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青葉心理クリニック

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心のモデルと気持ちの理解 3
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    心のモデルと気持ちの理解 3


    エイク、フェルメールと書いてきたが、次はハンス・ホルバインである。ホルバインの「使節たち」はラカンの「精神分析の四基本概念」の初めに掲げられていて、この絵を正面からの遠近法(我々が通常絵画を見る見方)でみると、精密な描写で二人の使節と当時の科学、芸術の最先端を現す天球儀、地球儀、楽器などが置かれている。その使節たちの足元に楕円形のなんだかわからない大きなシミのようなものが描かれている。このシミみたいなものは正面からではなく(正面からの遠近法ではなく)、左下から見るとドクロとして現れる。これはアナフォルモーズと呼ばれる技法である。アナモルフォーズは、絵画とはただ空間における事物を写実的に再生するだけのものではないことを我々に示すと言われる。さらに、ここ技法はリアリティを作り出す遠近法の虚構性を暴露するような歪曲であるとされる。それは、ドクロがはっきり現れるときには使節たちははっきり現れず、逆に使節たちがはっきり現れるときにはドクロはシミと化すということである。デカルト的主体が世界を見る見方も正面からの遠近法であるが、この正面からこの絵を構成している位置が、この絵を構成する秩序である。このことは以前のブログで「消失点」について述べたことと同じである。しかし、このドクロが意味するのは、デカルト的主体とは違う位置に立つことで、デカルト的主体の実測的次元に内在する欠如の機能が明らかになる。これはポール・リクール的な言い方をすれば、「言うこととは違ったことを意味する」という意味での象徴的なものと言える。この議論からは、「眼差し」とは、フェルメールの少女の目の白い点と同じく、ホルバインの使節たちの足元の大きなシミ、ドクロがそれなのである。

     

    ここで、もう一度エイクの絵に戻ろう。極めて写実的と言われながら、例えば「ロランの聖母子」の床が下方に向かって不自然に広がっている。こうすることで描かれた床が現実の床と連続して鑑賞者に感じられるようにしているのである。こういう技法もまた、絵画とはただ空間における事物を写実的に再生するものではないことを我々に示しているのであろう。

    技法に優れたこの三人の画家が技法は違うにせよ、全て写実ではないことがわかる。

     

    人間の目はピントが合っているのは視野の中心だけで、それを人間の頭の中でパンフォーカスなものに変えているので、フェルメールのところで述べた筆使い、大まかで、大雑把というのはこのため、すなわち人間が見たとおりのものを描くためだったとではないかと気付かされるのである。


    また上に述べた三人の他に、ベラスケスについても、「黒衣のフェリペ4世」で見られるように遠近法を使わないで、影で奥行きを表現している。それは、第三者の審級のない絵ということになるわけで、その点についてはいずれ詳しく述べてみたいと思っている。同じベラスケスの「王女マルガリータ」ではその三人の技法からさらに自分の目の映像をそのまま描いているのがわかる。拡大するとドレスの生地の質感は無くなるが、普通に見ると触感さえ感じられるような質感である。この自分が見た真実に忠実に描くことが、フェルメールの「光を描くこと」と共に、印象派の父(もっともマネ本人はそう思われることを嫌ったらしいが)と呼ばれるマネに影響を与え、それが「オランピア」の裸婦の色彩による強烈な現実感につながり、光を描こうとした印象派の画家に影響を与えたのであろう。

     

    エイク、フェルメール、ホルバイン、マネ、モネ、・・・・・という流れを美術史とは言えないかもしれないが、そういう位置づけをして初めて見えてくるものがある。こういうことが、丸山真男が「日本の思想」で言っている思想的座標軸に当たるものなのだと思う。それもまた稿を改めたいと思う。

    | 1.サイコセラピー | 14:58 | - | - | - | - |