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青葉心理クリニック

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母子癒着 その2
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    1. 文学作品に現れた母子癒着

    バタイユの「わが母」、「マダム・エドワルド」、そして「エロチシズム」を解説して三島由紀夫が次のようなことを言っている。もちろんこのブログの趣旨は「わが母」にあるのだが、伏線として先に他の2つから述べて行く。

    生の本質は非連続性にあるという前提から出発する。個体分裂は、分裂した個々の非連続性をはじめるのみであるが、生殖の瞬間にのみ、非連続の生物に活が入れられ、連続性の幻影が垣間見られる。しかるに存在の連続性とは死である。かくてエロチシズムと死とは、深く相結んでいる。「エロチシズム」とは、われわれの生の、非連続的形態の解体である。(エロチシズム)

    バタイユがエロチシズムを解明していくとき、その手段として用いている概念が「禁止」である。

    禁止は元来、科学の事柄であった。(中略)禁止がなければ、禁止の関門がなければ、人間は明白な意識に到達することができなかっただろう。他ならぬ科学はその意識の上に築かれているのである。(エロチシズム)

    科学を以てバタイユは文化全般を代表させ、現在ある如き労働の世界を成立させた諸種の文化的禁止を手掛かりにして、今や忘れられているエロチシズムの深い闇の奥へ入って行こうとする。

    バタイユが、エロチシズム体験に潜む聖性を、言語によっては到達不可能なものと知りつつ、(これは又、言語による再体験の不可能にも関わるが)、しかも言語によって表現していることである。それは「神」という沈黙の言語化であり、小説家の最大の野望がそこにしかないのも確かなことである。そして小説に登場する神として女が選ばれたのは、精神と肉体の女における根元的一致のためであり、女の最も高い徳性と考えられる母性も、もっとも汚れたものと考えられる娼婦性も、まさに同じ肉体の場所から発してという認識に依るのであろう。

    万難を排して存在を断ち切るべく、自己を超越するなにものか、すなわちわが意に反して自己を超越するなにものかが存在しなければ、私たちは、全力を傾けて指向し、同時にまた全力を傾けて排除する不合理な瞬間に達することはない。(マダム・エドワルド)

    この「不合理な瞬間」とは、いうまでもなく、おぞましい神の出現の瞬間である。(なぜおぞましいのかは、実際にこの小説をお読みになることである。)

    けだし戦慄の充実と歓喜のそれとが一致するとき、私たちのうちの存在は、もはや過剰の形しか残らぬからだ。(中略)過剰のすがた以外に、真理の意味が考えられようか?(マダム・エドワルド)

    つまり、われわれの存在が、形を伴った過不足のないものでありつづけるとき(ギリシャ的存在)、神は出現せず、われわれの存在が、現世からはみだして、現世にはただ、広島の原爆投下のあと石段の上に印された人影のようなものとして残るとき、神が出現するというバタイユの考え方には、キリスト教のの典型的な考え方がよくあらわれており、ただそれへの到達の方法として「エロチシズムと苦痛」を極度にまで利用したのがバタイユの独自性なのだ。
    ここまで、精神と肉体ののあんなにおける根元的一致のためにバタイユの小説に登場する神として女が選ばれ、その場で主体に自己を超越することで、不合理な瞬間を創り上げることで神を出現させることが、小説の目的なのだということが理解されよう。

    ここでの主題の「わが母」は、倒錯と狂気の果てに、神聖な精神的母子相姦で終わる物語であるが三島は「この作品から、私が、近来の日本の小説でどうしても癒されなかった渇を、癒すことができたのは事実だった」と書いている。三島は、太宰治、夏目漱石、芥川龍之介と同様に母子関係が普通ではない育ち方(吉村孝明)をしているから、それゆえの「渇」なのであろう。

    「あたしは、死の中でまでお前に愛されたいと思います。あたしのほうは、今この瞬間、市の中でお前を愛しています。でもあたしがいまわしい女であることを知ったうえで、それを知りながら愛してくれるのでなければ、お前の愛は要りません。」(わが母)

    人を堕落に誘うとは、真理にめざめさせることであり、彼女はもはや究理者ではなくて、その信じる真理の体現者でなければならず、要するに究極的に「神」でなければならないのである。これがバタイユ小説のおそらく根本的な構造である。

    では「母」とは何か。母は、神に向かってわれわれをいざないゆく誘惑者であり、神自身ですらあるが自分の体現する最高理性へ人を誘い寄せる通路が、官能の通路しかないことを知悉しており、しかもこの官能は錯乱を伴っていなければならないのである。彼女の「愛」は残酷であり、自ら迷うことなく、相手を迷わせ、滅亡の淵に臨ませ、相手の官能的知的欲求のギリギリの発現を厳しく要求し、叱咤する。「お前はまだあたしを知りません。あたしに到達することはできませんでした。」母の堕落の真相を知り、その中に巻き込まれて気息奄々たる息子に答えて、母が言うこの言葉は正しく神の言葉である。

    人間の神の拒否、神の否定の必死の叫びが、実は「本心からではない」ことをバタイユは冷酷に指摘する。その「本心」こそ、バタイユのいわゆる「エロチシズム」の核心であり、ウィーンの俗悪な精神分析学者などの遠く及ばぬエロチシズムの深淵を、われわれに切り拓いて見せた人こそバタイユであった。

    母子癒着とは、このようなエロチシズムの深淵に関わることなのであり、精神的知的母子相姦のデヌーマンなのだということを最初に理解した上で、心理学的な記載を理解されるべきだと考える。

     

     

     

    | 1.サイコセラピー | 06:11 | - | - | - | - |