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青葉心理クリニック

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心のモデルと気持ちの理解 1
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    心のモデルと気持ちの理解 1

     

    ある認知脳科学(cognitive neuroscience)の本に 『心とは脳の働きの一部であって、「知覚ー記憶ー意識」の総体であると位置づけた』とあり、これにより心の最も単純な(仮説としての)モデルを構築しさらに、言語と脳の関係を明らかにするために、『言語は心から生まれるわけだが、発せられた言葉は再び心に返って理解される』という再帰性をこのモデルに導入した言語と心の関係のモデルを提示している。もちろん、こういう仮説としてもモデルは再単純型が良いことは経済学におけるケインズのモデルからも明らかなことではある。確かに、このモデルから、さらに、『言語を心の外にある実体と考えるよりも、心の働きの一部と考える』という進展は心と言語の関係を理解するには優れたモデルであろう。しかし、言語、心、脳というそれぞれのものを結びつけて考えるには何か欠けていると感じた。何が欠けているのか?

     

    絵画の話からその説明をしたい。フェルメールの絵に関して「気持ちのいい絵だ」と評した人がいるが、上記のモデルで考えると この「気持ちがいい」の「気持ち」が心から抜けてしまうのである。この人は、気持ちは重要で、革命も、恋愛も、創作も、決勝戦も、最後のところは気持ちがその行方を決めるのだからと言っている。決勝戦というのがやや異質に思われるが、それは彼が野球が好きで、勝負を決めるのは、最後のところでは(勝ちたいという)気持ちなのだという思いがあるからだろうと思う。こういう気持ちを心から排除して心のモデルを作るのは、物事を、何の役に立つのか、何か得になるのかのように言葉で説明できることを求める人(現代の人にはそれが多いし、それが科学的だと信じている人ばかりのように思える。)なのだと感じる。しかし、この人のいうとおり、『言葉というものは目の粗い笊(ざる)のようなもので、気持ちなんて形のないものは全部笊の目からこぼれ落ちる。』ということになる。ここまでは異論はないのだが、『言葉の笊の中には何も残らない』というのは絵画に関してであって、日常の世界を生きる我々には、言葉の笊の中に残るのは「知覚ー記憶ー意識」であると思う。この視点から心のモデルを「知覚ー記憶ー意識ー無意識(気持ち)」として再構築すべきではないのかと思っている。

     

    その理由は、カウンセラーの仕事は、笊からこぼれ落ちてしまう「気持ち」を捉えること、捉えようとすることが大切だと思うからである。

     

    しかし、気持ちを捉えることには技術、技法が必要であり、それはただ資格を取って、経験を重ねるだけではなかなか自家薬籠中ものとはならない。

     

    このことを述べるのにあえて絵画から入ったのは、絵画の理解と気持ちの理解が同型だと思うからであり、また脳科学や心理学だけではなく、広く世の中にあるものを自分で経験し、自分の感性に合ったものを深く求める、つまり「道を究め」ようとすることがその理解に必要だと思うからである。

     

    稿を改めて具体的に絵画の話をしたいと考えている。

    (続く)

     

    | 1.サイコセラピー | 06:55 | - | - | - | - |