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青葉心理クリニック

新しい臨床心理学のために 31
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    新しい臨床心理学のために 31 

    The Division of the Subject and the Advent of the Unconscious through the Signifying Order  (シニフィアンの体制による主体の分割と無意識の出現) 

    父の名の隠喩は、いくつかの理由で心的発達の過程の基礎となる。子供が象徴的秩序(と母国語の実践)へアクセスする事によって主体として出現する事を許すだけではなく、主体内に不可逆的な心的分裂(Spaltung)をもたらす。父の名の隠喩のメカニズムは主としてシニフィアンの効果、即ちシニフィアンの代入にその基礎をおく。厳密に言えば、シニフィアンの体制こそが主体に分裂された構造を確立する。別の言い方をすると、「主体はまさにランガージュの体制によって分裂される。」のである。
    父の名の隠喩はまた原抑圧に基礎をおいている、即ち無意識の出現に根拠を持つから、無意識それ自体は同様にシニフィアンの体制に従わなければならない。このメタ心理学的な構成が、疑いもなく最も大切な論拠として「無意識はランガージュのように構造化されている」というテーゼを好ましいものにしているが、その構成原理やその意味を詳細にわたって検討される必要がある。

     Spaltungという概念それ自体がいくつかの予防的な、予備的、用語的な注意を必要とする。Laplanche & Pontalisが指摘した様に心的分裂と言う概念は19世紀の終わりには精神病理学のいくつかの研究において、特に催眠とヒステリーの研究においてそれとなくではあるが、既に形成されていた。我々が理解しなくてはならない主体の心的分裂と言う意味において2つの例を述べなくてはいけない。一つは、Double consciousness (二重意識)や psychic dissociation (心的乖離)というフロイトとブロイアーがヒステリー研究で述べているものである。心的分裂の概念はJanetによっても詳しく述べられたが、とりわけブロイアーとフロイトによる。後にそれが違った名前で、即ち Splitting of consciousness,  Splitting of the content of consciousness,  Psychic splitting で表現される様になる。これらの用語はフロイトの無意識の概念の本質的な内容となる。1893年の初めにフロイトはヒステリーにおいて、意識的な主体は自己の表象の一部から切り離される事を明確に確立した。従って無意識は自律性のある領域として現れ、意識の領域から抑圧の効果によって分離される。この意味で我々は既に心的分裂が主体の分裂である事を考える事が出来る。 フロイトの仕事で、心的分裂はまたIchspaltung や splitting of the ego の術語に一致する表現である。フロイトは徐々に固有の心的分裂を splittinig of the ego から区別して述べる様になる。Laplanche と Pontalisが指摘する様にsplitting of the ego は本来システム内のsplittingであり、(自我という)審級内部の内的分裂である。他方、ヒステリー研究でフロイトとブロイアーが記述した心的分裂は最初からシステム間(intersystem)の分裂である。これを第二局所論から手短に参照すると、ego と id の間の分裂という事になる。 この様にフロイトにとってSpaltungの概念は多義的である。この事は我々に心的装置は審級にわかれ、さらにまた心的審級はその中で分割される事を示している。結局、一般的なレベルでは、主体の心的内容の一部は抑圧の作用により主体から切り離される事を示している。 

    最後間で残った、あらかじめ指摘しておくべきもう一つのSpaltungの意味はブロイラーの仕事と共に精神医学に入ってきた。ブロイラーの分裂Spaltungは決してフロイトの分裂Spaltungと混同できない。ブロイラーにとってはこの術語は分裂病の主たる臨床因子を言及する大変特殊な意味を持っている。そういうものとしてSpaltungは症候学的考察の一部に属し、心的機能の構成原理であり、精神分析のメタ心理学的視点とはきわめて異質である。ブロイラーの分裂はdissociation 乖離として今や知られ、現代精神医学では分裂病症候群にもっぱら使われている。

     ラカンにとっては、Spaltungは明白に最も基礎的な特徴で、主体性を定める。というのは、Spaltungによって主体は生じ、そうする事であの心的構造が獲得されるのである。従って、システム内の分裂でもないし、システム間のものでもない。ラカンにとってSpaltungは心的装置を複数のシステムからなるシステムとして存在させる様にするものとしてある。この意味で、Spaltungは象徴と言う第三の規範に主体自身を服従させる最初の分裂と考えられる。より正確に言うと、主体に対して現実界と想像界を結びつけることによって、現実界と主体との関係を仲介する事になる規範である。この結合は父の名の隠喩が確立する間に起る。この過程の最後に、ランガージュの象徴(父の名のシニフィアン、S2)は隠喩的に原初の欲望の対象で無意識となったもの(母の欲望のシニフィアン、ファルスのシニフィアン、S1)を示す様になる。この様に子供がそれと知らずに自身の欲望の対象を父の名のシニフィアンによって名指し続けると、ただ一つの結論へと到達する事が出来る。子供は自身が述べている事の中で何をしゃべっているかを決して知らないと言う事になる。従って我々は話す時に我々が言っていると我々が信じている事とは全く異なった何かを言っていると言う主体の行為としてランガージュは現れる。この「全く異なった何か」話す主体は構造的に無意識と隔てられているから、話す主体を逃れた無意識としてインストールされる。シニフィアンの体制によって起る主体の分裂の効力によってランガージュは無意識が存在する原因となり、無意識を選ばれた位置に維持する事で無意識の必要条件となる。ラカンはこの点を強調している。 

    「ランガージュは無意識の必要条件である。・・・・・無意識はランガージュの論理的結果である。実際ランガージュなしに無意識はない。」

     ラカンによると主体が分裂されると言うためには、話す存在、つまり、the parletre 以外に主体は存在しないと仮定する事になる。それは主体が存在するようになるためには無意識が設立される事が基盤となるという事をも認める事になる。言葉を代えると、シニフィアンの秩序が無意識を設立する分裂の過程で主体を構造化する事によって、主体が存在する様にするのである。 

    ラカンの理論的研究のこれらの基本的テーゼは当時の精神分析の考え方を根本的にぶちこわした。この例は1960年にエイが組織した有名なボンヌベルの無意識についての討論会での議論である。この際には、Laplancheは無意識はランガージュの必要条件だというテーゼに賛意を示す事によって完全に反対の結論に達した。この事がラカンの立場に説明的な介入を招いた。 

    この主体の構造的分裂を通して、原抑圧は無意識の誕生に本質的な役割を演じる。原抑圧が母の欲望のシニフィアン(ファルス的シニフィアン)と選択的な関係がある事をこれまで見てきた。ファルス的シニフィアンと言う言い方はもちろん人にものを教えるための単純化である。多分実際に、ファルス的シニフィアンとして働くいくつかの異なったシニフィアンがるだろう。それらすべてが母の欲望の次元の何かを指し示す事が出来る。それらをprimordial signifers (根源的シニフィアン)と呼ぼう。それらは隠喩的代入に適しているシニフィアンであり、それらが無意識の核を形成する。 この根源的シニフィアンの原抑圧は、フロイトの抑圧の理論の文脈におかれなければならない。そこでフロイトは抑圧を3つの時期から成るメカニズムとして記載している。 

    ① 原抑圧
     ② 本来の抑圧 即ち事後的な抑圧
     ③ 無意識を形成する抑圧されたものの回帰 

    本来の意味での抑圧は原抑圧によってもたらされるが、強く備給された表象代表の核に関係する。言い換えると、根源的シニフィアンが母の欲望と結びついている事に関係すると言える。この備給の故に、元々の無意識の核は強い牽引力を持つ。だからフロイトは原抑圧を(原抑圧の維持、継続を)逆備給の過程として記載したのであり、逆備給は(原抑圧の持続性を保証する)原抑圧のエネルギーの永続的な消費を表し、さらにまた原抑圧の永続性を保証する。だから、逆備給は、原抑圧(を維持し、その再建と継続を図る様な)の唯一のメカニズムである。 そういう事情で、父の名のシニフィアンが強力な逆備給の対象なので、母の欲望のシニフィアンは抑圧されたまま、無意識にとどまる。この原抑圧された内容は従って、他の可能な内容(シニフィアン)に非常に強い牽引力を行使する事が出来る。さらに、ここに自我や超自我の様な上位の審級からの拒絶する力が加われば、いっそう、そう成る。

     二次的抑圧、つまり本来の抑圧はこの二重の過程を基盤とする。二次的抑圧は父の名の隠喩による主体の分裂を永続化させる。二次的抑圧はまた、無意識を多方面にわたって組織化されたシニフィアンの場所として、即ち、主体はもう決して主体の自由にならないランガージュと同じシニフィアンの構造として確立する。このため、ラカンは「無意識は大文字の他者のである。」という。(主体の中のディスクールは分裂のために、主体を逃がす。) 

    このシニフィアンの構造は無意識の場に降臨し、隠喩的に表現されうる。無意識のシニフィアンの連鎖が連続した隠喩的抑圧が起る事によって、進行性に構成される。この無意識のシニフィアンの連鎖自体は一次過程に従う。従って抑圧されたシニフィアンは隠喩 and/or 換喩的シニフィアンの代入によって主体として回帰するのを常とするかもしれない。例えば、「舌が滑る」(言い間違い)は意識的に話された連鎖の中に代入の方法で乱入する。シニフィアンの最小限の組み合わせさえあれば、シニフィアンの連鎖の二重性(無意識的シニフィアンの連鎖と意識的シニフィアンの連鎖)を打ち立てる事が出来、主体の再二重化を隠す事が出来る。無意識それ自体が自身をはっきり表現できるのはこの主体の二重化を通してである。
    | 臨床心理学 | 19:18 | - | - | - | - |
    新しい臨床心理学のために 30
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      新しい臨床心理学のために 30 

      The foreclosure of the Name-of-Father:精神病過程へのアプローチ


      心的主体、それ自体を設立するという点で父の名の隠喩は構造化する機能を持っている。同じ理由で、もし原抑圧の過程を何かが妨げれば、父の名の隠喩は起らない。フロイトの仕事に基づいてラカンは主体について独創的な考えを展開している。

       「父の名への呼びかけに答えられる主体の位置の状況を考える際に、もし実際の父がいない場合、この不在は父の名のシニフィアンの存在とは矛盾しませんから、その不在によってではなく、そのシニフィアン、それ自体の不適格によって考えてみましょう。  フロイトの著作から術語を抽出してみましょう。この術語がそれらの著作の中で抑圧されたものとは区別される無意識の作用を示さないなら、その著作が不適格になってしまうぐらい、その用語は有効性を十分に証明されています。私の(ラカンの)精神病のセミナーで核心として示されたように、即ち、この術語が、フロイトが精神病の現象を理解するようになった時の彼の思考に最も欠く事の出来ないもので、それはVerwerfung(排除)という術語です。」

       Verwerfung(foreclosure と訳される。)は、まさに原抑圧を失敗させうるメカニズムのように思われる。これはフロイトがメタ心理学的にノイローゼと精神病の区別をしてきた事へのラカンの独創的寄与の核心となる事である。 
      19世紀後半から、この区別を理論的に適切に、臨床的に操作的にして公式化する事が必要だと精神医学的思考は突き動かされてきた。考えの主軸は精神病が心因性であると言う仮説を試す事に焦点を当ててきた。この点においてフロイトの仕事は根本的な大変動であった。二重に破壊的だと言っても良いかもしれない。第一にフロイトは当時の器質因的仮説ときっぱり手を切ったから、そして、次には、精神病という概念を分析理論を用いる事で、心因性だと示すデータを示す事が出来たが、それは少なくとも独創的と言えるものであったし、その考えは全く大胆なものであったからだ。即ち、フロイトは当初はノイローゼの病因論に当てられていた理論体系の中で、精神病過程の特性に取り組んだ。彼は単に質的、鑑別的な考察ではなく、構造的考察を議論のベースに据えようとした。
      革新的なものではあったが、フロイトの精神病の分析概念は精神病過程の病因としての詳しい説明を与えるという点では不十分だった。特に、ノイローゼと精神病の構造的差異に十分な捜査的基準に我々が達する事を可能にする様にはフロイトの進めた理論的な議論を進める事は出来なかった。フロイトの精神病の考え方はどういうわけか、当時の精神科概念によって重複決定されていた。この事を明確に示すのはこの重複決定が多分、フロイトが精神病において現実に対する主体の関係をどう考えたかによるのだと思う。 
      フロイトが最初、精神病過程を「現実の喪失」と 「それと相互に関連した主体への影響」、つまり、妄想という形で、彼が切り離された現実を再構成する必要と言う言葉で定義しようとした。断固とした分析の視点から精神病の2つの側面にアプローチしながら、「効果に対する原因」の関係(因果関係)として、「現実の喪失」と「妄想的な構成」を彼に見させる当時の精神科学的固定観念(イディオロギー)にとらわれたままであった。結果として、この2つの精神的な表現のサインの間の擬似論理的な相互関係を与えられて、妄想的症候を精神病の診断基準だとほとんど仮定する事になった。
      この症候学的論点が全部としては問題だと言う事を別にして、フロイトは彼の晩年に現実喪失の問題が関係する限りだが、ノイローゼと精神病の両者に、よりニュアンスの違いをつけた区分を発展させている。ノイローゼ的主体が現実を避ける(fleeing) のに対して、精神病主体はそれを否定する(disavow)と述べた。Ichspaltung(splitting of the ego) 自我の分裂について、より深い考察によってこのような見直しがされた。そうすると、「現実の喪失」は部分的な破損にすぎない事になる。なぜなら、自我の一部だけが精神病によって切り離されるにすぎないからである。さらに言えば、自我の分裂は精神病だけではなく、フェティシュの問題で既にそう考えていたのだが、ノイローゼや倒錯でも存在するかもしれない。 簡単に言うと、「現実の喪失」がこれらでも出来る以上、精神病からノイローゼを区別するためのメタ心理学的基準を「自我の分裂」はなしえないという事になる。 
      ラカンはフロイトの心的分裂の概念を、我々がここまで考慮してきた事柄、即ち父の名の隠喩の結果についての見事な記述に変換した。 ラカンに排除が精神病過程を区別する操作的なメタ心理学的基準だと断定させたのは主にこれらの結果の一つによる。第一に、ラカンによれば、排除の概念はなぜノイローゼには特徴的あるメカニズム(特に抑圧)が精神病の過程の出現を説明しないのかを理解させてくれた。第二に、排除のメカニズムが特に父の名という一つのシニフィアンに作用した時にどのように排除のメカニズムが精神病過程を特定するかを見る事が出来る。この後者の点でこそ、ラカンはフロイトの思想に明確な貢献をするのである。もし父の名の隠喩の排除が大文字の他者の場所で起れば父の名の隠喩は頓挫し、この事がラカンによれば、この欠陥が精神病をノイローゼと区別する精神病の本質的条件と構造を精神病に与えるという。
       言い換えると、 父の名の排除は原抑圧が起るのを阻止し、同時に父の名の隠喩を頓挫させ、子供が象徴的なものに接近する事を危険にさらし、妨害する。欲望の領域での構造的進歩は中断し、子供は蒼古的構造、つまり母との想像的双数関係に捉えられて動かなくなってしまう。 
      Patrisによって報告された臨床研究の一つに父の名の排除の影響のすぐれた例証がある。リトル・アンと言う少女の症例報告でPatrisは父の名の機能が失敗したケースによく認められる2つの要素を明確に記述した。 第一に、母のディスクールの中でこの(父の名という)シニフィアンが否定された場合に、父に名の排除が起る。 第二に、「母の家庭でファルスの循環」がある場合に、この循環が象徴的父を除外し、象徴的去勢を確立する父の法を象徴化する如何なる可能性もまた除外する。 これらの2つの臨床的な要素の中に精神病過程の出現でのシニフィアンの原因というラカンの考え方の一つの流れを見るのである。

       「私が強調したいのは、我々は母が父と言う個人に合わせるその方法だけではなく、また母が父の母が父のパロールに与える重要性、はっきり言えば、父の権威、即ち父の名が法を公布するために母が保持している場所への重要性にも関心を向けるべきである、ということである。」

      ここで、 しばしラカンの精神病への接近から離れよう。後でこの主題に戻らなければならないが、父の名の隠喩の他の基本的な帰結、即ち「主体の分裂」Spaltungとこの分裂の妄想的ディスクールに及ぼす影響を検討した後にしよう。
      | 臨床心理学 | 23:47 | - | - | - | - |
      新しい臨床心理学のために 29
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        新しい臨床心理学のために 29 

         父の隠喩−父の名−欲望の換喩 

         (1) Fort-da 遊び 

        フロイトが「快楽原則の悲願」で描いた fort-da のゲームは、子供が象徴的支配に同意したから、父の名の隠喩 即ち、失われた対象の象徴的支配を成し遂げた事を見事に描き出している。この事は母親が子供に邪魔をされずに出かける事を許す事が出来るようになった文化的な達成であり、衝動の断念(衝動の満足の断念)である。シニフィアンの代入の例としてこれ以上のものはない。この「fort-da 遊び」は2つの隠喩的過程を持つ。まず、糸巻きが母親の隠喩である。ついで、fort-da 遊び、つまり在/不在の遊び が 母が来る/母がいなくなる を隠喩的に、かつ象徴化して示している。加えて子供はそうする事で状況を自分が有利になるように代えた事が大切である。子供は以前は受け身で、体験に圧倒されていたが、状況をゲームとして繰り返す事で能動的役割を演じられるようになる。子供は状況を逆転し、ここから先では母親を象徴的に捨てるのは子供となる。この象徴的逆転は象徴的支配が行われた事の最も明白な証拠である。すなわち(母親を糸巻きにした)同一化を通して「不在」を支配したのである。母はかってはいなくなる事で子供を拒否したが、今や子供は糸巻きを投げる事で母を拒否し、失われた対象、すなわち母の不在をコントロールする事に大きな喜びを感じる。言葉を代えると、fort-daのゲームでは、子供が自身を母の欲望の対象、即ち大文字の他者の欠如を埋め合わせる対象ではないという事実を真に理解する。子供は今や主体としての自身の欲望を失われた対象の方へと移動させる事が出来る。とりわけ、言語の出現(象徴的登録にアクセスすること)は。疑いの余地のない、象徴的な「失われた対象」の支配であり、それは父の隠喩によって、つまり原抑圧に基礎付けられる行為によってである。
         
          (2) 原抑圧

         原抑圧は隠喩化の基本的な構築過程であり、まさに「法」の原初的象徴化の行為である。これは「ファルス」というシニフィアンへの「父の名」というシニフィアンの代入により成し遂げられる。 この象徴化の意味するものは何か? 直近の経験を、その代理を見つける事で自由になる主体的な経験をすることである。これがラカンの決まり文句『ものそれ自体は表象されるためには失われなくてはならない』の意味である。 子供の直近の体験は存在の弁証法(ファルスであるのか?ないのか?)で彼がとらわれの身として表現される事に基づく。即ち、母の欲望の唯一の対象である事、母の欠如を埋める対象である事、母のファルスである事と表現される事である。存在の弁証法で体験された事を何か他のもので代理するために子供は所有(ファルスを持つ?持たない?)の次元へのアクセスを得なければならない。しかし、この所有の弁証法的な運動をするためには、子供は彼の直近の体験と、そしてそれを象徴する事を引き出す象徴的な代理の両者から、彼自身を区別する事が前提となる。 他の言葉でいうと 子供が自分自身を主体として、他者の欲望の対象だけには決してしない事を必要とする。この主体の出現はランガージュの最初の活動を通して起り、そこで子供は失われた対象に対する彼の断念を象徴的に表現しようとする。象徴的な命名はファルス的シニフィアン、つまり母の欲望のシニフィアンの抑圧を基礎とする事によってのみ可能となる。このシニフィアン、つまりシニフィアンの連鎖の全体のその後のネットワークを支配するシニフィアンをS1と呼ぼう。

            無意識           話された連鎖                 S1←―――――――――――S2…..S3.....S4…..S5          
                                 抑圧 
                
        原抑圧はこのような直近に経験された現実から、それをランガージュとして象徴化する通路を確実に保証する心内作用である。どのようにして原抑圧が父の隠喩へのアクセスを確保するかを理解するために、隠喩的代理物の他の面を見ていこう。隠喩過程は新しいシニフィアンS2が前のシニフィアンS1を意味の横棒の下に押しやり、それを一次的に無意識に保つ。 この過程はfort-daの経験の過程で、そこでは子供は以前は自身の欲望と表現したものを今や彼の母親の在/不在と交替するものとして表現する断念の方法を試すのである。
         オリジナルの欲望の表現は以下のように表される。

         S1/s1 ←→ 母の欲望のシニフィアン/母の欲望という概念:ファルス

         母の不在は父の存在に関係していると子供は捉え、自分の前に母がいない時には母は父といると考える。最初父がライバル的なファルス的対象として現れる時が決定的な時期で、ついで父はファルスを持つものとして仮定される。このようにして子供は母が不在の原因をファルスを持っている父、即ち象徴的父を呼び出す事によって、名指し/名付ける事が出来るようになるやいなやシニフィアンの関係に達する。
        言い換えると、「父の名」は象徴的機能を、萌芽その力を発揮できる場所に限って認定する。この名指しが隠喩の生成物であり、子供にとって父の名は母の欲望のシニフィアンに代わって代入された新しいシニフィアンS2である。 

        「エディプス・コンプレックスにおける父の機能とは、あるシニフィアンの代理、即ち、母のシニフィアンを象徴化に導く最初のシニフィアンを代理するシニフィアンになるという事です。父という点において(この事は前に説明した隠喩の形式として)父が母と場所を取り替え、母はXであった何か、即ち母−子関係において、シニフィフェであった何かに既に結びつけられていたのである。」 

        シニフィアンの代入の過程において、母の欲望のシニフィアンS1は、このように抑圧(原抑圧)の対象となり、無意識となる。父がシニフィアンとして母の代わりをする限りにおいて、隠喩のお定まりの結果が生じるが、その結果は次の公式で表される。

         Name of the Father/Desire of the Mothe・母の欲望/主体にとってのシニフェ →Name of the Father(O/Phallus) 

         この隠喩の公式の中に次の様な一般的な式がある。

         S2/$1・$1/s1 → S2(U/s1) 

        この2番目の公式で使われた用語で、symbol U (Unconscious)は、S1が,S2の代入によって抑圧された事を思い起こさせる。それ以後、S2は母の欲望のシニフェを伴うシニフィアンになり、即ち、Phallusである。はじめの公式の中で、O(Other)で象徴化される、この抑圧の印を認める事が出来る。他者(Other)の中におけるシニフィアンの存在は実際には主体に閉ざされた存在である。なぜなら、それは通常、抑圧(verdraengt)の状態にあり続けるし、反復強迫(Wiederholungszwang)という方法で意味される、それ自体の代理としてあり続けるからである。 事実、反復強迫は以下の結論を導く: 

        「父」を名付ける事によって子供は実際さらにいっそう彼の欲望のおおもとの対象を名付け続ける。しかし、今やこの対象は無意識になったのだから、このおおもとの対象を隠喩的に名付け続けるのである。従ってランガージュと言う象徴は主体の知らない間に行われる名指しという形で欲望のおおもとの対象の永続性を表現しようとする。 これはラカンによると、こういう事になる。 「ランガージュは、間主観的コミュニケーションの象徴的登録により、その表現を社会化する事によって、原初の対象の表現を永続化させる。この事はまたエディプス・コンプレックスにおいて何が本質的に問題になっているかを明らかにする。父の名の隠喩は去勢の実現の証拠となる。それは知性によってのみ理解できる象徴的去勢としての次元でのみ理解できる。これがファルスがエディプスの過程の最後に想像的対象の象徴的欠如として現れる理由である。」

           (3) 欲望の換喩 

        原抑圧と父の名の隠喩によって、ランガージュの仲介が欲望に課される。より正確には、ランガージュの中で疎外されるのは父のシニフィアンによってである。パロールになる事によって、欲望はもはや欲望自身の反映にすぎなくなる。to have という欲望を好ましいものとして選択して, to beという欲望を子供が抑圧する時に、そのとき以降子供は失われた対象の代理という領域へと自分の欲望を入り込ませざると得なくなる。これを成し遂げるために、欲望は要求(demande)という形でパロールにならなくてはならない。しかし、要求になる事で、欲望は発話の連続体であるシニフィアンの連鎖の中で、どんどん失われていく。実際、欲望は対象から対象へと運ばれていくといえるし、代理物の無限の連鎖へと、また同時にそれらの代理対象を象徴化するシニフィアンの無限の連鎖へと回付される。つまり欲望は主体の知らないまま、主体の資源の欲望を名指し続ける。欲望はランガージュとなったが故に永遠に満たされる事がない。そして生まれ変わり続けるのは、常に基本的には他の場所にあるからであり、現在の対象にあるのではなく、対象を象徴化するであろうシニフィアンの中にあるからである。 
         言葉を代えると、 欲望の通路は換喩的!だということである。子供は父の名の隠喩により、全体(失われた対象)のかわりに、部分(代理の対象)を選択するように要求される。部分としての水平線の帆が全体としての船を指し示すように、欲望は全体(失われた対象)を部分(代理の対象)で表現する事で指し示され続けるのである。

         (4) 結論 

        父の名の隠喩は子供の心も発達の基本的な構築期の始まりを印づける。加えて、子供が象徴的次元に参入する事が、彼を母との想像的従属から解き放つ事になり、彼を欲望する主体の地位に就ける。しかしながら、この獲得は新しい疎外を代価としてのみ行われる。話す存在として欲望の主体となるやいなや、彼の欲望はランガージュの網に捉えられて、始原的な性質は失われる。ここから以降、欲望の対象は、それを換喩的対象へと変換する代理されたシニフィアンによってのみ表される事になる。ラカンによれば、父の名の隠喩は真に構造的な分かれ道で、重大な結末を引き起こす。その影響は大きい。それがうまく行かないと精神病的な過程が生じ、逆にうまくいくと、主体の欲望をランガージュの次元へ疎外するが、それは主体の分裂(Spaltung)を成立させ、彼自身の一部が無意識に存在するように不可逆的に分離する。これらの続きをこれから見ていかなくてはならない。
        | 臨床心理学 | 09:04 | - | - | - | - |
        新しい臨床心理学のために 28
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          新しい臨床心理学のために 28 

           (6)エディプス・コンプレックスの第三期

           この時期はエディプス・コンプレックスの減衰の時期である。子供が子供自身をそこにおき、そして想像的には父をそこに置き、母に対してのファルス的競合関係を終わらせるものである。ひとたび父がファルス的属性を与えられたら、父はラカンが言うようにそれを証明しなければならない。というのは、 

          「父が第三期に(想像的)ファルスであるものではなく、(象徴的)ファルスを持つものとして介入する限りにおいて、母から父が奪いうる対象としてではなく、母の欲望の対象としての(象徴的)ファルスの作用を再確立する何かが起こりうる。」 

          この時期の頂点は『法の象徴化』で、子供がそれの完全な意味を受け入れてきた事実によって認証されている。この象徴化の構造的価値は、子供が母の欲望の正確な場所を位置づける事にある。そしてこの条件の元でのみ父の機能が法を代表する。子供が(象徴的)ファルス的関係に出会う事で決定的に意味が改められるのは、子供は(想像的)ファルスであるという問題性から去り、子供は(象徴的)ファルスを持つという問題を処理しなければ行けない事を受け入れる事である。こういうことが起るのは父が子供に対してライバル的(想像的)ファルスとして現れない限りでということだ。(象徴的)ファルスを持っている限りにおいて父はもう決して母の欲望の対象をははから奪う人ではない。反対に父は(象徴的)ファルスの所有者と見なされるから、母によって欲望されうる唯一の場所に(象徴的に)ファルスを復活させる。ここで子供は母と同様に所有の弁証法に(存在の弁証法から)記入される。ファルスを持っていない母は、それを持っている人に対して欲望する事が出来る。また母と動揺にファルスを奪い取られた子供はそれを見つける事が出来る場所で、それを欲望する事が出来る。 所有の弁証法(ファルスを持つか、持たないか)は必然的に同一化(男の子は持っていると思われる父との、女の子は持っていない母との)の働きを呼び起こす。
          性別に従って、子供はファルスという問題によって同一性の論理の中に記入される事になる。男の子は母の(想像的)ファルスである事を放棄し、(象徴的)ファルスを持っていると思われる父に同化する事によって所有の弁証法に記入される。女の子はまた、母の欲望の対象であるという位置から逃去り、ファルスを持っていないという事によって所有の弁証法に記入される。ここで女の子は母に同一化できる事を発見し、だから母の様にどこに(象徴的)ファルスがあるかを知っており、どこにファルスを手に入れるためにはどこに行かなければならないかを知っている。すなわちそれは父の法で、それを持っているものの方向へ、である。 
          ひとたびファルスを持っていると思われる父が母の優先の対象になるや、ファルスの位置はどちらの性別の子供にも構成的要素になる。この優先は存在への登録から所有の登録への移行を証言するものである。

           これは父の名の隠喩の過程が設立された事を証し、それに対応する心内メカニズムである原抑圧の証拠でもある。
          | 臨床心理学 | 19:34 | - | - | - | - |
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             鏡像段階とエディプス (5) 

            「対象の欠如」からエディプス・コンプレックスの第二期に戻って、この時期は、間主観的な母−子関係に父が介入する事によりはじまる。この介入には2つの面がある。
             
            ① 子供の見地からは、父は母の正式な権利所有者として姿を現す事によって『禁止』として介在する。これが父の介入が子供にとってなぜ子供が母を欲する限りにおいて、frustrationとして、つまり、まさに現実の対象に関係した想像上の行為として経験されるかである。ここで子供は彼のファルス的同一化を再評価する事を要求され、同時に母の欲望の対象である事をあきらめる事をも要求される。

             それに対応して、 

            ② 母の見地からは、父は、母が既に持っていると思われているファルスを母の欲望の対象と同一化している子供という形で剥奪する。 

            母親を剥奪される段階で、つまりエディプスの展開のある時期に、主体は自分自身を受け入れ、登録し、象徴化するか、そして母が対象であると証明された剥奪を意味あるものにするかどうかを問われる。
            母が母の欲望の対象である何かを父によって剥奪されるという事を子供が受け入れられなくする、母との、父との、ファルスとの関係の特別な布置とは何でしょう?これは結び目の布置です。この段階では、問題は「ファルスであるのか?ないのか?」として現れます。

            この存在の弁証法は、frustrationとprivationの両方が、父が母−子関係に関して other として現れると言う基本的事実と関連している事によって,子供に動揺を与えるはじめとなる。
            このようにして、子供の主体的経験の中で、父は母の欲望でありうる対象として、すなわち、子供が母との関係の中でライバルではないかと思うファルス的対象でありうるものとして、現れる。この想像的なライバル関係の競争は事実上父の掟に子供を出会わせるファルス対象の置き換えと同じ広がりを持つ。
            子供がこの法に出会うのは、子供の要求を満たす母の能力に関して、母はその法に依存しているのを発見した時である。他の言葉でいうと、母を通して子供の欲望は必然的に他者の法に出会う。 

            想像的次元では父は母を剥奪するものとして最も確実に介入する。つまり要求として他者に向けられたものは上級審にまかされるし、なぜなら、ある点で、他者に尋ねる問いであるべきものとして伝達され、例え、他者がそれを完全だと考えたとしても、その問いは常に他者の他者、すなわち他者自身の法に照合されるのである。そして、この段階でこのような事がなされる何かが起り、それが主体には母を剥奪されると想像的に理解される限りで子供に返ってくるものは純粋に、単純に『父の名の掟』である。 

            このようにして子供は最も本質的な次元を発見するが、その次元は欲望の構築においてすべての人の欲望を他者の欲望の法に従わせるものである。子供にとって、この強力なエディプス・コンプレックスのモーメントは、今までずっと子供がその対象だと思ってきた事に関して、母親の欲望の意味に道を開く。母の欲望が他者の欲望に従わされているという事実は、母の欲望はそれ自体、他者(父)の持っている、あるいは持っていると仮定される対象に依存しているという事を暗に示す。ここで子供は、所有の弁証法( ファルスを持っているか?いないか? )を発見し、この先、母の欲望の問題を分極させるものとして、これらは『存在』(〜である)の弁証法の相対物となり、子供自身の欲望について彼の経験を調整する。

             子供がこの自己への問い、つまり母のファルスであるか?ないか?という事に関して、剥奪する父は子供に、母が父の法を認めている、つまり、もう決して子供ではない対象に対して母が持つ欲望の仲介をする父の法を認めている事を理解させるだけではなく、この対象は父が持っているか、持っていないと思われる対象である事をも認めさせる。 

            ラカンによれば、この時期は、主体を彼の同一化から引き離す何か、同時に、彼に法の最初の顕現を、それは母がそれに依存し、ある対象に依存し、その対象はもう決して単に彼女の欲望の対象ではなく、他者が持っている、あるいは持っていない対象だという形で付与する事になる。 

             そしてラカンは以下の事を加える。

             母自身のものではない法に母が委託されている事実と、そして実際、母の欲望の対象は母が委託する同じ法によって最高度に所有されているという事実の間に密接な関係がある事にこそエディプス的関係の『鍵』があります。母と父のパロールとの関係、ここが大切な区分なのですが、母と父の関係ではなく、あくまで、母と「父のパロール」との関係の性質が本質的で決定的なものなのです。なぜなら、父は剥奪者として存在し、法を生むのは彼であり、そして父を立法者とする母により、隠されるのではなく、仲介されて成し遂げられるのです。 

            エディプスの第二期は、エディプス・コンプレックスの衰退(エディプスの第三期)を印づける象徴の法に子供がアクセスを得るのに必要な前提である。この父の法との出会いによって子供は去勢の問題にぶち当たる。これからは母の欲望が依存する所有の弁証法を通して彼に問いかけられる。母に関して父の仲介によって母は父を法の制定者と認め、子供は父をファルスの守護者として出現しなければならない位置に昇進させる。 現実的な父は法の代理人である。今や父は母の欲望の対象を所有すると考えられたから、子供は父に新たな意味を与える。父は象徴的父の地位まで昇進する。母は父の法の言葉に従うが、それは父のパロールを認めるからで、それが母の欲望を動員できる唯一のものであると共に、子供の立場からは、父の機能に象徴的な次元を与えるものとなる。この段階で、子供は父の現す機能に関して子供自身の位置を決めなくてはならない。この機能が『父の名』として知られる象徴的シニフィアンである。 

            言葉を代えると、その機能は母が父を母の法や思いつきを超え、そして純粋に、かつ単純に父の法であるものに従って、『父の名』として、すなわち、ラカンによりフロイト理論の発達としてアナウンスされ、発展させたもので、まさに法の言明と密接に関連している。これこそが本質的であり、ここにおいて子供がこの問題を受け入れるか、受け入れないか、あるいは誰が母の欲望の対象を母から奪うのか奪わないのかを決める。

             エディプスの第二期の終わりに、子供が占める位置取りは重大ですが、それはこの位置が第一義的にはファルス的対象との関係によるという意味です。子供自身が母の欲望するファルス的対象であるという子供の確信は揺さぶられます。この後から父の機能は子供に彼がファルスでないと受け入れさせるだけではなく、母と同じく、それを持っていないと受け入れさせるのです。そして母はファルスがあると考えられる場所において、従ってファルスを持てるようになる場所においてファルスを欲望しているのだと子供は気付くのである。ここにおいて我々は去勢コンプレックスの効果を見つけるのである。

             ラカンは以下のように説明する。 (象徴的)ファルスを持つためには、はじめに必要なのは(想像的)ファルスを持てないと理解する事であり、去勢されるという可能性が(象徴的)ファルスを持つという事を仮定するには本質的なのである。ここにおいて父はいくつかの時点で有効に、現実的に介入しなければ行けない。この(象徴的)ファルスを獲得するためのステップは、先行した2つの時期の間の弁証法により第三期において確立する。
            | 臨床心理学 | 11:02 | - | - | - | - |
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               鏡像段階とエディプス (4)

               対象の欠如 

              ラカンによる『対象の欠如』という概念を振り返っておく事は私たちがエディプスコンプレックスの第二期の力動を理解するのを助けてくれるだろう。大人におけるのと同様に子供の場合も、この『対象の欠如』は3つの特定の様式で現れる。
              つまり、
               ① frustration ( 違約、拒絶、欲求不満 ) 
              ② privation ( 剥奪 ) 
              ③ castration ( 去勢 ) 
              である。
              これら3つのそれぞれの場合に『対象の欠如』があるが、それぞれの場合により『対象の欠如』の性質が質的に異なる。(欠如自体に種類があり、対象の違いによるのではないということ。)同じ事が対象のタイプについていえるのかは疑わしい。

               ① furastrationは、満足を得られる居合いかなる可能性もない事を除いては、すぐれて、要求あるいは請求の領域にある。実際、違約の場合、欠如は想像的な損害という形をとる。しかしながら、違約それ自体は全く現実的なものである。ペニスはその様な対象のプロトタイプである。そして、小さな女の子がそれをない事と経験するのはまさしくfurastrationである。もっと一般的には女の子は母にペニスが欠如している事をfurastrationとして経験する。 
              Furastrationを違約と訳した場合、違約は言葉と約束する他者がいなければ構成要件を欠くことになる。これが原因ではなく要因としての『象徴的母』である。また、自我の完全性を身体像の完全性のモデルに従って復元しようという、常にむなしい試みに伴うものであるが故に限度のない要求の領域である。

               ② privation においては、他方、欠如は現実である。ラカンはこのタイプの欠如を現実における穴として描いている。しかし、対象は象徴的な対象である。 実際にいない母親をいるかのように思うためには「象徴的に」決定しなくてはいけない。要因は『想像的父』である。 

              ③ castration においてはそれが関わる欠如は象徴的なものであり、それは近親相姦の禁忌に関係する一段とすぐれた象徴的参照だからである。これこそまさに父の機能が子供を象徴界の秩序に参入する事を可能とする。去勢によって示される欠如は象徴的負債である。しかし、去勢において欠如する対象は根本的に想像的なものであり、決して現実の対象ではない。この去勢される想像的な対象がファルスである。要因は『現実的父』である。

               特にこの3つの区別をあまり聞いた事がない、つまり去勢だけが有名だからなのだが、そういう方は読まれても頭が混乱するだけだと思うので、とりあえず、以下の英文を覚える事が後々の理解につながると思う。

               ① Frustration is the imaginary lack of a real object. 

              ② Privation is the real lack of a symbolic object. 

              ③ Castration is the symbolic lack of a imaginary object.
              | 臨床心理学 | 12:43 | - | - | - | - |
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                 鏡像段階とエディプス (3) 

                 (3)エディプスコンプレックスの第二期 

                『父』の仲介は、母―子―(想像的)ファルスの関係を布置するのに主導的な役割を果たす。『父』は、privation ( 剥奪 ) の形で介入する。 経験が証明してきたのは、父は母からこの対象、すなわち、ファルス的対象を奪い、母の欲望を奪い、エディプスの全課程において絶対的、本質的役割を演じる。たとえ最も容易でかつ正常な例でも。

                 さらに、『父』の存在という侵入は子供には、prohibition ( 禁止 )と、frustration ( 違約 これを欲求不満と訳すと、原語であるドイツ語のVersagung と『価値』 valeur が違ってしまうので、あえてこう訳す。)として経験される。

                 父はそれにも関わらず、ここで邪魔者として現れる。彼は大きくて扱いにくいだけではなく、何かを禁止するのでトラブルメーカーの位置にいる。何を禁止するのでしょうか?彼は第一に衝動の満足を禁止します。他に何を禁止するのでしょう?我々が出発したところ(母)を禁止するのです。母は父に所属するのであり、母は子に所属するのではありません。父は母の関連するところでまさに欲動の満足の欠如(これはフロイトが「ある幻想の未来」で『違約』を定義したものである)を子供に作り出す。

                 言葉を代えると、

                 子供−母−ファルスの関係への父の介入は、次の3つの異なった登録として姿を現す。(訳語に問題があるので英文表記のままにする。)
                 ① prohibition 
                ② frustration 
                ③ privation 

                物事が複雑になるのは、この禁止し、違約し、剥奪する父は、去勢する父としての基本的な機能を刺激し活性化させるからである。

                 注)ここのところは、用語の混乱や、時期的な混乱が原文にもある上に、furustrationの訳語が欲求不満、拒絶、違約と様々あり複雑なので、この章の最後に私見を述べたいと思っている。 (原文は、この後、エディプスの二期の記載の途中に、『対象欠如』を置く。その後再び、二期の記載に戻っている。)
                | 臨床心理学 | 21:31 | - | - | - | - |
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                   鏡像段階とエディプス (2) 
                   
                  (2)エディプスコンプレックスの第一期 

                  鏡像段階の同一化の相の終わりに、子供は主体としての発達を始めるが、母との未分化な融合的関係にまだある。子供はそれが母の欲望の対象ではないかと思うものに同一化しようとして、母に対してとる特別な位置の結果がこの関係となる。この同一化は母の欲望の欲望(母によって欲望されたいという欲望)になるという子供の欲望を通してなされるが、たとえ基本的欲求の満足や世話だけであったとしても、母親の無媒介な子供への接近によってかなりの程度まで強調され、誘導さえされる。言い換えると、母と子の密接な交換により、子供は彼自身を母親に欠けているもの、つまり母の対象になるように導く。(大文字の)他者に欠けているものを満たす事が出来るものがファルスである。母と子の関係において母のファルスになるという子供の欲望の形においてファルスの問題と出会う。(大文字の)他者の欲望の二つとない対象として子供が子供自身を同一化した時から母と子の間の融合的未分化の関係という事がいえる。ラカンが言う通り、このエディプスの第一期では子供の欲望は根本的に母の欲望に従属したままである。 

                  「子供が欲するのは欲望の欲望になる事であり、母の欲望を欲望を満足させる事である。この事は、すなわち、母の欲望の対象であるか、ないかという問いである。母を喜ばすには子供自身がファルスである事が必要にして十分である。」 

                  子供のファルスに対する関係はファルスが母親の欲望の対象である限りにおいて本質的であるというのはラカンが言うように重要な事である。この時期において、子供はファルスの問題から存在の弁証法の効力により、つまりファルスであるのかないのか?により明確に解任される。このエディプス第一期において、あたかも子供はファルスの問題に付随して起る事の一つから、すなわち、去勢の次元から免れているかのようである。実際の母との融合関係は、如何なる第三の要素も子供が母に対して自らを同一化する事を媒介しない時にしか存在しない。しかし、逆に子供が同一化するファルス的対象の性格こそがこの確信の根本的に想像的な側面である 事を示している。したがって、媒介する審級(the father)が母と子の関係に対して異質であると見なされたとしても、子供のファルスへの同一化はそれ自体この審級の存在を前提としている。
                  手短かに言うと、ファルス的対象との同一化は『ファルスであるのか、ないのか?』という弁証法的動揺という形で去勢を呼び込む事になる。
                  この動揺の出現がエディプス コンプレックスの第二期の始まりを印づける。そこで子供は父の次元が押し付けるものとして去勢の登録へ必然的に導き入れられる。 
                  エディプス的経過での子供の発達は「ファルスであるのか、ないのか?」という疑問の中で重要だと見なされている不安定な平衡状態に固定されるかもしれない。 もし、「父」の象徴的機能に関する曖昧なメッセージの結果としてこの問いが解決されていないと、去勢に対する永続的な動揺が生じ、ある数の障害や混乱が確立されうる。
                  その中に我々がperverse (倒錯者)として性格づけたものがある。 このレベルで両義性が続くと、子供は去勢を避けるための防衛的戦略を構成するように導かれる。しかし、pervese は想像界のレベルで彼をファルスの優位へと彼を結びつける主体的な位置に着いて知らないわけではない。彼は去勢のインパクトを正確に評価しているから、なおさらいっそう去勢に対する奇妙な彼の位置の特異性を育てる事に熟練する。彼の症状の工夫のすべて、そして彼のすべての不安は彼が捉えられている主体的な幻想を維持し、再生産するためである。もし彼が去勢をさけるために技量を最大に準備しようとするなら、ずっと去勢が起るかもしれないという事を常に感じていなければならない。
                  言い換えると、倒錯的な同一化は母が母のファルス的対象を欠如することと、子供がこの対象との同一化から離脱することの二つの可能性を否定的な形に育て上げると言える。それはまさにエディプス コンプレックスの第二期に含まれる間主観的なかかわり合いである。

                    ここのところは直訳ではつかみ辛いところで、他の資料から引用して説明する。

                   母は既に言語を持つ存在であるから、母の背後には象徴界があり、母はそれに依存しており、また彼女の背後には象徴界では際立った役割を果たすファルスがある。子供はこの時期にのみ一次的にファルスの現前と不在に関心を示し、鏡像関係以来の母との想像的な関係に捉えられる。第一期では子供が満足を得る主要な手段は母の欲望の対象に自分を同一化しようとする事である。このとき彼の欲望は他者の欲望である。そこで彼は、母に欠けているものを自分が作り出す事が出来る事を母に伝え、その欠けたファルスに自分を置き換える事によって、いわば自分がファルスの換喩であろうとする。
                   このようなルアーを巡って、フェティシズム者は、その対象との間に様々な関係を作り上げる。この対象は欠けている限りでの女性のファルスであり、それに彼は同一化している。服装倒錯者は、母の衣類の下に隠されたファルスに同一化しようとする。つまり、彼は隠されたファルスを持つ女性に同一化している。
                   ラカンによれば、倒錯者は終わりのない想像的ゲームを演じており、そこではファルスは完全に現前しているのでも、完全に不在な訳でもない。
                   倒錯の問題は次の事を理解する点にある。 子供が母との関係の中で、母への生命的依存ではなく、母の愛への依存、いうなれば母の欲望の欲望という事に本質がある母との関係の中で、母自身がファルスという形で象徴化している欲望の対象とどのようにして同一化しているかという事である。

                   ドールの本からは離れるが、全体をここで俯瞰してみよう。

                   人間のセクシャリティーを組織するのは、男性器そのものではなく、その解剖学的な身体部分を土台としながらその上に作り上げられた表象(ある対象を心に思い描くという意味は既に退けられていて、対象から来て記憶系に記載されるものをいう。フロイト、科学的心理学草稿)である。ファルスの優位とはこのファルスと呼ばれる想像上のペニスが人間世界にあるか、ないか?(現前しているか、不在であるか)に応じて、幼児および大人の性の発達がなされていく事を意味している。 現実的ペニスは、 ① 目立つ形態である。② 大量のリピドーが注がれるために強いナルシシズム的愛着を持つ。③ それが無くなる事への極度の不安を持つ。という3要因を軸に作り上げられた想像的な本質を持つために無意識的な心的表象となり、それがさらに現実との出会いにより、身体から切り離しが可能である事から他の対象と交換可能なこと、この交換可能な系列を作り上げ保持するために他の対象の外側にあって、それらを代置する。(この辺から「貨幣」に似てくるでしょう。)
                  それは人間の欲望の秩序の中で、生の様々な異質な対象が互いに等価な対象になる事を可能にする。そして、ファルスとは掟のシニフィアンであることから、象徴的ファルスになるというのがファルスがたどる精神の物語である。 
                  手短かに言うと、現実的ファルスはリピドーの備給を受けているから、想像的ファルスとしてしか存在できない。しかしその想像的ファルスは交換可能であるが故に象徴的ファルスでしかあり得ない。そして象徴的ファルスは、欲望のシニフィアンであるから、分離を作り出す去勢の力と一体化する。    
                  | 臨床心理学 | 07:22 | - | - | - | - |
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                     鏡像段階とエディプス (1) 

                     はじめに 

                    父の名の隠喩の過程は、「ファルスの機能」と「去勢コンプレックス」とを結びつける過程である。この結びつきを操作するものこそ父の名というシニフィアンそのものであり、このシニフィアンがエディプスの全軌道に標識をおき、それに構造を与える。 ラカンによれば、エディプスの基本機能は「父の機能」と重なる。この機能を、ある場所の決定から生じるものとして捉え、また同時にこの場所がこの機能に必然な象徴的次元を授けるものと捉えた。これは隠喩的操作に適したものである。

                     (1) 鏡像段階 

                    鏡像段階は本質的に、子供が自身の身体の像(image)を獲得する基本的な同一化の経験として整理される。 3つのstagesからなり、
                     
                     ①. 1 st stage : 生後6ヶ月〜2歳半。自己と(鏡の)他者の間の最初の混同。まず何よりも他者の中でこそ子供は自己を生き、自己を印付けている。これは子供が想像的なものの領域に属している事を示している。 
                    ②. 2 nd stage : 鏡の他者が現実の存在ではなく、像(image)だと発見する。 
                    ③. 3 rd stage : 1 st & 2 nd stageの aufheben 。鏡の鏡像のイマージュにすぎないものが自分自身である事を認める『原初的同一化』 

                    生後6ヶ月に達した子供は鏡の中のイメージを自己と同一化し、一つの全体像として予知的につかむ。以来、子供の内部でこのような同一化が重ねられ、自我の形成に向かう。自我は同一化の堆積であり、ちょうどタマネギの皮みたいなものと捉えられる。一方、同一性の獲得の中で生じてくる主体にとってはこの鏡による再認の次元そのものが、主体の想像的疎外という性質をあらかじめ描き出している事になる。
                    | 臨床心理学 | 07:12 | - | - | - | - |
                    新しい臨床心理学のために 22
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                       ファルスの優位 

                      ファルスの優位の意味するところは、フェミニズムのおばさん(失礼!)のいう男性優位とは全く何の関係もない。そういう事を声高に叫ぶのはご自分の読解力の貧弱を叫ぶ事でもある。それはここでいうファルスとは象徴的ファルスであり、既に『死んでいるもの』だからである。物神化されたファルスである。 その上で、 ファルスへの準拠とは、ペニスを通しての去勢の事ではなく(想像的な去勢ではなく)、『父への準拠』つまり、子から母へ、母から子への関係を媒介する、ある『機能』への準拠である。父という第三者が、想像的な次元に並べられる如何なるものにも還元できないシニフィアンとしての要素を持っている。(象徴的なものだということ) 
                      ファルスは、男根的母親として女性に想像的に与えられるペニスの事ではない。そして逆に父がエディプス状況において第三者であるのはただこのファルスが父に与えられる『シニフィアンの要素』であるという理由だけである。つまり、ファルスという対象は何よりもその性質が一つのシニフィアンの要素であるような対象である。 

                      幼児のある時期(男根期)の性的発展においては、一方の性器にしか本質的役割が認められないという事はまさにこのファルスの優位は解剖学的現実を超えたところ、器官を超えたところに位置づけられる事を意味している。つまりこのファルスの優位が位置づけられる水準は、器官の欠如が主体に何を思い起こさせるかというところにある。両性の差異は『欠如』という概念を巡って一挙に構成される。『欠けている何か』というこの概念が、欠けていると思われるものに対して必然的に唯一の場所、つまり『想像的な領域』を割り当てる。 この差異という現実的なものを目の前にして、子供に否応なく欠如を思い起こさせる想像的な構造が、「それ自身想像的な対象」つまり(想像的)ファルスの実在を暗に要請する。
                      あるはずの何かを『欠けているもの』として子供が理解しようとする時に、この想像的な対象が子供の心の中の幻想を隅から隅まで支えているのである。 このファルスの想像的性質が、去勢の問題におけるある種の輪郭を規定している。「去勢と自分自身の関係に直面せざるを得ない」事を子供に迫るのは『欠如』である。これは個人が去勢と直面する事ではない。この「去勢と自分自身の関係に直面せざるを得ない」が意味するのは、ファルスという対象そのものの外在性と呼応する去勢の外在的性格である事が分かる。しかしこの外在性は主体のものである。というのはこの外在性は、幻想という想像的なものにしか根拠を持たない心内形成物と主体との関係に関わるものだからである。
                      しかし、想像的なものにしっかり固定している「ファルス」という問題はさらにまた父の名の隠喩の過程へと我々を直接導く象徴的次元によっても支えられているのである。言い換えると、想像的対象という限りでのファルスの優位が、エディプスの弁証法において根本的構造化の役目を果たす事になる。(象徴化されるという事) 
                      それはファルスの力動自体が父の名の隠喩の到来により解消される一番最初の象徴的操作を押し進めるからである。エディプスの領野は『想像的捕獲』という性格を帯びるだけではなく、この想像的捕獲が『象徴的なもの』の次元に結びつく投錨点(クッションの綴じ目)という性格も帯びている。
                      | 臨床心理学 | 11:12 | - | - | - | - |