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青葉心理クリニック

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倒錯について 7
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    PERVERSION 倒錯


     倒錯は大文字の他者のファンタジーに姿を変えて、神経症者の無意識の中に存在する
    欲望は防衛である。享楽へと至る限界を超えることに対する防衛である。(ecrits 825p)


    精神分析的に言うと、ほとんどの臨床家は倒錯と正確に見なせる多くの患者を見ていない。かなりの数の現代の米国の分析家が治療中の倒錯者はありふれていると信じているように思われるが、この本で紹介してきたラカンの基準の用語で評価するならば、倒錯者と普通に言われる人々のほとんどすべてが実際には神経症者あるいは精神病者と判明する。

     

    1)例として、Robert J.Stoller, Sex and Gender を見てみよう。ストーラーによって議論される人々の多くが倒錯者としてよりも、精神病者としてよく理解される。

     

    現代の精神科学は、それとしては、我々の倒錯の理解を多少なりとも拡張していない。フロイトが我々にそれを話すことをするのが最高なので、新しく「様々なもの(行為)に名前をつけるがそれ以上は何も言わない」ので、精神医学は人々を性的に興奮させる特定の対象を記述する立派な新しい用語を提供してきただけである。例えば、小児性愛、窃触症、服装倒錯的フェティシズム、等々。

     

    2)これらの「素晴らしい」診断区分はDSM R では、paraphilias パラフィリア という一般的カテゴリーに含まれている。このあまりに広く使われすぎているマニュアルの著者の精神科医たちはより科学的に響く用語 paraphilias を、政治的には正しくないと思われる用語 perversionを避けるために、採用したと思われる。しかし、この paraphilias に関する詳細な論議では最もひどく政治的で道徳的な言葉を使い続けている。例えば、「パラフィリアのイメージは比較的無害なものである」「正常な性行為はその人の性的なパートナーを触ったり、愛撫したりすることから性的興奮を意味する」などである。


    ラカンは、我々が倒錯の本質を現実界、想像界、象徴界の間の、そして欲望と享楽の間の彼の重要な区分にによってよりよく理解できるようにしてくれた。もし神経症が両親によって課された決定的な享楽の犠牲ー去勢ーに反抗して(偽装した形で享楽のわずかな量を取り戻そうと試みること)そして、法に関して欲望するようになることによる一連の戦略であると理解できるなら、倒錯は限界が享楽に向かえるように法を支える試みを意味する。(これがラカンのいう「享楽への意志」である。)それに対して精神病では法が全く完全にない。神経症では決定的な法の設立(幻想の中でしか打ち負かせない)が、そして倒錯では、主体は法を存在させよう、一言で言うと大文字の他者を存在させようとする。例の通り、ラカンの著作はフロイトのそれから生じているので倒錯についての私の議論をフロイトの区別の幾つかを取り上げることで始めよう。


     

    The Core of Human Sexuality 人間の性行為の核


    もし、生殖以外の目的で行われる性活動が倒錯であるというフロイトの初期の主張から出発するならば、人間の性的行動は倒錯であるという事実を受け入れなくてはならない。我々すべてが多形倒錯として、つまりより高い目的あるいは適切な対象や開口部について何も知らない快を求める存在として、人生を始めるように、倒錯はまさに人間の性の核心にある。そして、一生を通じて、種の再生産に必要とされる以外の形式で、快を求めることだけのために快を求め続けるのである。

    もし、「正常な」性活動というものが, 「全体像」つまり、そのパートナーはパートナー自身を欲望されるのであり、パートナーが持つ、あるいは具現化している特定の属性を欲望されるのではないという概念から出発するのであれば、そこで我々は再び人間の性行動の大部分は倒錯的であるという事実を受け入れなくてはならない。前の章で見たように、強迫神経症者は彼のパートナーを対象 a に還元し、パートナーの「大文字の他者性」を無効化し、ヒステリー者は彼女のパートナーを欲望するというよりはむしろ彼女のパートナーを通じて欲望し、パートナーに欠けている対象になろうと欲する。性的なパートナーは、それぞれの(強迫神経症者やヒステリー者自身の)目的とはなりえない。カントのいう何かそれ自身のために追い求められるものではない。何か他の利己的な目的、快を成し遂げるとか、愛されていると感じること、それに類するものではなくて、パートナーが何かを持っている(それは欲望を生じさせる欠如にすぎないかもしれないが)、そしてそれは我々に何らかの意味があるから追い求められるのである。ラカンが言うように実際、対象 a はそれについて何かフェティッシュなものがある。

     

    3) Ecrits 610 p 参照。「シニフィアンの切断で捉えられる対象としてのすべての倒錯の根源的なフェティシュと、大文字の他者の欠如を埋め合わせる万能のシニフィアンとしての恐怖症の対象の区別を(ラカンは)自分の聴講生に教えてきた」

     

    前章でも見たように、我々から愛を引き出す対象は、欲望を引き出す、あるいは我々に享楽をもたらし得る対象と必ずしも同じである必要はない。

    どちらかあるいは両方の概念(あるいは同様の概念)から出発しても、事実上、すべての人間のセクシャリティは倒錯であると述べざるをえない。倒錯者 pervert、倒錯的 perverse、倒錯 perversion という用語を、セクシャリティが自分たちと違う人たちを非難するために用いる人たちがいるので、すべての人間のセクシャリティは事実上、本質的に倒錯的であると単純に断言してそのままにしておくのがある読者には政治的に好都合であろうことは確かだろう。実際、ラカン派の精神分析者は所与のセクシャリティの倒錯的な性質を当然のこととして、すなわち正常としている。

    しかしラカン派の精神分析者が関心を持つのは否定の特殊なメカニズム、つまり否認 disavowal (フロイトのいう Verleugnung )は、みんなが倒錯者だと思う、そして現代の心理学者によって倒錯だとされる人々のほんのわずかの人にしか見られないもので、抑圧とは明確に区別されるメカニズムである。(少なくともこのことを本章で明らかにしたい)このメカニズムが働いているのが、あれこれの性的行動それ自体ではなく、分析家がある人を倒錯と診断する根拠なのである。このように、精神分析では倒錯 perversion は、いわゆる正常とは異なる性行動をする人を非難するのに使われる軽蔑的な用語ではない。むしろ、倒錯を神経症と精神病からはっきり区別する特徴で、高度に特有な臨床構造を示すのである。分析家は、すべての人間の欲望は事実上、本質的に倒錯的、あるいはフェティッシュ的であることに同意するが、それでも、神経症的な構造と倒錯的な構造には重要な理論的、臨床的な区別を維持する。精神分析では、倒錯は汚名ではなくむしろ構造的なカテゴリーとみなされる。

     

    | 1.サイコセラピー | 05:31 | - | - | - | - |