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青葉心理クリニック

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心のモデルと気持ちの理解 2
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    心のモデルと気持ちの理解 2

     

    ヤン・ファン・エイク、ヤン・フェルメール、ディエゴ・ベラスケスはご存知のように精緻な描写で名高い画家である。しかし絵における表現自体はかなり異なる。例えば、前二者の絵を比較してみよう。ファン・エイクの「ファン・デル・パーレの聖母子」と フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」は、前者が白い服をまとった老人の瞳にエイクがこの絵を描いたアトリエの窓枠が反射しているの間で描かれている。後者は、少女の瞳には、人為的に不自然な白い点が描かれている。それにフェルメールの絵はエイクやベラスケスに比べると筆使いは大まかで、大雑把である。 しかし、エルクの絵が「目」を描いているのに対してフェルメールの絵は「眼差し」が描かれている。このことをある美術史家は、『フェルメールは自然のとおりの即物的な光を描写するかわりに、かならずしも自然のとおりではないけれど、人物に生命感を与えるような光を描き加える。そのことによって、瞳は単に外光に反応する肉体の一器官としての「目」ではなく、内部に精神を宿した「まなざし」となる。そのとき画家は、自分が見た対象としてではなく、画家を見ている「人間」を描くことに成功したのである。』と説明していた。

     

    ここで、実際にフェルメールの真珠の耳飾りの少女を見て、何を感じるかである。しばらく前に仙台でもこの絵の実物が見られたこともあり、質問すると「あの青が綺麗」という多数の意見に混じって「親しさをじる」、「自分が見つめられたよう」という感想が聞かれた。それは、美術史家が言うように人間を描くことに成功しているからなのであろう。

     

    ここでラカンが「精神分析の四基本概念」の 「宗ヽ┐箸浪燭 」の中で『見ることは、何かを見ないでじっとしていることによって可能となっていて、この見えない何かが「眼差し」である。』としている。また、他の箇所で『眼差しには「欲望」の機能が働いている。』、『見えるものの領野における対象「a」、それはまなざしである。』と言っている。 この美術史家のいう「まなざし」とラカンのいう「眼差し」が同じものだとすれば、フェルメールの絵には対象「a」が描かれてはいないが、現れているということになる。フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」に感じるものがラカンのいう『眼差し」、つまり対象「a」として欠如(ーφ)の水準で機能することができる。

    | 1.サイコセラピー | 21:42 | - | - | - | - |