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青葉心理クリニック

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克己復礼
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    克己復礼

     

    安倍首相が緊急事態への対応を憲法にどう位置付けるかを憲法改正を目指す立場の人たちの団体へのビデオメッセージとして送ったとの報道があった。(5/3)

     

    数々の「忖度」問題、アベノマスク、十万円支給をめぐる予算組み替えなどの指導力のなさを露呈してきた安倍首相と憲法改正を語る安倍首相の違い、内容のみならず、それらを語るときの顔つき、話し方の違いにお気づきであろうか?

     

    何が違うのか?

     

    それは意志と情熱である。

     

    十数年前にこのブログでマルクスの「疎外」概念について吉本隆明の「カール・マルクス」を紹介したことがあるが、その本の中に「歴史の唯物弁証法的な理解方式は、マルクスの言うように人類の始原と共に古い、一つの現実理解の原則的真理である。だが原則的真理なるものは真理である限りに於て、人を納得せしめるだろうが、決して人を動かすことは出来ない。真理は唯情熱の形式を以って貫かれたとき始めて人を動かすのである。」という記載がある。

     

    思想は意識作用の表象である言語によってしか伝えることが出来ない。それだけでは、他人を動かすことは出来ない。人は無意識の欲望によって動くのである。だから、「思想は実践行為の原動としてこれを媒介することはない」のであり、「思想と実践を媒介するものは意志と情熱とに外ならない」のである。

     

    安倍首相は、コロナ禍に対しては、情熱も意志もないのであり、憲法改正に対してはそれらがあるのである。それがPCR検査や、自粛要請に対して語るあの泳ぐような視線の表情と検事の定年延長や解釈改憲を語る時の何かに憑かれたような視線のそれとの違いになって現れているのである。

     

    今回の緊急事態の対応について問題は憲法にあるのではない。限界を迎えた近代資本主義により、我々一人一人の中で、「公民」と「私人」が極端に分離してしまったことこそが問題なのである。法的根拠がなくても、社会、隣人のためにしなくてはいけないことを、自粛をするのが公民であり、自分の欲のために自粛しないのが私人である。社会の中で、家で自分の課題に取り組みながら自粛している人とパチンコ屋に行く人に別れている社会は「解放された社会」ではないし、また個人の中で、他人に自分がコロナウイルスをうつすことがないように自粛しなくてはいけないというのは分かっちゃいるけど、パチンコ屋に行ってしまうというのは「真に解放された個人」ではないのである。

     

    「真に解放された個人」とは、隣人愛を得た、つまり自分を愛するように隣人を愛することができるようになった人間であり、隣人を気遣い、それが自分を気遣うことと内心で対立することのない、そういう人間である。あまりにキリスト教的になってしまうので表現を変えると、孔子が論語(顔淵篇)のなかで「克己復礼を仁となす」ということがそれに相当すると思う。

     

    社会が、個人が公民と私人に極端に分裂していることが問題であるのに、その止揚を図らず、いたずらに憲法を改正して、外から強権的に緊急事態に対応しようとするのは本末転倒である。

     

    | 1.サイコセラピー | 06:27 | - | - | - | - |