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青葉心理クリニック

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Improvisationとしてのカウンセリング
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    Improvisationとしてのカウンセリング

     

    Improvisation は「即興」であり、ほぼ アドリブ(ラテン語 ad lib)と同じ意味である。定禅寺ストリートジャズフェスティバルという催しが例年9月に仙台で開かれているが、実際の演奏はJazzには普通分類されないものの方が多い。高校の時に不登校で相談に来られた方で、音楽的な才能の豊かな方がおられ、その方にそのジャズフェスのことを話題にして、Jazzの定義ってなんなんだろうと聞いたら、「掛け合いのあること」と答えられた。例えば、ピアノとサックスの奏者がいたとして、個人としては別々の存在であり、それぞれの演奏をしながら、譜面という形式よりも演奏時の知覚を優先して、お互いの演奏が別の何かをつくりだし、かつそれが「音楽」という枠をはみ出さない、そういうものをImprovisation というのであろう。彼はそれを「掛け合い」と表現したのであろう。個々の存在である二者が、音楽なら演奏という場、カウンセリングなら人工的に造られたコミニュケーションという場で、現実には別々の存在でありながら共通の場を作り上げる、ある意味それは幻想の場なのかも知れないが、一人、一人でいたときには無かった何かが、ある条件、例えば共に演奏すると、そういう何かが立ち上がる、カウンセリングの場ではそれが共感なのだと思う。どうして他人の心が分かるのかというのは、直感的、経験的にはそう思えるが、厳密に分析していくと、例えば公準のようなものを持ち出さなければならないような難問なのである。デカルトの「我思う、故に我あり」でわかるように哲学者というのは自分を想う、内省することだけでいい、つまり一人関係でいいのであるが、心理、医療、看護、福祉という職業は二人関係が主であるから、そうはいかない。私がこう感じる、こう考えるから、他人もそうだろう、そういういわば思い込みで納得するわけにはいかない。この辺を掘り下げるとパラノイアになりかねないので、先の演奏を例にとると、楽譜という形式に沿ってそれぞれのパートを演奏しながら、演奏時の感覚、知覚を形式に優先させる事により別々の演奏が一つになり、新しい何かを立ち上げる、そういうものが立ち上がった時に、そこにImprovisationという場が立ち上がるのだろう。カウンセリングの場ではそれが共感なのだと思う。そういう場でふたりは一人でありながらも二人ということができる。こういう関係にある時の自分を「自己」といい、あくまで一人だけでいる時の自分を「自我」というのではないか。

    早朝覚醒の朝にこんなことを考えていて、ふと思ったのが、「何かが立ち上がる」ことと、意識が立ち上がることの同型性である。意識の場での個々の存在は、個々のニューロンの存在である。それが、他のニューロンとシナプスを介して結ばれ、やがて視床ー皮質間のような極めて複雑な回路を形成するようになる事で、個々のニューロンの働きの総和を超えた全体としての神経回路の働きの総和が生じ、その超えた分が意識の働きとなるというコッホの仮説との同型性があるように思える。

    こういう考え方が許されるならば、カウンセリングの有効性の鍵は、上述した意味での『自己』と言う場が、カウンセラーとクライエントの両者に立ち上がるかどうか、Improvisation ができるかどうかだと思う。

     

    | 2.エッセイ | 05:10 | - | - | - | - |