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青葉心理クリニック

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母子癒着 その4
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    3 . 「母性社会日本の病理」から

     

    ユング派のいわゆる元型として「永遠の少年」puer aeternus がある。語源は少年の神で、大地母神の力を背景に、死と再生を繰り返すことで、いつも若返って成年に達することの無い神である。現代社会の「永遠の少年」は、多くは成年に達していながら、少年のままでいる。ユングの弟子のフォン・フランツの記述では、彼らは社会への適応に何らかの困難を示しているが、彼等は自分の「特別な才能」を曲げるのが惜しいので、社会に適応する必要はないのだと自分に言い聞かせたり、自分にぴったりの仕事がなかなか見つからないと思ったりしている。ともかく、何やかやとやってみてある程度のことはしてみるが、いまだそのときが来なかったり、いまだ本当のものが見つからなかったり、「いまだ」の状態に置かれたままでいる。このような将来への期待が膨れ上がる時は、全人類を救う事を夢見たり、偉大な芸術作品を発表する事を想像したりするが、残念ながら「いまだその時ではない」のである。彼等にとって一番難しいことは、一つのことに持続的に打ち込むことである。時には、他人を感嘆させることー相当危険に満ちたことーをやってみせるが、それに持続的に取り組むことはしない。危険性よりも忍耐の方が数倍おそろしいのである。
    「永遠の少年」のよさは、、慣習にとらわれず、直線的に真実に迫り、理想を追い求める姿勢を持っていることである。彼等は無意識から送られてくるひらめきに対してよく開かれた心を持っている。ただ残念なことに、そのひらめきを現実化する力を持ってないだけである。
    このような「永遠の少年」達は話し相手としては、真に興味深い、楽しい相手であるが、仕事の協力者としては最も信頼できぬ、ときには危険な相手ですらある。
    もっとも、「永遠の少年」は、このように魅力を備えているもののみではなく、眠っているのではないかと思うほど、無為な日々をおくっているタイプもある。ひたすら「時」がくるのを待ち、その間を何もせずに過ごしているのである。しかも、その「時」は永遠におとずれないかもしれないのであるが。
    これらの「永遠の少年」たちは、すべて母親との心理的結びつきの強さを特徴としている。ここに「母」と述べたことは、実際の母でなくてもよい、「母なるもの」とでもいうべき存在との強い結びつき、母親コンプレックスの強さが特徴的である。このため、彼等は多少ともドン・ファン的か、同性愛的である。
    彼等は女性の中に母なる女神を求め、次々と対象を探しだすが、それが単なる女に過ぎないことがわかったとき、また、母なる女神を求めて他の女性に向かってゆかねばならない。あるいは、男性性がそれほども確立していないときは、同性との集団行動の中に安定を見いだしたり、同性愛的なパートナーを得ることによって満足する。

    大変長い引用になったが、母子癒着についての具体的、かつ網羅的な提示としてこの部分は優れていると思う。ただ、ここでは「永遠の少年」を取り巻く、社会、世界にはふれられていない。個人の心の中にはそれらのあり方も反映される。そこに日本の母性社会の問題もあるのだ。しかし、あくまでこの母子癒着と言うのは子と母の問題が主である(そこにファルスを加えるのがラカンであるが)。社会の問題が主であるとして捉えるなら、その社会の多くの人が母子癒着になるはずであり、発生的に考えてもあくまで社会の問題は従である。

    母性の原理は「包含する」機能によって示される。すべてのものが絶対的な平等性を もつ。「わが子であるかぎり」すべて平等に可愛いのであり、それは子供の個性や能力とは関係のないことである。しかしながら、母親は子どもが勝手に母の膝下を離れることを許さない。それは子どもの危険を守るためででもあるし、母ー子一体と言う根本原理の破壊を許さぬためと言ってもよい。このようなとき、ときに動物の母親が実際にすることがあるが、母は子供を呑み込んでしまうのである。かくて、母性原理はその肯定的な面においては、産み育てるものであり、否定的には、呑み込み、しがみつきして、死に到らしめる面を持っている。

    萌芽としての弱い自我にとって、世界は自我を養い育てる母として映るか、あるいは出現しはじめた自我を呑みこみ、もとの混沌へ逆行せしめる恐ろしい母として映るか、両面性を持ったものとして認められるであろう。

    非常に分かりやすい記載で、母親の否定的な面についても述べているが、果たしてこの否定的な面は肯定的な面で釣り合いを取ることなどできるのであろうか?  いや、肯定的な面の動機を考えたときにそれはナルシシズムに過ぎないのではないのか? 肯定的と言えるのであろうか? 母親のエロチシズムは深淵、つまり縦のエロチシズムであり、ここで述べられている母性は水平のエロチシズムであり、その点が実際の母子癒着のケースで、言葉で説得して癒着を剥がそうとする分析家、医者、心理療法家などが、お説教と大して変わらないことしか言えないことの理由なのではないか?

    バタイユについて三島が「この本(エロチシズム)を私が最も面白く思った点は、すべてにおいて独断的なきらいはあるが、エロチシズムの問題に、これまでにない広い包括的な展望を与えようとしている点である。」と言っているが、独断的でありながら三島が納得するのは、「その普通ではない育ち方(吉村隆明)」が納得させているのだと思う。その独断的なところをラカンは、例えば「要求」する主体が絶え間なくさらされている脅威が、しばしは母親に飲み込まれる恐怖というかたちで主体の心に現れてくる というように要求というものをそこにおくことで説明している。しかし、おそらく垂直方向のエロチシズムは言葉で迫ることは難しいので、普通でない育ち方をしなかった人間には体感できないのであろう。繰り返しになるが、「母は、神に向かって我々を(垂直のエロチシズムに)いざないゆく誘惑者であり、神自身ですらあるが、自分の体現する最高理性へ人を誘い寄せる通路が、官能の通路しかないことを知悉しており、しかもこの官能は錯乱を伴っていなくてはならないのである。彼女の愛は残酷であり、自ら迷うことなく、相手を迷わせ、滅亡の淵に臨ませ、相手の官能的知的欲求のギリギリの発現をきびしく要求し、叱咤する」のである。
    この「母」と「永遠の少年」が母子癒着をしているのだから、治療者がもし存在するとしたら、覚悟と(ラカンの言う)倫理が必要となろう。三島が解説の最後に「小説「わが母」の最後の母の独白は、おそるべき最高度の緊張に充ちた独白であるが、全篇を読んだ人の感興にのみ真に深く訴えるこの独白を、私はわざと引用しないでおこう。」で結んでいるが、読んだ人はそこに真の意味での現実的ファルスを読み取るとおもう。治療者は母の「魅きつける力」(La Force D’Attraction ,JーB・Pontalis) と絶望的に戦わなくてはならないのである。

    母子癒着がなぜいけないのかについて、突き詰めれば、子供が社会に入っていくことができないからなのであるが、その理由はラカンの言う意味での道徳的な理由であり、もっと平たく言えば経済的な理由からなのかもしれない。決して同じく倫理的な理由ではない。「わが母」の場合のように経済的に働かなくともいい場合には放置しても良いのだが、カウンセリングに訪れるのは、いずれ経済的に破綻する事は明白なので、なんとかしてほしいという動機がほとんどなのだから、アドバイスは道徳的にならざるを得ない。けれども垂直のエロチシズムの魅きつける力に、道徳は無力なのである。

    河合隼雄は、父性原理を確立しつつ、なおかつ母性との関わりを失ってしまわないことと説くが、確かに精神分析理論からは、子と母の一体化にくさびを打ち込むのが父の作用であるから、その通りなのだが、垂直のエロチシズムが作動してしまっているのに、発達理論を持ち出しても学問的には正しくても、現場では役にたたないのは道徳的説教と同じである。私見ではあるが、「毒を以て毒を制する」ことしかないと思う。「わが母」の中にもアンシーという女性が登場するが、この人がまさに、毒を以て毒を制する可能性を秘めていると思う。また、「毒」という表現からは縁遠いが、ファウストが最終的には、永遠に女性的なるもの das Ewig-Weibliche に導かれて天に昇ったように、救いの道はそこにあるのではないかと思う。具体的な処方は劇薬になるのでここでは書かない。

     

    | 1.サイコセラピー | 06:07 | - | - | - | - |