割が分担され、餌を食べている時も、見張り役の個体が絶えず周囲に注意を払っている。役割を分担することで、安全を手に入れられるということで、単独の個体は、すべてを自分で兼務しなくてはならない。群れに加わらず、個体単独で生きていくには、群をなしている個体よりも、多くのことが求められるわけで、その個体の能力次第ということなのだと思う。
適応障害の方を拝見していて思うことがのが、個人と彼が勤める会社との関係で、会社の人格の問題が社会常識上あきれる場合しかなくて、感心したり、共感できる場合がないという事である。ただでさえ個人と会社の強さには非対称があるわけで、それを考え合わせると病気で群れから離れた場合などには個体として生きていくのも不可能ではないかとさえ思える。 なぜそうなるかについて、社会学では、日本社会の特殊性として、市民社会の中に(市民社会の一部としての)機能集団としての会社、学校、役所があるのではなく、それらの集団が共同体、運命共同体として存在していて、その共同体の中での規範は市民社会の規範に優先していることが挙げられている。 例えば、今年に起こった問題、ジャニーズもそう、自民党もそう、ダイハツもそう、全てこの共同体化してしまった集団の問題と捉えることができ、こういう集団の特徴は二重規範や作為の契機に気づかなくなることにある。しかもこれは戦前からの日本社会の特徴というか、日本があの無謀な第二次世界大戦に突っ込んでいった原因の一つでありながら、いまだに克服されていないのである。もっとスケールが小さいがよく見られるいじめや、パワハラ、セクハラにもこの問題がある。社会の常識が、会社、学校、役所では通用しないのである。欧米型の市民社会では機能集団と共同体とは分離する傾向があるが、日本では逆なのである。人間疎外が欧米と日本の社会では構造が違うということになる。適応障害を理解する上で、こういう社会学的な見方というのが必要であると考える。
本当は、この休みに「ヒスタミン不耐症」について書くつもりで、一部の方にはそうお伝えしていたが、資料を仙台に忘れてきてしまい、書くのは来年になってしまいました。
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順序が逆ではあるが、今回のシリーズの狙いをここでお話ししたい。
吉本隆明が共同幻想論の序で述べている事であるが、「言語にとって美とはなにか」(以下、言語美と約す)で言語の表現としての芸術という視点から文学とはなにかについて体系的な考えを推し進めていく過程で、その試みには空洞があるのをいつも感じていたという。
『ひとつは 表現された言語のこちらがわで表現した主体は一体どんな心的な構造を持っているのかという問題である。もうひとつは、いずれにせよ、言語を表現するものは、そのつどひとりの個体であるが、このひとりの個体という位相は、人間がこの世界でとりうる態度のうちどう位置づけられるべきだろうか、人間はひとりの個体という以外にどんな態度を取りうるものか、そしてひとりの個体という態度は、それ以外の態度とのあいだにどんな関係を持つのか、といった問題である。』
この問題の前者こそ心的現象論(序説・本論)を彼に書かせたのであり、この問いは精神分析の問いでもある。前回述べたように、ここでも「問題は、はじめから、現実と現実意識と表現の基本的な関係の中にあったのである。」。「言語美」では表現の構造、作用を明らかにし、「共同幻想論」では現実意識(現実世界の疎外態として成立する想像世界)のそれらを明らかにし、最後に「心的現象論(序説・本論)」で表現した主体の心的な構造、働きを明らかにしているのである。
もちろん吉本本人は、これらの三部作で自立した文学理論を自前で構築することを目的としていたのではあるが、今回のシリーズの狙いは、換骨奪胎のそしりは免れないと承知しながら、現実、現実意識、表現の基本関係、そして表現する主体の心的構造、働きを知ることで、心理学ではなく、臨床に使える「心的構造論」を目指すことにある。
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フロイトが(強迫)神経症の特徴として、
「思考の中に閉じ込められて行動ができなくなること」
を言っているが、新型コロナウイルスの問題が出て来てから、これにより疲弊している方が多くなっているように思う。前にも引用したことがあるが、お話を伺っているとどうしてもファウスト第一部の
「 思索なんかする奴は、
枯野原で悪霊にぐるぐるひきまわされている
動物みたいなものです。
そのまわりには美しい緑の牧場があるのに。」
という記載をどうしても思い出してしまう。脳科学的に、関心を枯野原から緑の牧場に移すことができれば、悪魔にぐるぐる引き回されることはなくなるので、関心を移す「行動」をしていただくことを勧めて来たが、最近、吉本隆明の「言語にとって美とは何か」を再読していて、彼が別のところで述べている、「問題は初めから、現実と現実意識と表現との基本的関係の中にあったのである。」を頭において、この本でのプロレタリア文学批判で述べている「現実を現実として捉え行為するという主体の立場が欠落」している立場、すなわち「表現」が「現実」に擦り寄り過ぎている立場というのが、主体の欠如のもとに、ある思索を強迫としてくり返す状態なのだろうと気付いた時に、強迫の治療にもう一つの要素があるのではないかと気付いたのである。
吉本の「表現、現実意識、現実」の三極、ないし三軸関係の構造から言うと、現実に偏したために「表現」の根拠を失い、人間、現実についてのゆがんだ像を創り出しているのが強迫の心的構造であるなら、彼の現実世界と、その現実世界の疎外態として成立する想像世界である(現実)意識の差異により引き起こされる行動が、自由の実践であった場合だけが治療になりうるのであり、そのためにはこの差異の中の疎外を疎外として明確に認知することが絶対に必要になるということである。この事は、自分の思索と強迫の思索とを自分がはっきり分けられる事に相当し、それが反復強迫、強迫障害の治療の第一歩であり、これを前提にして初めて「関心を移す」という治療が効力を発揮するのである。この大事さはいかに強調しても強調しすぎる事はない。
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今日、7月18日東京都の新型コロナの感染者数が3日続けて約290人台になった。法事などで少し早い夏休みを送るために実家の盛岡に移動して来たが、マスクをしていない人が多い、それも若い人たちに多いことに驚く。感染者数がゼロということを、まるで岩手県だけはX-facters によって守られているとでも思っているのだろうか? 一般向けのマスクには予防効果はない。マスクは自分を守るためではなく、他人に移さないためのエチケットである。マスクをしていないということは、他人にうつしてもいいと思っていることと同じなのである。いつまでたってもPCR検査を諸外国のレベルで行なえない日本ではせめてものエチケットとしてのマスクなのである。
少し前に東京と宮城での抗体保有率が測定され0.3〜0.6%ぐらいで、そのことが意味するのは、日本にはX-factersがあったのではなく、実はまだ本格的に流行していなかっただけということである。一方、まるであおり運転の様なGo to キャンペーンなるものが経済を回すためということで、しかも当初は8月に予定され、条件として感染が収まった後でということであったのが、なんと4連休前の7月22日に前倒しされ、しかも自粛解除から2週間で患者数が急激に増加し出した時に行われようとしている。東京を除外することにはなったが、東京圏の他の県の患者数を見れば、その有効性は感染制御の面でも無効であるし、肝心の経済だってそれほどの有効性は期待出来ないだろう。それよりも新宿のPCRセンターでの検査陽性率が40%に近いことは由々しき問題であり、まったく抗体を持っていない人たちの中に、それほどの高いPCR陽性率の人達の群れが押しかけたら、どうなるかは火を見るよりも明らかである。簡単に言えば、彼方此方でクラスターが発生するということである。そうしたら保健所がいくつあってもたりない、クラスター潰しなんて夢のまた夢である。そういうあおり行為を国が主導して行ったら、仮に一時的な経済の回復があったとしても、このままでは東京のおそらく来週には起こるであろう感染爆発に引き続いて、現在患者が出ていない岩手県でも東京に2週間ぐらいのタイムラグを置いて感染爆発が起こることは十分に考えられる。そうなったら医療崩壊して、経済なんて終わりである。東京をいかにして被害、人権に配慮していわゆるロックダウンを行うかこそ、施政者は考えなくてはいけないのだと思う。東京には医学部の付属病院もたくさんあるし、大きな病院もたくさんある、その上隔離、入院施設にできるオリンピック村を始めとして、オリンピック用の施設、建物もある。国の施設もある。今なら、東京全体ではなく、新宿を中心とした地帯のみのロックダウンをして、その地帯の住民のみをすべてPCR検査して、陽性者は隔離、入院させ、陰性者は東京の他の地区の人たちと同じ様に、きちんと自粛しながら仕事をしてもらうことで、感染制御は100%とは言えないが、かなりの確率でできるのだと思う。今、それも残りわずか数日を逃したら、そのチャンスは永遠に失われ、アメリカの様になってしまうと思う。いま行わなくてはならないのは支離滅裂なGo to キャンペーンではなく、逆に東京の感染率の高い地域のロックダウンであり、そこに全ての器材、人員を投下して、住民全てのPCR検査を行い、陽性者の隔離、入院、陰性者は、そのは他の地域の人たちと同じで手洗い、マスク、換気を徹底的に行いながら、働くことである。残された時間は少ない。
言葉の成り立ちからいうと、normal は規範 norm の形容詞ということになる。ラカン的に言えば、人間はすでに出来上がっている言葉のネットワークの中に生み落とされるものなのだから、丸山真男的に言えば、歴史的条件が我々の「主体」の中に入り込んでいるわけだから、それら所与のものによって規範が出来ていて、その規範にしたがって生きることが normal 正常、普通であり、それができる様になることが大人になることとされている訳である。
新型コロナウイルス感染症のパンデミックを収束するために、今までのnormalを新しいnormalに変えること、つまり密閉、密集、密接(いわゆる「三密」)を避けることが、new normal と捉えられている様にも思える。
しかし、おそらく未来の歴史書には、今回の COVID-19は現在の社会体制を根源的に変えた出来事、おそらくフランス革命に相当するする歴史的事件として記載されるのではないかと思われ、そうすると、先ほどの意味での「三密」を避ける生活が、new normal になるというのはあまりに枝葉末節すぎるのではないか? むしろ、真言蜜教でいう「三密」を実践する方がまだnew normal というのにふさわしいのではないか? というよりも如何なるnew normal を作り出すかにより、この国家 国民の運命は決まってしまうのではないかということである。
多くの人たちは、台風一過的にパンデミックが過ぎ去れば、また元の生活が戻ってくると思っているかもしれないが、ウイルスとの共存、それも新型コロナ以外のウイルスも想定しなくてはいけない訳だから、三密を避けるどころか、規範自体を変える、エートスを変えることが求められているのかもしれない。
我々が生きている社会を支配しているのが、米国型の「自由主義に基づく能力本位の資本主義」、と中国型の「政治的資本主義」であり、そのどちらもが進歩主義にその基盤を置きながら、皮肉にもマルクスの生きた時代の「疎外」を蘇らせている。前者の資本主義の特徴は民主主義による多党制、後者のそれは一党独裁による長期支配である。経済学者の分類では、日本は前者に属することになっているが、実際の社会を見ていると、二極化、森友問題、解釈改憲、桜問題、そして検察人事の問題などからは、むしろ後者なのではないかという気がしてくる。そして 経済学者が唱えるコロナ後の政策は、その前提が間違っているために、例えば相続税の強化や選挙を公金で賄うなどは米国には適応できても、日本ではさらに混迷を深める様な気がしている。資本主義の中で、その欠陥を補い、「疎外」を解消していくには、新たな収奪の方法、新たな支配の方法を発明するのではなく、それを担う人間を変えていくしかないのだと思います。
New normal は小手先の変更ではなく、人間を変えることにあるのだということです。普通にしていることが、コロナウイルスの拡散を防いでいる様な、そういう人間のあり方に変えていくことであり、そのあり方が類的人間なのだと思います。
ここまで書いた時に、ネットで『ディオールの豪華なドレスはインドの「奴隷商人」の手で作られる』courrier.jp というニューヨーク・タイムズの記事を見ました。ここで書かれている「ファッション業界の暗部」はマルクスが資本論の中で述べている「イギリス皇太子妃の舞踏会のために、貴婦人たちの衣装を魔法使いさながらに瞬時のうちに仕立て上げねばならなかったために26時間半休みなく働き死んでいった少女たちの過酷すぎる労働」と同型と言えると思う。2020年になっても、1830年代にマルクスが見た地獄が、まだ解消されず、この世に存在しているのである。人間というのは進歩しないものだという評論では済まない現実があるのだ。資本主義が制限を加えられなかった時に暴走する凶暴な面が今蘇っている事を目を逸らさずにまず見なくてはいけない。二極化が進行しているとはそういう事なのでしょう。
ここからは、今の私のマルクス観です。正しい、間違っているとかは別のことで、私の主観的なマルクスである。先ほど書いた1830年代の一方ではタコ部屋の様なところで26時間半休みなく働かされてきらびやかなドレスを仕立てている少女がいる同じ世界で、そのドレスを着て舞踏に興じる女性がいる、それが社会に現れた「疎外」であり、その現実を直視するマルクスの心情に「優しさ」を感じるのです。マルクスはその「優しさ」から、この疎外を解消するために、フォイエルバッハを通して、神に頼ることなく、資本主義の中で、人間関係の改革を、議会制民主主義の中で成し遂げようとしたのです。それがマルクスのいう革命であり、暴力革命はのちにレーニンが言い出したことで、マルクスはそんなことは言っていないのです。
マルクスはプロレタリアートではありません。ブルジョアです。ブルジョアとして、プロレタリアートを直視し、神様や来世に頼ることなく、現実社会、人間関係を分析し、その変革で、決して暴力革命ではなく、疎外を解消しようとしたのです。彼の戦場は議会であり、議会で多数をとることにより、資本主義に制限を加えること、それも人間関係を変えていく事を目的として、疎外を解消しようとしていたのです。マルクスは資本論を書いたときにロンドンで毎日労働者を見ていたと言います。その目に「優しさ」を感じるのです。
以前のブログで、キリスト教で言う隣人愛と論語で言う仁について書きましたが、孟子に「惻隠の心は仁の端なり」とありますが、「優しさ」とは惻隠の心なのでしょう。以前にブログで述べた吉本隆明の「カール・マルクス」からの引用で「思想と実践とを媒介するものは意志と情熱とに他ならない」というものがありますが、ここで言う意志と情熱が、私が感じた「優しさ」なのだと思うのです。
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安倍首相が緊急事態への対応を憲法にどう位置付けるかを憲法改正を目指す立場の人たちの団体へのビデオメッセージとして送ったとの報道があった。(5/3)
数々の「忖度」問題、アベノマスク、十万円支給をめぐる予算組み替えなどの指導力のなさを露呈してきた安倍首相と憲法改正を語る安倍首相の違い、内容のみならず、それらを語るときの顔つき、話し方の違いにお気づきであろうか?
何が違うのか?
それは意志と情熱である。
十数年前にこのブログでマルクスの「疎外」概念について吉本隆明の「カール・マルクス」を紹介したことがあるが、その本の中に「歴史の唯物弁証法的な理解方式は、マルクスの言うように人類の始原と共に古い、一つの現実理解の原則的真理である。だが原則的真理なるものは真理である限りに於て、人を納得せしめるだろうが、決して人を動かすことは出来ない。真理は唯情熱の形式を以って貫かれたとき始めて人を動かすのである。」という記載がある。
思想は意識作用の表象である言語によってしか伝えることが出来ない。それだけでは、他人を動かすことは出来ない。人は無意識の欲望によって動くのである。だから、「思想は実践行為の原動としてこれを媒介することはない」のであり、「思想と実践を媒介するものは意志と情熱とに外ならない」のである。
安倍首相は、コロナ禍に対しては、情熱も意志もないのであり、憲法改正に対してはそれらがあるのである。それがPCR検査や、自粛要請に対して語るあの泳ぐような視線の表情と検事の定年延長や解釈改憲を語る時の何かに憑かれたような視線のそれとの違いになって現れているのである。
今回の緊急事態の対応について問題は憲法にあるのではない。限界を迎えた近代資本主義により、我々一人一人の中で、「公民」と「私人」が極端に分離してしまったことこそが問題なのである。法的根拠がなくても、社会、隣人のためにしなくてはいけないことを、自粛をするのが公民であり、自分の欲のために自粛しないのが私人である。社会の中で、家で自分の課題に取り組みながら自粛している人とパチンコ屋に行く人に別れている社会は「解放された社会」ではないし、また個人の中で、他人に自分がコロナウイルスをうつすことがないように自粛しなくてはいけないというのは分かっちゃいるけど、パチンコ屋に行ってしまうというのは「真に解放された個人」ではないのである。
「真に解放された個人」とは、隣人愛を得た、つまり自分を愛するように隣人を愛することができるようになった人間であり、隣人を気遣い、それが自分を気遣うことと内心で対立することのない、そういう人間である。あまりにキリスト教的になってしまうので表現を変えると、孔子が論語(顔淵篇)のなかで「克己復礼を仁となす」ということがそれに相当すると思う。
社会が、個人が公民と私人に極端に分裂していることが問題であるのに、その止揚を図らず、いたずらに憲法を改正して、外から強権的に緊急事態に対応しようとするのは本末転倒である。
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さかんに自粛が叫ばれているが、残念ながら若い方々の合コンや老人のナイトクラブ通いは続いている様である。こういうことについての心理分析というのは寡聞にして知らない。「若い人はこういうことに従わないのがカッコいいと思っている」という意見をどこかで見たが、説得性はないし、それでは不良老人はどうなのかというと余計説明がつかない。
この現象は、内向き、外向きという事でその意見よりは包括的に説明がつくと思う。これは心理学者ではなく、夜回り先生として知られる水谷先生の説であるが、「子どもは、いじめられると4通りの型のストレス処理をする。(1)いじめられると他の友達をいじめてストレスを晴らす型、(2)いじめられると学校からいなくなる型(非行に走るタイプ)、(3)引きこもる型、(4)自傷する型 である。」この葛藤処理の型の(1)、(2)を外向き、(3)、(4)を内向きとするのである。もっとも外向きが(1)、もっとも内向きが(4)ということになる。
(1)、(2)が外に向かって何かをする、(3)、(4)が内に向かって何かをするということはおわかりいただけると思う。今の時代は、外向きの人を評価する。外に働きかける、例えば、クラブの部長をする、生徒会の役員をする、ボランテイアをする、そういう行為に学校は高い評定を与える。こういう行為が向いている、好き、楽にできるのが「外向き」の人達である。一方、「内向き」の人は、心が豊かになるという利点を持ち、相手の気持ちを察するということが得意なのであるが、こういうことは学校では滅多に評価されない。結果として、今の社会では社会から「外向き」の行動を取ることが求められ、その同調圧力が「内向き」の人が社会に入りづらい、社会が怖いなどの要因になっていると感じる。
社会の圧力が今までと違い「自粛する」となった時、今までとは逆に、心理的には、外向きに人には辛い状況、内向きの人には対してそんなに辛くない、むしろ楽な状況が出現したのである。わかっちゃいるけど外出をやめられない人は「外向き」の人が多いのであろう。外向きの人がストレスが過大になった時、自分のみならず、他の人にとっても安全にストレスを処理する方法を自分で考えだして欲しい。「自分で」ということは外向きの人には得意なのだから。
自粛がなぜ必要なのか? すでに自粛している人たちはここは飛ばして読んで欲しい。
コロナウイルスは原則、人から人にしかうつらない。人に会わなければ感染することはない。だから、コロナウイルスに対するワクチンがない、抗ウイルス剤がない(とされる)つまり特異的な治療法がないので、感染を防ぐためには、できるだけ「人に会わないこと」しかないのである。それしかないのである。ここは自粛しない人を対象に書いているので、あえて実例を出す。「志村けん」である。人から人にしかうつらないのだから、彼にうつした人は必ずいるということである。そのうつした人にあなた自身がならないためには、「人に会うこと」をできるだけ避けるしかないのである。彼はタレントなので、芸のみならず、パンくん、プリンちゃんとの関係も知れ渡っている。日本ではPCR検査を広く行わないことを国家が決めた(在日米国大使館の文書から引用)のだから、全ての日本人は自分が感染者として行動しなくてはいけない。あなたが、そして私がうつすかもしれない目の前の人にも、志村けんと同様に、仕事も、家族があり、彼らにとってのパン君もプリンちゃんもいるのである。パン君、プリンちゃんから、志村けんを奪った犯人に自分がならないために、すでに「政治崩壊」している政府の言う事ではあるが、それに能動的に従い、自粛する事しか今はないのである。
今回のコロナウイルス感染爆発は、我々が持っている「行動様式」エートスを変えることを迫っているのである。それを、new normal という人もいる。しかし、マックスウェーバーが言うごとく、エートスを変えるのは長年の教育によって、あるいは「カリスマ」によってしかないのである。行動様式を変えられれば、コロナウイルスは克服できるのである。グローバリゼーションと言われながら、今回のコロナウイルス感染が教えたことは、行動様式が、ITの発達にもかかわらず、以前のままであったことで、これを変えられるかどうかが今回の試練を克服できるかどうかのポイントであろう。
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