RECOMMEND
RECOMMEND
SELECTED ENTRIES
CATEGORIES
ARCHIVES
MOBILE
qrcode
LINKS
PROFILE
OTHERS

12
--
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
--
>>
<<
--

青葉心理クリニック

<< 患者は医者を選べるが、医者は患者を選べない。 | main |
『他者』
0

    『他者』

     

    前に述べたように、ストレスチェックの余波で、いわゆる正常者でストレスを過大に抱え込んでいる方とお話をさせて頂く機会が増えてきて、だからこそ以前より強く感じるようになったのが『他者』である。何が過大なストレスの源かと言うと、抽象すると『他者といかなる関係を結ぶか』という事になる。病気が関係してくると他者との関係を結べないレベルになる訳だが、いわゆる正常者であるために、関係自体は持つ事は出来るが、それが過大なストレスの原因になる場合、単純化しても、当事者同士のどちらか、或いは両者が悪いと言うこともあるが、どちらも悪くないが関係が悪いとでも言うしかないものもある。これを対象関係論で、即ち、対象の持ち方に、部分対象と全体対象を置き、前者は幼稚な、後者は成熟した関係として、人格障害を理解して行くやり方で解釈するのではなく、より根源的に考えてみたい。

    説明に便利なので、他者をラカンにしたがって、小文字の他者(今あなたの周りにいる普通の他者たち)と 大文字の他者(神様にイメージされるあなたの生殺与奪の権を我が物にしているような圧倒的な他者)とに分けてみたい。大文字の他者として初めてあなたに現れるのは「母親」(カッコを付けたのは、母親の役割をしてくれる人と言う意味で、別に生物学上の母親である必要も無いし、女性である必要もないからである。)である。幼少時、寄る辺ない存在であったああなたにとって「母親」はあなたの生存を支配する絶対的な存在であった。そういわれると、頭では理解するかも知れないが、大きくなったあなたにとってはなかなか実感はなくて、今付き合っている人のほうが大切であろう。なぜそうなのか、そうならないと大人といえない、社会にでれない、いろいろな便宜上の理由はあるが、そのより始原的なことを考えてみたい。ここから比喩を用いた説明になる。絵画の技法に vanishing point 消失点というものがある。平面的な絵画に立体感を与えることができる技法であるが、われわれが普通に景色を見る時に脳裏に浮かぶその像も、普通は3点の消失点をもっている。ちなみに消失点が一つの絵画として、ダヴィンチの「最後の晩餐」がある。絵の中央のキリストの頭の上にそれが設定されているが、勿論、その絵には像としての消失点は無い。絵には描かれていないが、その絵を陰で支えているもの、それが消失点であり、その様なものが「母親」なのである。なぜ大文字の他者が必要なのか?それは消失点がその絵に秩序を与えるように、あなたが母親の子宮といういわばエデンの園から放逐された後に、魑魅魍魎としたこの世界を理解可能にしてくれるのが「母親」であり、あなたにとっての始原的な大文字の他者なのである。ただ、この始原的な大文字の他者は、貴方にとって不安を引き起こすものでもある。つまり、在ー不在が不規則なのである。在のときは貴方の世界に秩序をもたらすが、不在のときには世界は再び混沌としたものになる。もちろん栄養摂取の欲求という生物的な理由もあるのだが、世界に秩序を与えてくれるという「母親」の存在が、あなたが成長して大人になって、その大文字の母親が、非人称の大文字の他者(例えば、神のイメージ)に代わったとしても、始原の大文字の他者としての「母親」の痕跡は残る。この「母親」との関係を基にして、その後の父親、同胞、友人、恋人というような小文字の他者との関係が成り立ってくるのである。あなたの世界の消失点が「母親」だということが理解されたときに、この「母親」が気まぐれであるという事が、あなたの世界の後世に影響を与える。なぜ気まぐれであるのか?そこに母親の欲望がある。子供にとって、「他者」がいつもそばにいてくれることが、世界に秩序を与え、この世界にいてもいいことを保証してもらえることなのである。しかし、母親の欲望は気まぐれである。いつもあなたを欲望しているわけではない。あなたは何とか、母親の不在の時も世界に秩序を与えたい。気まぐれな母親の欲望を、気まぐれではないものにしないとあなたの世界に秩序がなくなってしまう。そこで、母親の欲望の先に「父親」(これも実在の父親ではなく、『大文字の父親』)の欲望を見なくてはいけなくなる、ここで「父の名」が必要になり、そしてエディプスコンプレックスにつながるのだが、今はそこには触れない。

    むしろ、母親の欲望が気まぐれである事はあなたには悪いことのように感じられるかも知れないが、もし気まぐれではなくてあなたしか欲望しないとか、気まぐれなのにあなたがそれを気まぐれではないと勝手に理解してしまったら、「他者」はあなたが望むようにあなたを欲望してくれると思うであろうし、そうなると、大文字の「他者」の欲望はあなたにとって確信的なものに成り、ひいてはその延長線上にある、小文字の他者」の欲望も確信的になる。それはパラノイアの世界ではないか。「母親」の欲望が気まぐれであることで、母親に欲望されることを欲望するあなたの欲望は、必然的に弁証法的展開を見せる事になる。この「揺れ」(恋占いを花弁で行うことをイメージしていただけると分かりやすいと思う。)こそが、あなたが、他者の欲望を欲望する時に、他者の欲望に幅を与えてくれるわけで、単純化の誹りは免れないであろうが、その幅の無いのがパラノイアの対人関係、幅が狭過ぎるのが、今問題にしている正常者の悩める対人関係、そもそも「他者」が存在しないのが精神病の対人関係ではないのかと思う。

     

    最後にきわめて情緒的ではあるが書きたいことがある。このブログを書いている時にBSの番組で、何十年かぶりでマイク眞木が歌う「バラが咲いた」(浜口庫之助 作詞作曲)を聞いた。単純な歌詞とメロディーであるが、「バラが咲いた」ことに気付く時が、世界に秩序が与えられた時、つまり「母親」という消失点が与えられ、世界が秩序をもった日、それにより寂しかったぼくの庭(世界)が明るくなった、ずっと咲いていてほしかったのに、いつの間にか「バラが散った」、その時が母親という大文字の他者を失った時で、にもかかわらず世界が秩序を失わないのは、庭が、世界が「母親」という赤いバラによって明るくなった体験があったために、庭は再び淋しくなったが「寂しかったぼくの心にバラが咲いた」からなのであろう。想像的なものとしての「母親」を失っても、象徴的なものとしての「母親」を心に持つ事で、世界はある幅の揺れを保ちながらも安定するのであろう。昔、小此木先生が、喪が開けるとはそれまで亡くなった人を思うとその人が具体的な姿で心に現れるのが、脱人格化された時、、つまり姿形を伴わず、完全に自分に同一化されたときが「喪が明ける」事だという意味のお話をされたのを、これもまた何十年ぶりかで思い出した。

    | 2.エッセイ | 11:01 | - | - | - | - |