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青葉心理クリニック

『他者』
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    『他者』

     

    前に述べたように、ストレスチェックの余波で、いわゆる正常者でストレスを過大に抱え込んでいる方とお話をさせて頂く機会が増えてきて、だからこそ以前より強く感じるようになったのが『他者』である。何が過大なストレスの源かと言うと、抽象すると『他者といかなる関係を結ぶか』という事になる。病気が関係してくると他者との関係を結べないレベルになる訳だが、いわゆる正常者であるために、関係自体は持つ事は出来るが、それが過大なストレスの原因になる場合、単純化しても、当事者同士のどちらか、或いは両者が悪いと言うこともあるが、どちらも悪くないが関係が悪いとでも言うしかないものもある。これを対象関係論で、即ち、対象の持ち方に、部分対象と全体対象を置き、前者は幼稚な、後者は成熟した関係として、人格障害を理解して行くやり方で解釈するのではなく、より根源的に考えてみたい。

    説明に便利なので、他者をラカンにしたがって、小文字の他者(今あなたの周りにいる普通の他者たち)と 大文字の他者(神様にイメージされるあなたの生殺与奪の権を我が物にしているような圧倒的な他者)とに分けてみたい。大文字の他者として初めてあなたに現れるのは「母親」(カッコを付けたのは、母親の役割をしてくれる人と言う意味で、別に生物学上の母親である必要も無いし、女性である必要もないからである。)である。幼少時、寄る辺ない存在であったああなたにとって「母親」はあなたの生存を支配する絶対的な存在であった。そういわれると、頭では理解するかも知れないが、大きくなったあなたにとってはなかなか実感はなくて、今付き合っている人のほうが大切であろう。なぜそうなのか、そうならないと大人といえない、社会にでれない、いろいろな便宜上の理由はあるが、そのより始原的なことを考えてみたい。ここから比喩を用いた説明になる。絵画の技法に vanishing point 消失点というものがある。平面的な絵画に立体感を与えることができる技法であるが、われわれが普通に景色を見る時に脳裏に浮かぶその像も、普通は3点の消失点をもっている。ちなみに消失点が一つの絵画として、ダヴィンチの「最後の晩餐」がある。絵の中央のキリストの頭の上にそれが設定されているが、勿論、その絵には像としての消失点は無い。絵には描かれていないが、その絵を陰で支えているもの、それが消失点であり、その様なものが「母親」なのである。なぜ大文字の他者が必要なのか?それは消失点がその絵に秩序を与えるように、あなたが母親の子宮といういわばエデンの園から放逐された後に、魑魅魍魎としたこの世界を理解可能にしてくれるのが「母親」であり、あなたにとっての始原的な大文字の他者なのである。ただ、この始原的な大文字の他者は、貴方にとって不安を引き起こすものでもある。つまり、在ー不在が不規則なのである。在のときは貴方の世界に秩序をもたらすが、不在のときには世界は再び混沌としたものになる。もちろん栄養摂取の欲求という生物的な理由もあるのだが、世界に秩序を与えてくれるという「母親」の存在が、あなたが成長して大人になって、その大文字の母親が、非人称の大文字の他者(例えば、神のイメージ)に代わったとしても、始原の大文字の他者としての「母親」の痕跡は残る。この「母親」との関係を基にして、その後の父親、同胞、友人、恋人というような小文字の他者との関係が成り立ってくるのである。あなたの世界の消失点が「母親」だということが理解されたときに、この「母親」が気まぐれであるという事が、あなたの世界の後世に影響を与える。なぜ気まぐれであるのか?そこに母親の欲望がある。子供にとって、「他者」がいつもそばにいてくれることが、世界に秩序を与え、この世界にいてもいいことを保証してもらえることなのである。しかし、母親の欲望は気まぐれである。いつもあなたを欲望しているわけではない。あなたは何とか、母親の不在の時も世界に秩序を与えたい。気まぐれな母親の欲望を、気まぐれではないものにしないとあなたの世界に秩序がなくなってしまう。そこで、母親の欲望の先に「父親」(これも実在の父親ではなく、『大文字の父親』)の欲望を見なくてはいけなくなる、ここで「父の名」が必要になり、そしてエディプスコンプレックスにつながるのだが、今はそこには触れない。

    むしろ、母親の欲望が気まぐれである事はあなたには悪いことのように感じられるかも知れないが、もし気まぐれではなくてあなたしか欲望しないとか、気まぐれなのにあなたがそれを気まぐれではないと勝手に理解してしまったら、「他者」はあなたが望むようにあなたを欲望してくれると思うであろうし、そうなると、大文字の「他者」の欲望はあなたにとって確信的なものに成り、ひいてはその延長線上にある、小文字の他者」の欲望も確信的になる。それはパラノイアの世界ではないか。「母親」の欲望が気まぐれであることで、母親に欲望されることを欲望するあなたの欲望は、必然的に弁証法的展開を見せる事になる。この「揺れ」(恋占いを花弁で行うことをイメージしていただけると分かりやすいと思う。)こそが、あなたが、他者の欲望を欲望する時に、他者の欲望に幅を与えてくれるわけで、単純化の誹りは免れないであろうが、その幅の無いのがパラノイアの対人関係、幅が狭過ぎるのが、今問題にしている正常者の悩める対人関係、そもそも「他者」が存在しないのが精神病の対人関係ではないのかと思う。

     

    最後にきわめて情緒的ではあるが書きたいことがある。このブログを書いている時にBSの番組で、何十年かぶりでマイク眞木が歌う「バラが咲いた」(浜口庫之助 作詞作曲)を聞いた。単純な歌詞とメロディーであるが、「バラが咲いた」ことに気付く時が、世界に秩序が与えられた時、つまり「母親」という消失点が与えられ、世界が秩序をもった日、それにより寂しかったぼくの庭(世界)が明るくなった、ずっと咲いていてほしかったのに、いつの間にか「バラが散った」、その時が母親という大文字の他者を失った時で、にもかかわらず世界が秩序を失わないのは、庭が、世界が「母親」という赤いバラによって明るくなった体験があったために、庭は再び淋しくなったが「寂しかったぼくの心にバラが咲いた」からなのであろう。想像的なものとしての「母親」を失っても、象徴的なものとしての「母親」を心に持つ事で、世界はある幅の揺れを保ちながらも安定するのであろう。昔、小此木先生が、喪が開けるとはそれまで亡くなった人を思うとその人が具体的な姿で心に現れるのが、脱人格化された時、、つまり姿形を伴わず、完全に自分に同一化されたときが「喪が明ける」事だという意味のお話をされたのを、これもまた何十年ぶりかで思い出した。

    | 2.エッセイ | 11:01 | - | - | - | - |
    患者は医者を選べるが、医者は患者を選べない。
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      『患者は医者を選べるが、医者は患者を選べない。』 この言葉は、私が医者になりたての頃に、虎の門病院の当時副院長の三村信英先生から言われた言葉である。当時は多少の違和感のある言葉であったが、先生の普段の生き方に身近で接していたことで納得せざるをえなくて、盲目的に従ってきた。今でも診察時にはこの言葉を忘れた事がない。いまでは全く違和感はなくなったが、自分がこの言葉を自分で若い先生に伝えてもなかなか理解してもらえない。改めてこの言葉を自分でどう解釈して来たかを述べなくてはならない年齢になったと思う。ドイツ語に、Beruf という言葉がある。辞書的には「職業」という意味であるが、かって大塚久雄がマックスウエーバーのプロスタンティズムの倫理と資本主義の精神を訳す時に、この Beruf の訳を悩んで「天職」と訳したというエピソードがある。それは、「あたかも労働が絶対的な自己目的ー(Beruf :天職)ーであるかのように励むという心情」という事があるからである。つまり、(Beruf としての)職業は神からの召命であるということである。天職に恥じないように医師として働けというのが、三村先生のおっしゃりたかったことだったと、今の私は(勝手に)理解している。なぜ、職業が召命なのか?それは、修道院で言われた「祈りかつ働け」という事がそこに有り、更にそれは、予定調和説に立つキリスト教での「救い」に直結するのであろう。もし、医者が患者を選んだら、それは神の召命を拒否したことになる。鈴木正三という禅僧が、農民から「仏行に励めと言われても、農業が忙しくて、仏行にはげむ時間がない」と相談されたときに「農業即仏行なり」と答えたという話があるが、職業を仏行、天職とすることしか「救い」の道はないとしたら、それなりの職業への取り組みがあるということを忘れてはいけない。それは始原を忘れないこと。医者になろうとしたときに自分が何を思ったかを忘れない事だと思う。私事だが、職業としての医師は、自分の専門知識を使って困っている人を助ける者だと思う。それに邁進していく事が天職としての職業で有り、そうする事で、もしお金が貯まって金持ちになるのであればそれでよいし、自家用飛行機を持とうが、何をしようが構わないと思う。しかし、資本主義の精神が失われたこの時代に、医師といえどもその影響は受けるので、金もうけを目的に医師になるのも仕方ないとは思うが、それでは「祈りかつ働く」とはいえず、天職とは言えないと思う。利潤を出さなければ病院が成り立たないのは仕方ないが、せめて『患者を選ばない』事は心においてほしいと言うのが老婆心である。
      | 2.エッセイ | 22:42 | - | - | - | - |
      作為の契機 その2
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        仙台で今の仕事を始めて10年を過ぎ、本来であれば、例年のごとく、昨年一年の総括の他に、この10年をまとめ、新年へ向けて方針を述べるべきなのだろうが、年末から喪中であるため、今回はそのような事は差し控えたいと思う。よって、前回のブログの続きを書きながら、その中で脱線して昨年の事に触れる事でもあればそれで代わりとしたい。 もう何十年も前に、ある経済学者から、日本社会の構造的欠陥は、本来は下部組織であるはずの、会社、官庁、学校という、本来はなんらかの機能を司る機能的集団が運命共同体になってしまうことで、このエートスは、戦前も今(昭和50年代)も変わっていないし、敗戦により天皇制とそれと同型の農村共同体が崩壊したことにより、共同体論理と対立するものがなくなってしまった為に、却って強化されているということを聞いたのであるが、彼の慧眼は現在の日本の世相を正しく予言していたことになる。このエートスが、たとえ日本国内のことであろうと、憲法、法律よりも、運命共同体化した、それぞれの組織の論理を優先させ、この国の論理を二重化させてしまった。建て前と本音と言う表現では包括し切れない醜悪なダブル・スタンダードの国になってしまった。今はあまり聞かなくなったが、日本人がエコノミック・アニマルと揶揄された頃、日本では紳士然とした方々が、一度海外に出るや買春に走り、現地で顰蹙を買う事があったが、これなどは共同体の外、しかも国外という事になると、大脳新皮質の抑制が外れ、野獣化してしまうということである。運命共同体の中だけ、その共同体独特の倫理を守りさえすればいいということになる。共同体の中でのみ紳士であれば良いのである。心に神をもたず、共同体の中にしか神はいないということであろうか。 振り込め詐欺はもちろん犯罪として処罰されるが、官僚は経済政策の失敗で税金をドブに捨てようが、政策決定の書類を無くそうが、誰も責任を問われない。これは、真珠湾攻撃の前に宣戦布告を怠った駐米大使がその後も順調に出世したことから分かるように、同じ国に住みながら所属する共同体がちがうと、規範さえちがうということである。しかも、運命共同体化している日本の組織では、そこに属する個人がその共同体から外れた瞬間に、今までの生活を維持する事は極度に困難になる。 余談だが、こういう見方を、日馬富士の暴行事件における貴乃花と相撲協会の関係に適応するとマスコミの説明とはちがうものが出て来る。本来暴行事件をその場で見た人は第三者であろうが、すみやかに警察に連絡する義務があるし、また被害者の保護のために救急車の要請をすべきであろう。まして、第三者ではなく、直接の関係者、しかも他の力士の模範となるべき横綱がいたのであるから、本来はそれを怠ったことこそが第一に責められるべきであり、後日事実を知った貴ノ花が警察にしか訴えず、相撲協会に何らの連絡もしない事が一番に責められていることはあまりに理不尽ではないか。相撲協会というまさに典型的な運命共同体であり、、元検事をその長とするなんとか委員会などは共同体内の組織に過ぎないし、捜査権も何も無い。暴行事件という刑法上の犯罪には、警察、検察にしか捜査権はないのだから、少なくとも起訴の有無がはっきりするまでは、共同体の中で処分しようとするのは、いわゆるリンチなのではないか。 基本的人権という人間ならば誰にでも保障されているはずの権利が本来は機能的集団にすぎない組織が運命共同体化してしまっている事で軋轢を生じているというのが、ブラック企業のみならず、全ての会社、役所、学校で起きている問題なのではないのか、そういう思いを強くした一年であった。 社会制度は人間が作った物だから、変えられるのだということを、彼女が目指したものは疑問はあるが、具体的にチャレンジして空中分解したのが、小池百合子であった。チャレンジした事だけは、ほかの議員の男どもが盲従する中で、評価したいが、何故失敗したかを分析したい。それは、昔高校時代に漢文で習った李斯の「逐客を諌める書」にある  「泰山は土壌を譲らず、故によくその大を成す、河海は細流を択ばず、故にその深をなす、王者は衆庶を却けず、故にその徳を明らかにす。」 で明らかである。彼女は私と同い年なので、高校時代にこの漢文に接しているはずである。歴史に学ぶというのはこういうことなのではないか。 思い出すと昔、自民党で「加藤紘一の乱」という茶番のようなことがあったが、この乱とも言えない様な乱が自民党内のハト派で あった宏池会の衰退を招き、それがタカ派の福田派の継承である今の安倍派独裁につながったのではないか? とりとめのないブログになってしまったが、自分が閉じ込められている環境世界から抜け出すことが出来るところに、人間とほかの動物を分けるものがあるのであり、そういう意思を持った生き方ができるかどうかである。
        | 2.エッセイ | 09:47 | - | - | - | - |
        作為の契機
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          ストレスチェックが広く行われるようになり、「〜病」とカテゴライズできない、つまり過大なストレスに悩みながらも、社会生活、家庭生活を普通に営んでおられるいわゆる普通の方々とお会いすることが多くなり、医学部で習う事があまり役に立たない、むしろ社会科学でしか分析のできない事が多くなったように感じる。 簡単に言うと、本来なら三人で行う仕事の量が、人員削減で一人でしなくてはならなくなったなら、単純計算で一日八時間労働として3人分で24時間、それを一人でしたら丸一日かかる訳で、それで平気で社会生活、家庭生活を送れたとしたら、その方が不思議ではないのか? 新聞紙上で、学校でのいじめ、不登校に関して自殺者が出て、情報開示が当たり前のように唱えられているのに、現場では学校ぐるみの隠蔽が堂々と行われていて、それでいじめや不登校をなくす事ができたらこれもまた不思議ではないか?さらに言えば、上司からのパワハラで、鬱になった方に、太陽に当たって(セロトニンをあげて)症状を良くしようとするということに疑問を感じないのか? 例をあげるとキリがないのであるが、個人と組織の関係で起きている問題がこれだけ多いのに、組織を変えるという事は手を付けずに、個人を変えようとしているようにしか思えない事が多い。 この点について、丸山眞男が言った「作為の契機」に基づいて分析を行うと、日本人は自分の属する組織に対する帰属意識が優先し、つまり日本国よりも、属する会社、組織が共同体になってしまっていて、その結果、直接的な人間関係が規範化されてしまう。さらに規範化されたものは、それが自分達が作り出したものであることが、つまり始原の事実がやがて忘れ去られ、元々は自分たちが規範化したものにただ従うだけ、もう自分たちでは変えられないものとして、その中でのみ生きて行くことになる。どういう訳か、それが最近強くなってきている所に、ストレスチェックで引っかかる人が増えている大きな要因があるのではないかと思うのである。始原を忘れることで、あたかもそれが自分たちには変えられないと思い込む、というより無意識的に支配されている事が問題なのだ。社会制度は「作為の契機」なのであり、自分たちで変えられることなのである。組織は変えられるのである。 資本主義の精神はキリスト教にあるというのはウエーバーのいうとおりであるが、キリスト教は、相手が神様でも契約を変える事が出来る。だから聖書に、新約、旧約があるのだ。契約を変えられないのはイスラム教である。 このような世相を分析していると、そのメカニズムはパラノイアのそれと同型ではないかとという気になってくる。 ハイデッガーは、人間のみがその環境世界を超えいでる事が出来る、他の生物は自分の環境世界に閉じ込められ、その世界から出る事ができないと言ったが、今の世相から言うと、われわれは、我々の世界から出る事が出来なくなってしまったのではないか? 人間が人間らしく生きれなくなっているわけだから、ストレスチェックに引っかからない人のほうが、じつは本来的生き方ができていない(頽落)ということになるのではないか? ハイデッカーがよく言葉の語源にもどって解釈をしているが、それは始原を取り戻し、生成途中にある不在ということを我々に示すためだったのではないか? 作為の契機を明らかにして、もともとは我々が作り出したにすぎないものに無頭的に支配されない主体的な生き方が、「過去を不断に捉え直しをして、その有限な未来に向かって、現在を生き生きとして生きていく」ことを可能にしてくれると思う。
          | 2.エッセイ | 19:58 | - | - | - | - |
          内心の自由
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            内心の自由

             

            正直なところ、この年齢になって、「内心の自由」についてこの様な文章を書くことになるとは思ってもみなかった。そもそものきっかけは東京都議選の安倍首相の街頭演説なのであるが、その後、菅官房長官が公式にこの首相の発言には何ら問題がないといい、それに対するマスコミの反応が情緒的すぎると感じたことにある。

             

            さて、カウンセリングで一番大切なことは「共感」であると前にも何度か述べているが、その前提になることが、クライエントの内心の自由の尊重である。これは私見ではあるが、もしカウンセラーがクライエントの内心に直接土足で踏み込む様な、あるいは内心を否定する様なことをした時、それはカウンセリングが「暗示」に堕ちてしまうのだと思う。

             

            内心の自由の由来は、神が自身が創った世界に対して絶対的であるのと同じ理由で、人は自身の心に対して絶対的であるということなのだと思う。キリスト教の真の信仰は、内面の信仰であり、外に現れる行動ではないというのと同型の考え方である。1700年代に啓蒙専制君主の典型とされるフリードリヒ2世が、「反対するのは自由である。ただし服従せよ」と言っているが、それから200年以上経過した(進歩した?)我々の世代で、専制国家より以前の認識を公に聞かされるとは思わなかった。 言論の自由は、内心の自由によって保証される。首相は、自分の信条、思想に全面的に攻撃してくる者の言い分も聞き、それも国民の一つの意見だとして尊重しなければならない。それが近代デモクラシーの権力者として当たり前のことである。人の内面に対して、外面的制裁を加えるということは、(専制国家でも)あってはならないことである。首相は、ヤジに対して感情の赴くままに発言してしまったわけで、これは近代デモクラシーの否定であり、それを擁護した官房長官は首相の発言のデモクラシーに対する意味がわからず、さらに自分の無知をさらけ出してしまったのである。本来なら、反デモクラシーの発言と、その擁護なので、お二人とも議員辞職は当たり前なのだが、不思議にそうならない。

             

            それはマスコミが機能不全であることがその一因だと思う。 先日成立した共謀罪というのは、例えば不逞の輩が徒党を組んだ、あるいは組みそうだと権力者が判断した時に、それを処罰することができるというものである。近代デモクラシーの権力者は、不快だと思うまでは自由であるが、それを権力を使って外面的な行動がないのに処罰することは、個人の内心に侵入することなので許されることではないのだが、それを可能とする法律なので、フリードリヒ2世より以前の時代に退行しているということになる。この様な権力の行使は近代デモクラシーの権力者は自制しなくてはいけないし、この様な権力の行使を認めない様に監視するのがジャーナリズムの働きなのであるが、例えば、家計事件における読売新聞の前川元文部省事務次官に対する報道は、その情報源は警察だそうであるが、事務次官としての仕事ではなく、取るに足りない倫理的なことで記事にしたことは、ジャーナリズムの機能の自己放棄であろう。

             

            内心の自由というのは最も基本的な自由であることを、そしてデモクラシーにとってその肝であることを他ならぬ自由民主党の方々にお分かりいただきたい。

             

            | 2.エッセイ | 09:01 | - | - | - | - |
            伝えたい言葉
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              伝えたい言葉がある。それは「挫折は、そこから教訓を引き出すために、その原因を徹底的に分析することが可能なとき、つねに勝利よりも多くを教えてくれる、なぜなら、その結果は物事の根底に向かうことを強いるからである。」という言葉である。

               

              今年も小学、中学、あるいは高校時代から不登校でカウンセリングをさせていただいた何人かが、自分で目標を見つけ、そのための行為、行動として大学入試に臨まれている。そろそろ結果が出だしている。首尾よく合格された方も、残念ながら、カウンセリングをやめて受験までたどり着けなかった方もある。センター試験で失敗された方も、A日程、B日程と頑張られたが合格できず、今C日程に向けて頑張っている(であろう)方もおられる。全ての方に伝えたいのが、上記の言葉である。大学入試が終わると、結果のいかんにかかわらず、お会いできなくなる方が多いのでブログでお伝えしたい。

               

              私自身人生で「偉大なる勝利」など無いに等しい。挫折や危機の経験ばかりと言って良い。何も勉強や仕事に限らず、スポーツにおいてもそうであった。しかし、今自分の人生を省みた時に上記の言葉の重さを実感をもって感じている。「物事の根底に向かうことを強いる」ということの意味が若い人たちにはどうしても理解出来ないであろうことは、自分の経験からもわかる。特に、こういうブログへの記載という形で全ての若い人たちに伝えることは不可能であることも理解している。しかし、長い時間を、断続的であれ、ある意味共有してきた君たちであれば、今はできないかもしれないが、いずれ自覚してくれると信じたい。挫折など味わいたく無いのが当たり前である。順調に社会に適応していくことがどんなに楽に感じるであろうことか。だから挫折は人生に必要だなどと説教をする気はない。しかし、原因を徹底的に分析できたなら、物事の根底に向かうことが可能になるのは本当である。それがその人を世俗的な幸せにするかどうかは別であるが、自分自身で考える「真理」へ強いてくれるのは事実である。

               

               

               

              | 2.エッセイ | 05:07 | - | - | - | - |
              ファウストとメフィストフェレス
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                最近のブログでしきりに近代の終わりについて書いたが、来るべき時代は現在の退行的な風潮とは全くベクトルの方向が異なったものであろう。それは実は既に1968年の五月革命で問題として提示されながら、その解決方法を「社会主義革命」としたために誤って答えを出してしまったもので、だから世界を変えることができなかった、世界精神が味方しなかったのだと思う。社会主義、共産主義は結局資本主義のあだ花でしかなく、資本主義の付属物に過ぎなく、資本主義に取って代わるようなものではなかったということであろう。

                 

                当時も資本主義的な実証主義が限界を迎えだし、それに学生が反応したのが原点ではないかと思われるが、結局はドゴールの老獪さと、デモクラシーというこれまた資本主義のしもべにより、青臭い学生の理想主義と、根は賃上げ要求に過ぎない労働者のデモとして原点が消されてしまった。しかし、当時学生が提示していたその原点は今の問題と同じではないのかと思う。

                 

                1968年の日本は、思案橋ブルースという歌が流行り、佐世保で米国の原子力空母入港へのデモが行われた年である。前にも述べたがこの時に私は中学生であり、感覚的にそこに時代の切断があったようには思えなかったし、右肩上がりに経済成長していく日本にとっては五月革命の学生が唱えた「禁止することを禁止する」という主張はわからなかったのだと思う。あの時代は毛沢東思想がまだ生きていたり、社会主義者も元気で、まさに五月革命の目的は社会主義革命と当事者達からも主張されているが、「禁止することを禁止する」というのは社会主義にはなじまないことはお分かりになるだろうと思う。この「禁止することを禁止する」という主張がどういう背景から出てきたのかを知れば、それがアカデミズムの世界で、実証主義の負の部分が既にこの時代のフランスではっきり認識されていたことがわかるし、遅ればせながら現在の日本での問題が浮き彫りになると思う。

                 

                話を精神分析の世界に限ると、ラカンは、当時のフランスでの代表的知識人であり、その彼が五月革命に対して、その時点でどういう態度を取り、その後の彼の理論の展開に五月革命に対するラカンの答えを求めるという視点が後期のラカン理論の理解には必要なのではないかと考えてきた。それに応えるためにラカンが最後に到達したと思われる地点は、シュレーバーの地点(「神の女になる。」)と極めて近いところなのではないかという疑惑をずっと持ってきた。未だにそこにはついていけないのであるが、パラノイアからR.S.I ではなく、逆にR.S.I からパラノイアに向かう遡及的な読み方がラカン理解の近道ではないかと思うようになった。それができたら、再びその疑惑を再検証したいと思う。 19世紀の科学の方法は自然をヴェールのかかったままで研究する方法で、ゲーテ流に言えば、ファウスト的やり方である。それに対して20世紀のやり方は、いわゆる実証科学であり、自然のヴェールを剥いで、赤裸々に自然を晒す、破壊する、メフィストフェレス的やり方である。前者は倒錯的、後者は神経症的と言えるかもしれない。そもそもの精神分析はまさに後者に属する。そうすると新しい時代は精神病的、シュレーバー的やり方なのかもしれないし、精神分析もそのようなものになるのかもしれない。

                | 2.エッセイ | 22:18 | - | - | - | - |
                大文字の他者 2
                0

                  以前のブログで、ひょっとすると我々は近代の終わりに立ち会っているのではないかと書いたが、マクロな視点からの歴史の発生としては1968年のいわゆるパリの五月革命が、近代の終焉の始まりを考える上でのエポックメイキングであろう。私自身が当時まだ中学生であり、パリの事など知る由もなく、また同時代の日本での学生運動も終焉に立ち会った程度であり、体験としてではなく、事物自体とゆっくり付き合うという意味で歴史として近代を考えるという視点で見た場合に、ミクロの視点が透けて見える。

                   

                  権力は、マクロとして国家権力として赤裸々に現れる(現在の沖縄辺野古のように)だけではなく、ミクロとして人知れず市民社会の中まで侵入している。この後者のタイプの権力があることが自覚され始めたのが五月革命からなのである。このことはフーコーによって理論化されている。既に当時権力は上から降って来るだけではなく、我々の日常生活の中で、それと知られることなく、日々再生産され、悪性腫瘍の様に増大し続けていたのである。この後者の種類の権力、日常生活の場に潜む、小さな支配が、実は我々の自由を奪い、数々の問題を具体的に引き起こしていることを我々は実際の生活の場で自覚しなくてはいけないし、それが近代の構造的なものであり、我々の「大文字の他者」であり、そういうミクロな権力からの自立が次の時代を創るのではないか。

                   

                  かって連合国総司令官マッカーサーが、日本の隣組は全体主義の温床であるとして廃止を命じたが、それから60余年が経ち、様々な場、例えば町内会、PTA,  少年野球等にその温床が根深く蘇っていることは枚挙にいとまがない。近代の象徴である自由、平等が果たして本当に市民社会の中で実現されたといえるのであろうか。

                   

                  近代の自由、平等に分かち難く伴う、中心化、同一化に隠された権力構造を認め、それからの脱却を目指すのが、精神分析の目指すものであり、構造主義、ポスト構造主義の目指すものなのではないか。近代の実体主義の否定により、差異化によるミクロの事件の発生を通して、個人が、過去の構造化の中で生じながら、同時にその構造の外にもいる、つまり「内なる外にいる」ことが、近代の終わりの主体の存在様式なのではないか。次の時代の自由の条件が、差異性、非実体性、非同一性であり、それが近代以降の人間の自由、自律性を司るのではないか。近代が隠していたミクロのレベルでの権力構造を露わにし、それからの脱却を差異化を通して日常生活のレベルで個人が日々行うことで、マクロなレベルでの(近代が成し遂げられなかった)自由、平等を実現していく、ミクロからの変革がマクロな変革を主導するのが次の時代の現存在の存在様式になるのではないかと思う。

                   

                  | 2.エッセイ | 04:49 | - | - | - | - |
                  トランプ大統領の精神分析
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                    トランプ米国大統領による「入国禁止令」が物議を醸しているが、これを分析するにあたり、元々は第二次大戦後ナチスドイツの人種差別についてなされた精神分析の言説に是非紹介したいものがある。いろんな人が今まで人種差別者の分析として引用しているが、ファルス(想像的)という言葉を用いるので、一般の人たちからは敬遠されてしまうせいか、今の所トランプ氏の分析には登場しているのは寡聞にして聞かない。今回は社会学者で、少し前に亡くなられた作田啓一氏の「悪の類型論」を参考にして述べてみたい。

                    余計なことではあるが作田氏の論文は非常に論理的であり、それを書かれた時の氏の年齢を考えると驚嘆に値する。自分もかくありたい望むものである。

                    さて、まず「悪」の定義から入る。氏は「悪」を「主体の意志にもとづいて他者の福祉(good)を破壊する行為もしくは動機である」と定義をする。福祉とは生命、健康、所有、利益などを享受している状態であって、この状態の破壊が悪にほかならない。

                    こう「悪」を定義した上で、社会学者としての彼の興味は悪の行為そのものではなく、その動機づけにあるという。

                    「悪」を S. ジジェクの三類型論を再構成しながら、「ファルスの悪」に人種差別者の「悪」を当てている。その部分を引用すると、「人種差別者であるスキンヘッドは自分が属していない他の人種や種族や民族が望ましい対象を所有していると信じている。彼によればその対象が不当にアウト・グループにとって所有されているために、彼はその対象から受ける恩恵に預かることができないのである。だから彼がアウト・グループを攻撃するのは、それによって本来自分に帰属するはずの対象を奪い返そうとするためなのだ。」ということである。

                    この引用した文章を精神分析的にパラフレーズすると、彼がファルスの悪の第一のタイプと再構成したものになり、それはこの論文の真ん中ぐらいのところで述べられている通り、「想像的ファルスを欠如している自己がそれを所有する他者を羨望する。それに想像的ファルスは本来は自己のものだという正統性の信念が加わると嫉妬となる。単なる羨望から嫉妬に移ると、他者への攻撃が生じる。この段階にいたって初めてファルスの悪について語ることができるのであり、単なる羨望にとどまる場合はまだ悪にはつながらない。」となる。

                    ここまで述べたことで、トランプは典型的な人種差別者であり、自分が持っていないもの(想像的ファルス:ファルスは「究極的力」と読み替えるといいと思う。)を異民族は持っている(本当は持っていないのだが、持っていると思ってしまう。)と「羨望」し、さらにそれは本来は米国のものだという信念が生じ、盗まれたものだから返せという返還要求になる、その時点で「悪」になるということなのである。

                    ここまで読まれると、2000年に書かれた氏の論文が、17年後に登場した米国大統領の心理(動機)を物の見事に予見していたことに気づかれると思う。トランプが差別主義者であることも問題ではあるが、米国の憲法は「カイザーを米国に出現させないこと」を強調していながら、だからこそあんな複雑で長期にわたる大統領選挙制度を定めているのだが、それでも民主的手続きを踏んでトランプが大統領になったことを忘れてはならない。ヒットラーも選挙で選ばれているのだ。

                    こういう分析は、視点を変えると、韓国の窃盗団による対馬の仏像盗難事件にも応用が効くのである。優れた仮説というのはその射程が長いものである。そろそろ日本の社会学者による日本の近代の終わりの分析が出てきてもいいのではないかという気がしている。

                    | 2.エッセイ | 03:30 | - | - | - | - |
                    大文字の他者
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                      大文字の他者 「大文字の他者」は、仏語ではAutre, 英語ではOther、マテームの中では AとかOと表記されるが、この大文字の他者との関係を巡り、精神分析は展開していくわけだから、人間にとって最初の大文字の他者は、子供にとっては生殺与奪の権利を全て握られている(大文字の)「母親」であり、言語の中ではシニフィカチオンの束とされたり、あるグラフの中では「シニフィアンの宝庫」と言われたり、またある場合には「神」と思える場合さえある。こうやって例を挙げていくと、なんとなく雰囲気的なものは把握できる。この雰囲気を、もう少しはっきりさせたい。 さて、昨今の世界情勢を見ると、近代資本主義が、そしてそれを裏打ちする民主主義が限界を迎えたように感じられる。国により、その限界の迎え方は異なるが、近い将来の化石燃料の枯渇、難民、英国のEU離脱、先進国の右傾化、米国のトランプ大統領の一国主義、こういうものが全て「近代」の終わりを告げているのだと思う。我々にとり、大人になってからの大文字の他者は、この「近代」ではないのかと考えるのである。

                       

                      では、「近代」とは何か?について、今村仁司「近代の思想構造」を参照しながら述べていきたい。

                       

                      歴史的には、近代とはフランス革命から今までの二百余年をいい、その前に準備期としての、ルネッサンスなどの二百年がある。後者は宗教戦争、つまり宗教改革と反改革との争いの時代であり、封建時代が終焉を迎え、近代への助走が始まった時期である。 現在が近代の終焉であり、現在の世界情勢は近代が終焉を迎え、まだ姿が見えない次の時代に対する不安による退行現象としての症状ではないのかと思うのである。つまり次の時代への助走を始めるための一時的な先祖返りとして今の世界情勢は理解されるべきで、現在を生きる我々の責任は、退行という後ろ向きの現象に与するのではなく、次の時代に向けた前向きの助走を模索することだと思う。近代の助走がルネッサンスに続く宗教戦争であったように、次の時代への助走は全体主義との戦いなのではないかと思う。 いささか先走りすぎたが、近代というのは歴史的な時代であるだけではなく、大文字の他者として我々近代を生きてきた全ての人の心に作用してきたのだと言いたいのである。 今村仁司は、社会科学の文脈で近代を、構造として捉えた。 ここでJ. Piaget による「構造」の定義を紹介すると、「構造とは一つの変換の体型である。」というもので、構造とは構造の中の諸要素の持つ特性とは違う「体系としての法則」を持っており、その変換の働き自体によって、保存されたり、豊かなものになったりする。しかし、これらの変換は、その体系の境界外に達したり、外部の要素に訴えたりすることはない。だから、構造は3つの特性、すなわち、全体性、変換、自己制御という特性を備えているということになる。 この意味で構造として捉えられた「近代」には5つの要素があると今村は言う。

                      それは、1)自己との関係 2)他人との関係 3)人間と自然との関係 4)時間の意識 5)機械論的世界像 である。

                      この辺で実際にカウンセリングをされている心理畑の方には、もう私が何が言いたいのかお分かりになるかもしれない。カウンセリングには、「心理学」よりも社会科学の方が実践的だと過去何度かこのブログで述べてきたが、この構造分析はそのいい例である。以下この5つの内容の説明をするが、これは「近代」の要素として、こうですと言うもので、それが真理だと言うのではないので、くれぐれもそこを忘れないで読んでほしい。

                      1)自己との関係

                       

                      「近代自我論としてデカルト以来研究されてきた近代の自我、その働きとしての理性は認識や行為の原点、原理、根拠になっている。思考と実践の一切が自我から出発しており、観念的現象であれ実践的現象であれ、あるいはさらに自然現象であれ、それらは例外なく自我の理性的認識によって構成される。人間の行為は、それがどのような種類のものであれ、自我の決断から生まれる。社会的、政治的世界なども、原則的には自我の行為によって構成されるとみなされる。だから、近代人は、まず自己に関係する(反省する)ことなしには事実上は生きることはできない。たとえぼんやりしていても、近代人は実際には自己関係を最も大切な出発点にしている、少なくともそうした信念のもとに生きている。」 なぜそういうことになるのかというと、近代という構造が大文字の他者として働くからなのである。気づかない限りこの近代的自我で我々は生きていくことになる。これに異議を唱えたのがフロイトの無意識なのであり、それがフロイト以後に特に米国の自我心理学に代表されるような、自我を強化することで葛藤に打ち勝つという「後退」があり、そしてラカンによるフロイトへの回帰が行われるわけである。大文字の他者からの束縛を超えていくことが精神分析の目標であることがフロイトの無意識ではすでに意識されていながら、後継者たちはそれを忘れてしまったということなのである。ここで一言付け加えたいのが、例えば古代の人間と近代の人間ではその有り様が異なるということである。

                       

                      2)他人との関係

                       

                      「近代人の他者との関係は「市民社会」である。独立した個人が、個人的利害関係を中心として、他者と付き合うのが市民社会の関係のあり方である。市民社会の前の社会のあり方が共同体社会であり、いわゆる部族社会で、個人よりも部族、集団が優先される。」 本来近代とはこの意味での市民社会なはずなのだが、日本では未だに冠婚葬祭を含め、日常的なところでも部族社会が顔を聞かせていることを日々の仕事の中で痛感する。

                       

                      3)自然と人間の関係

                       

                      「自然との関係は生産活動のことである。近代以前の人間は、近代人のように生産を労働と考えていなかった。宗教的、道徳的な活動とみなしていた。生産は祈りのようなものであった。だから、近代以前では、人間が自然を征服するという思想基本的にはない。ところが、近代人は、そして近代人だけが、生産活動を労働と捉え、生産活動を持って自然を征服し、それによって人間を自然から解放するという思想を持つことになった。人類の解放という思想は、たしかに近代独自の思想であるが、それはまず自然からの解放であった。自然から解放された人間は一方では古い共同体を解体してそれから解放され、独立した個人となり、そうした個人が作る市民社会を理性によって管理することを第二の解放と考えてきた。自然からの解放に力点を置いたのは初期近代思想であり、社会の理性的管理に力点を置いたのが、第二近代ともいうべき19世紀以降のいわゆる社会主義思想である。」 要するに資本主義も社会主義も共産主義も近代に属する思想であり、原理的に自然との共生はありえないのである。 「自然征服的労働=技術体制のおかげで実現した物質的な豊かさを満喫しながら、自然との共生やエコロジーが可能だと信じるのは、おそらくは途方もない幻想であると言ってもいいだろう。」あえて付け加えるなら、ラカンのいう「幻想の横断」こそが解決策であり、それには解放という表現ではありながら、ある大文字の他者からの支配が単に別の大文字の他者の支配に変わっただけのことであり、どうやって大文字の他者の支配から手を切り、「自分の」欲望に従って生きていくかが我々の課題だということである。

                       

                      4)時間の意識

                       

                      「近代人は、独自の時間意識を持っている。まずは、人間の知性は進歩するという意識が芽生えてくる。知性は古い知識を乗り越え、新しい知識を蓄積していくと考えるのである。ここに知識の累積、蓄積、増大という意味での進歩の理念が生まれてくる。次に、知性と知識だけではなく、人間の生活が、道徳意識を含めて、累積的に拡大し、上昇していくという思想、すなわち多面的な領域にわたる人類の生活が全体として進歩するという思想が生まれてくる。ここに近代に特有の「進歩の歴史」の思想がうまれた。それが現代に到るまで社会活動をリードする有力な思想であり続けてきた。」

                       

                      5)機械論的世界像

                       

                      近代機械論は、空間も時間も等質的なものとして把握し、人間の自然な知覚構造を拒否して、自然も人間も機械をモデルにして、しかも等質的な物質としてみることで、精密な数学的認識を達成した。それは真実というよりも、一つの仮定、よくできた仮説であるのだが、いつのまにか、精密崇拝のゆえにか、「真実の」認識と見なされるようになった。加えて、「知性と物との一致または照応 adaequation 」に基づく「真理」の形而上学的理論が機械論的科学の基礎論を提供している。

                       

                      この5つの要素が近代という構造の中心的要素だと述べているのだが、近代人であれば、この5つの要素に多少の凸凹はあっても、いつの間にか身につけてしまう、結果自分にもともと備えられていたものであるかのように無自覚になってしまう要素なのである。刷り込みということなのだろうが、もし今が近代という時代の終焉であるならば、我々は、近代という大文字の他者と縁を切り、近代という幻想の横断を目指さなければならない。しかし、我々の時代は近代の助走がルネッサンス、宗教戦争であったように、次の時代の助走の始まりでしかないのだから、約束の地を望みながらそこには入れなかったモーゼのように消えていかなければいけないのかもしれない。

                      | 2.エッセイ | 21:30 | - | - | - | - |