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青葉心理クリニック

カウンセリングの倫理 1
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    マックス・ウェーバーが「キリスト教(プロテスタント)の精神が資本主義をつくった」と言っている事はこのブログで今までにも何回もふれている。また現在我々が生きている時代は、フランス革命の射程にある。デュルケームが「社会は個人に対して内在的かつ超越的である」といったが、たしかに欧米では個人に対して超越的でかつ内在的なのはキリスト教の精神であり、資本主義であり、フランス革命の精神であろう。しかし、日本では明治維新後は和魂洋才と言えば聞こえは良いが実際には、和魂を抑圧し、勿論洋魂は入れないで洋才のみの輸入(例えば日本の民法に関してフランスの民法学者に丸投げしようとした歴史上の事実で示されている。)をしたために、江戸時代までの土着の文化は輸入された西欧文化によって席巻されてしまい、両者に通路はない、心でも同じように、意識的な自我は西洋化されながら、土着の感情的直接性は抑圧され、その自我と無意識との間に連絡の無い状態ができてしまったのである。自己分裂である。これは高じると倒錯、自己欺瞞を生じさせる。個人でも社会でも外からの強制でしか時代に追従できなかったことが、社会でも、個人でも軋轢を生じつづけてきたのが我々の歴史であったといえると思う。先日、ゴーンさんが逃亡して、逃亡した理由に日本の人質司法をあげ、以前から問題視されていた事が再び俎上に上がり、森法務大臣は弁護士でありながら、日本の司法には問題はないと公式に発言したのは記憶に新しいところだが、自白を強要し、得られた自白をもとにして調書を作る、自白しないと拘留期間がとめどなく長くなる、保釈しない等というやり方は、じつは中世日本以来綿々と続いてきたものであり、欧米の人権思想からは理解されないものなのである。江戸時代の牢屋で、自白させるために石を抱かせる場面や、吊るし上げて棒で叩いて、気絶すると水をかけてまた叩く場面は鬼平犯科帳などの時代劇ではお馴染みだが、取り調べの形は変わっても、その精神は今だに中世のままだという事なのである。推定無罪ということは高等教育を受けたものならば誰でも知っている事であるが、それが現実には全く存在していない如くなのがこの国なのである。羊頭狗肉ともいえる状態のままである。伊藤博文が西欧化を進めるにあたり、欧米諸国には基督教があるが、わが国にはそういうものが無いので、天皇制を持ってそれに代えようとしたが、第二次世界大戦後の天皇の人間宣言以来、そこは空白のままなのである。食うや食わずだった戦争直後は食べるだけで精一杯であり、その後の朝鮮戦争による特需の経験で味をしめ、経済成長がその代わりになったのか、以来問題の解決に経済問題の解決をもってするのがこの国の習いになってしまい、それが倒錯や自己欺瞞となり、やがてIRの様な賭博を許す品の悪い国家が出来てしまった。
    日本は、個人の確立の前に社会の絆を教育される社会なので、この様な社会のあり方が、個人に強く影響してしまうのは先に述べたデュルケームの言の通りである。レーニンが言うように「人を変えるのが本当の革命」なので、この社会で個人の悩みを解消するのは、まずこの様な社会をまともなものにするしかなく、そのためには革命しかないのであろうが、それを今の社会で期待するのは世界精神の担い手が現れるまで不可能なのであろう。そうなると、人を変えることで社会を変えると考えなくてはならない。その課題として与えられるのが、個人の心の分裂にどの様にして橋をかけるのかという事になる。無意識が人を動かす力だと考えるのはマルクスもフロイトもおなじであるが、前者は制度が人間の中に無意識をつくり、後者は欲動が無意識を作ると考えたわけだが、以下後者の立場で記述して行く。
    フロイトが言うように、真に個として確立した人間から構成される社会だけが連帯を形成できるのであるから、個人の内部にある分裂を解消するために、内部のコミニュケーションの言語を媒体にして行えるようにするというのがカウンセリング(精神分析)の目的ということになる。それで内部のコミニュケーションができると、不安がすくなくなり、精神が活性化され、その事で他者とのコミニュケーションが可能になると考えるのである。
    服従は何も生み出さない。服従する為に、己を抑圧すると、それは自己に不誠実になる事なので、他者にも不誠実になるわけで、相互的なコミニュケーションは不可能なのだ。言語を媒体としたコミニュケーション、言語化がうまくいかないのは、感情と言語が接続する事ができないからである。自由連想法により、無意識と意識が折り合いをつけられるようになると言うのはこの事なのである。感情は抑圧されている限り言語化できない。自由連想法で感情が、欲望が少しづつ言語化できる事で抑圧が減って行くのである。
    こうして目の前で起ることに関して、一喜一憂せず、自分で責任を持つということができるようになり、それで初めて他者との関係がクリアになるのである。
    先ずは、自分を変えようとすること、そしてその責任を己一人で持つこと、それが求められるのである。

     

    | 1.サイコセラピー | 14:18 | - | - | - | - |
    母子癒着 その5
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      4. 終わりに

      最後に、若干の追加を述べたいと思う。ここまで母子癒着について述べてきたことを読まれた方で、なぜ、母ー子だけが取り上げられ父親が出てこないのかとか、母ー子と言っても全てが母親ー息子についてだけ述べられるのかについて疑問に思われた方もあるかもしれない。それは、猿にも近親相姦のタブーがあるらしいことがわかってきて、猿では父親というのは誰だかわからない、だから進化の時間軸では母親ー息子のタブーの関係が動物にまで遡る起源を持つ発生学的に一番古い歴史を持っていて、父ー娘、兄ー妹というタブーの関係とは次元が違うからである。この辺もフロイトがエディプス・コンプレックスをとりあげたのは正しい選択であったといえよう。タブーがあるという事は、無意識にはそれを侵犯したいという欲望、つまり近親相姦の願望が無意識内に存在するという事である。

      河合隼雄は、「中空構造日本の深層」の中で、「近親相姦に対する自然のタブーから解放されることによってまず人間の文化が始まったのではないかということである。もちろん、その後、人間は自ら解放した攻撃性や性欲を、いかに意識的に抑制するかに膨大なエネルギーを使用しなくてはならなくなったわけであるが、動物が生来的にそなえている抑制力を解放し、次にそれをコントロールするという、いわば二重否定のような構造が人間の文化の基本に存在していると思われるのである。」と述べている。そして、「攻撃や近親相姦が動物的なものではなく、むしろ極めて人間的であり、人間の特徴は、それを一面的に肯定するのではなく、その肯定と否定の間の統合の道筋に、その文化を築いてきたという事である」とも述べている。
      ここでいう統合とは、弁証法的に展開するという事であり、その為には、テーゼおよびそれに対するアンチテーゼが対象として認識される事(自分と距離を持って認識される事で、それは対象が象徴化されていることが必要になる。)が必要である。無意識的欲望は対象化されていないので、無意識の近親相姦の願望は、意識され、象徴化されて初めて、意識的な近親相姦のタブーとの間で弁証法的な展開をして、止揚aufheben されるのである。近親相姦の無意識的願望をアンチテーゼ化するためにはそれを意識しなくてはならない。なぜそんなことをしなければいけないのか? それについて河合隼雄は「人間が神々に挑戦しようとするとき、それは近親相姦タブーの意識的な破壊でなければならない。強い意識の力をもって、我々は母との合一を体験しつつ(母との合一は、原初の状態への回帰を意味する。原初への回帰は、おのれの存在を、より根源的なものへと合一せしめることを意味し、それは自我の放棄を要請する。)、なおその中から再生しうるとき、それは限りない創造的な過程となるであろう。ここに近親相姦の象徴的次元における創造の秘密が存在している。」と述べている。つまり、無意識の近親相姦の願望を昇華させることで、凄まじい創造のエネルギーが得られるというわけである。
      こういう考え方がどこから出てくるのかであるが、ユングは退行とは心的エネルギーが自我から無意識の方に流れる現象だと言ったが、自我が無意識と触れることで、病的なもの(非現実的な空想を含む)を得ることもあるが、それが未来への発展の可能性や、新しい生命の萌芽であることもある。後者を創造的退行と名ずけ、それを可能にする新しい要素を生じさせることが母子癒着の解消には必要となる。母子癒着の男が母親との結びつきを断ち切る為には、一人の新しい女性、母親とは異なる魅力を備えた女性に出会わなければならない。このことを河合隼雄は「ある程度の自立をした自我は無意識界に再び分入って、そこに母親像とは異なる女性像を見いだし、それとの関係を確立しなくてはならない」という。前回、「わが母」に登場するアンシーがその可能性を持った女性ではないかと書いたが、これで理解していただけるだろうか。

      | 1.サイコセラピー | 13:47 | - | - | - | - |
      母子癒着 その4
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        3 . 「母性社会日本の病理」から

         

        ユング派のいわゆる元型として「永遠の少年」puer aeternus がある。語源は少年の神で、大地母神の力を背景に、死と再生を繰り返すことで、いつも若返って成年に達することの無い神である。現代社会の「永遠の少年」は、多くは成年に達していながら、少年のままでいる。ユングの弟子のフォン・フランツの記述では、彼らは社会への適応に何らかの困難を示しているが、彼等は自分の「特別な才能」を曲げるのが惜しいので、社会に適応する必要はないのだと自分に言い聞かせたり、自分にぴったりの仕事がなかなか見つからないと思ったりしている。ともかく、何やかやとやってみてある程度のことはしてみるが、いまだそのときが来なかったり、いまだ本当のものが見つからなかったり、「いまだ」の状態に置かれたままでいる。このような将来への期待が膨れ上がる時は、全人類を救う事を夢見たり、偉大な芸術作品を発表する事を想像したりするが、残念ながら「いまだその時ではない」のである。彼等にとって一番難しいことは、一つのことに持続的に打ち込むことである。時には、他人を感嘆させることー相当危険に満ちたことーをやってみせるが、それに持続的に取り組むことはしない。危険性よりも忍耐の方が数倍おそろしいのである。
        「永遠の少年」のよさは、、慣習にとらわれず、直線的に真実に迫り、理想を追い求める姿勢を持っていることである。彼等は無意識から送られてくるひらめきに対してよく開かれた心を持っている。ただ残念なことに、そのひらめきを現実化する力を持ってないだけである。
        このような「永遠の少年」達は話し相手としては、真に興味深い、楽しい相手であるが、仕事の協力者としては最も信頼できぬ、ときには危険な相手ですらある。
        もっとも、「永遠の少年」は、このように魅力を備えているもののみではなく、眠っているのではないかと思うほど、無為な日々をおくっているタイプもある。ひたすら「時」がくるのを待ち、その間を何もせずに過ごしているのである。しかも、その「時」は永遠におとずれないかもしれないのであるが。
        これらの「永遠の少年」たちは、すべて母親との心理的結びつきの強さを特徴としている。ここに「母」と述べたことは、実際の母でなくてもよい、「母なるもの」とでもいうべき存在との強い結びつき、母親コンプレックスの強さが特徴的である。このため、彼等は多少ともドン・ファン的か、同性愛的である。
        彼等は女性の中に母なる女神を求め、次々と対象を探しだすが、それが単なる女に過ぎないことがわかったとき、また、母なる女神を求めて他の女性に向かってゆかねばならない。あるいは、男性性がそれほども確立していないときは、同性との集団行動の中に安定を見いだしたり、同性愛的なパートナーを得ることによって満足する。

        大変長い引用になったが、母子癒着についての具体的、かつ網羅的な提示としてこの部分は優れていると思う。ただ、ここでは「永遠の少年」を取り巻く、社会、世界にはふれられていない。個人の心の中にはそれらのあり方も反映される。そこに日本の母性社会の問題もあるのだ。しかし、あくまでこの母子癒着と言うのは子と母の問題が主である(そこにファルスを加えるのがラカンであるが)。社会の問題が主であるとして捉えるなら、その社会の多くの人が母子癒着になるはずであり、発生的に考えてもあくまで社会の問題は従である。

        母性の原理は「包含する」機能によって示される。すべてのものが絶対的な平等性を もつ。「わが子であるかぎり」すべて平等に可愛いのであり、それは子供の個性や能力とは関係のないことである。しかしながら、母親は子どもが勝手に母の膝下を離れることを許さない。それは子どもの危険を守るためででもあるし、母ー子一体と言う根本原理の破壊を許さぬためと言ってもよい。このようなとき、ときに動物の母親が実際にすることがあるが、母は子供を呑み込んでしまうのである。かくて、母性原理はその肯定的な面においては、産み育てるものであり、否定的には、呑み込み、しがみつきして、死に到らしめる面を持っている。

        萌芽としての弱い自我にとって、世界は自我を養い育てる母として映るか、あるいは出現しはじめた自我を呑みこみ、もとの混沌へ逆行せしめる恐ろしい母として映るか、両面性を持ったものとして認められるであろう。

        非常に分かりやすい記載で、母親の否定的な面についても述べているが、果たしてこの否定的な面は肯定的な面で釣り合いを取ることなどできるのであろうか?  いや、肯定的な面の動機を考えたときにそれはナルシシズムに過ぎないのではないのか? 肯定的と言えるのであろうか? 母親のエロチシズムは深淵、つまり縦のエロチシズムであり、ここで述べられている母性は水平のエロチシズムであり、その点が実際の母子癒着のケースで、言葉で説得して癒着を剥がそうとする分析家、医者、心理療法家などが、お説教と大して変わらないことしか言えないことの理由なのではないか?

        バタイユについて三島が「この本(エロチシズム)を私が最も面白く思った点は、すべてにおいて独断的なきらいはあるが、エロチシズムの問題に、これまでにない広い包括的な展望を与えようとしている点である。」と言っているが、独断的でありながら三島が納得するのは、「その普通ではない育ち方(吉村隆明)」が納得させているのだと思う。その独断的なところをラカンは、例えば「要求」する主体が絶え間なくさらされている脅威が、しばしは母親に飲み込まれる恐怖というかたちで主体の心に現れてくる というように要求というものをそこにおくことで説明している。しかし、おそらく垂直方向のエロチシズムは言葉で迫ることは難しいので、普通でない育ち方をしなかった人間には体感できないのであろう。繰り返しになるが、「母は、神に向かって我々を(垂直のエロチシズムに)いざないゆく誘惑者であり、神自身ですらあるが、自分の体現する最高理性へ人を誘い寄せる通路が、官能の通路しかないことを知悉しており、しかもこの官能は錯乱を伴っていなくてはならないのである。彼女の愛は残酷であり、自ら迷うことなく、相手を迷わせ、滅亡の淵に臨ませ、相手の官能的知的欲求のギリギリの発現をきびしく要求し、叱咤する」のである。
        この「母」と「永遠の少年」が母子癒着をしているのだから、治療者がもし存在するとしたら、覚悟と(ラカンの言う)倫理が必要となろう。三島が解説の最後に「小説「わが母」の最後の母の独白は、おそるべき最高度の緊張に充ちた独白であるが、全篇を読んだ人の感興にのみ真に深く訴えるこの独白を、私はわざと引用しないでおこう。」で結んでいるが、読んだ人はそこに真の意味での現実的ファルスを読み取るとおもう。治療者は母の「魅きつける力」(La Force D’Attraction ,JーB・Pontalis) と絶望的に戦わなくてはならないのである。

        母子癒着がなぜいけないのかについて、突き詰めれば、子供が社会に入っていくことができないからなのであるが、その理由はラカンの言う意味での道徳的な理由であり、もっと平たく言えば経済的な理由からなのかもしれない。決して同じく倫理的な理由ではない。「わが母」の場合のように経済的に働かなくともいい場合には放置しても良いのだが、カウンセリングに訪れるのは、いずれ経済的に破綻する事は明白なので、なんとかしてほしいという動機がほとんどなのだから、アドバイスは道徳的にならざるを得ない。けれども垂直のエロチシズムの魅きつける力に、道徳は無力なのである。

        河合隼雄は、父性原理を確立しつつ、なおかつ母性との関わりを失ってしまわないことと説くが、確かに精神分析理論からは、子と母の一体化にくさびを打ち込むのが父の作用であるから、その通りなのだが、垂直のエロチシズムが作動してしまっているのに、発達理論を持ち出しても学問的には正しくても、現場では役にたたないのは道徳的説教と同じである。私見ではあるが、「毒を以て毒を制する」ことしかないと思う。「わが母」の中にもアンシーという女性が登場するが、この人がまさに、毒を以て毒を制する可能性を秘めていると思う。また、「毒」という表現からは縁遠いが、ファウストが最終的には、永遠に女性的なるもの das Ewig-Weibliche に導かれて天に昇ったように、救いの道はそこにあるのではないかと思う。具体的な処方は劇薬になるのでここでは書かない。

         

        | 1.サイコセラピー | 06:07 | - | - | - | - |
        母子癒着 その3
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          2. 心理学における母子癒着

           

          心理学に現れる母子癒着をすべて網羅的に述べることはできないので、ウィニコットの述べることを導入として、次回にユング派の精神分析家である河合隼雄の「母性社会日本の病理」へとつないでいく。

          ウィニコットの言う、ほどよい環境 good enough environment とは「最初幼児の世話という仕事にわが身を捧げ、次第に、自分を独立した人間と気づき直していく母親がいるということを意味」している。

          ウィニコットは「個人の情緒発達において、鏡の先駆は母親の顔である。赤ん坊は、母親の顔に眼差しを向けている時、一体何を見ているのか。赤ん坊がみているのは、通常自分自身であると思う。」と述べ、幼児の情緒発達における「環境」としての母親の役割とは、「赤ん坊に赤ん坊自身の自己を与え返す」ことだと説明している。

          good enough mother に対立する概念が perfect mother である。good enough は「ほどよい」という意味である。perfect motherはこどもの欲求が10あったとすると、10以上を与える母親であり、good enough mother とは7〜8を与える母親である。good enough mother が良いとされるのは、足りない2〜3を子供が我慢できるようになる、欲求不満に耐えられるようになる、そういう理由である。0しか与えないのは勿論ネグレクトであるが、それはここでは述べない。
          さて、もしperfect mother が現実に存在したとすると、子どもも母親もお互いがお互いから離れていくことは出来ないであろう。母ー子どもの閉塞した世界は何の不足もない満たされた世界であるからだ。しかし、これは神話の世界であり、現実ではない。母には別の欲望があり、子どもはそれによる母の不在の理由を知りたがるからである。それでもこの神話を目指す母と子どもはある。母親は他の欲望を喪失し、子供は母親に呑み込まれやはり他の欲望をなくし、受け身の状態で母親に支配されている。その状態がユングの言う意味での退行現象であり、お互いの心的エネルギーが自我から無意識の方に流れている、お互いが無意識の魅力に引き込まれていることに本人たちは気づかない。自我からエネルギーが流れ出て、自我がエネルギー不足になり、白日夢、非現実的な空想、感情に溺れ切った行動が現れてくる。エネルギーが本当に足りなくなると、うつ状態になり引きこもる。

          「非現実的な空想」という表現をしてしまうが、具体化をしないとその意味がわからない。例えば、就活をしなくても、いざとなったら起業すれば良いんだという若者がいるが、よほどの恵まれた条件がない限り、会社に務めることより起業が楽で、継続的にうまくいくことはないのである。就活がうまくいかなかったら、アルバイト、パートから始めればよいのである。就職できないことで思考に閉じこもり、自分を受け入れてくれない会社、社会を批判したり、自分を傷つけない自分が採用されない理由を「発明」する暇があるのなら、ボランティアでもいい、アルバイトでもいい、頭ではなく、体を動かすことを、行為、行動を、継続してやっていくことである。

           

          「いざとなったら起業すれば良い」というパロールが影響を受けやすい他の人の心に取り込まれ、浮遊するパロールとなることがある。そもそも根拠に乏しいパロールであるがゆえにそれを聞いた人の心の中で今までのその人の心的歴史の中に位置付けることが出来ない。何かの折にそのパロールが自分の考えのように、ある力を持って出てくると、その人は現実よりも「非変実的な空想」に支配されるようになる。母子癒着にある人が自分の状態を正当化するために言ったにすぎないパロールが、そばにいた人にそういう「感染」にも例えられるような事態を引き起こすこともある。それでも、母子癒着は外から見ると、母親はいつも子供のことを思う優しい母親であり、子どもはいつも母親のことを心配している親孝行な息子なのである。それで許されてしまうのが母性社会日本の病理なわけで、それを述べているのが河合隼雄である。


          さて、前のブログで、三島由紀夫がバタイユの「エロチシズム」を解説したものを引用したが、その中で「ウィーンの俗悪な精神分析学者」という表現があったが、それは誰であろうか? ウィーンといえば、まず最初に浮かぶのはフロイトである。しかし、以前のブログで触れたように、三島には精神分析を副題にした小説さえあり、その精神分析の元祖はフロイトなので、もしフロイトだとすると精神分析自体を否定することになり、それは考えにくい。そうするとユングしかないのではと思われるが、なぜユングなのか? それはユングがリビドーを性のエネルギーではなく、単なるエネルギーと考えたことにあるのではないかと思う。そう考えると、三島のいう「垂直のエロチシズム」ではなく、水平のエロチシズムになってしまうということなのだと思う。しかし、理解のための入口は、水平のエロチシズムで良いと思う。実践の場で、現実の母子癒着を見たときに、特にそれを問題として解決しようとした場合に、方向を垂直へと変えていかなければならないのである。垂直という方向があるのだということを頭に入れて、ユング的な考え方を入口にするのである。敵は手強いのである。ラカンのいう意味で「道徳」では無く、「倫理」に解決の道を模索することである。

          | 1.サイコセラピー | 05:16 | - | - | - | - |
          母子癒着 その2
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            1. 文学作品に現れた母子癒着

            バタイユの「わが母」、「マダム・エドワルド」、そして「エロチシズム」を解説して三島由紀夫が次のようなことを言っている。もちろんこのブログの趣旨は「わが母」にあるのだが、伏線として先に他の2つから述べて行く。

            生の本質は非連続性にあるという前提から出発する。個体分裂は、分裂した個々の非連続性をはじめるのみであるが、生殖の瞬間にのみ、非連続の生物に活が入れられ、連続性の幻影が垣間見られる。しかるに存在の連続性とは死である。かくてエロチシズムと死とは、深く相結んでいる。「エロチシズム」とは、われわれの生の、非連続的形態の解体である。(エロチシズム)

            バタイユがエロチシズムを解明していくとき、その手段として用いている概念が「禁止」である。

            禁止は元来、科学の事柄であった。(中略)禁止がなければ、禁止の関門がなければ、人間は明白な意識に到達することができなかっただろう。他ならぬ科学はその意識の上に築かれているのである。(エロチシズム)

            科学を以てバタイユは文化全般を代表させ、現在ある如き労働の世界を成立させた諸種の文化的禁止を手掛かりにして、今や忘れられているエロチシズムの深い闇の奥へ入って行こうとする。

            バタイユが、エロチシズム体験に潜む聖性を、言語によっては到達不可能なものと知りつつ、(これは又、言語による再体験の不可能にも関わるが)、しかも言語によって表現していることである。それは「神」という沈黙の言語化であり、小説家の最大の野望がそこにしかないのも確かなことである。そして小説に登場する神として女が選ばれたのは、精神と肉体の女における根元的一致のためであり、女の最も高い徳性と考えられる母性も、もっとも汚れたものと考えられる娼婦性も、まさに同じ肉体の場所から発してという認識に依るのであろう。

            万難を排して存在を断ち切るべく、自己を超越するなにものか、すなわちわが意に反して自己を超越するなにものかが存在しなければ、私たちは、全力を傾けて指向し、同時にまた全力を傾けて排除する不合理な瞬間に達することはない。(マダム・エドワルド)

            この「不合理な瞬間」とは、いうまでもなく、おぞましい神の出現の瞬間である。(なぜおぞましいのかは、実際にこの小説をお読みになることである。)

            けだし戦慄の充実と歓喜のそれとが一致するとき、私たちのうちの存在は、もはや過剰の形しか残らぬからだ。(中略)過剰のすがた以外に、真理の意味が考えられようか?(マダム・エドワルド)

            つまり、われわれの存在が、形を伴った過不足のないものでありつづけるとき(ギリシャ的存在)、神は出現せず、われわれの存在が、現世からはみだして、現世にはただ、広島の原爆投下のあと石段の上に印された人影のようなものとして残るとき、神が出現するというバタイユの考え方には、キリスト教のの典型的な考え方がよくあらわれており、ただそれへの到達の方法として「エロチシズムと苦痛」を極度にまで利用したのがバタイユの独自性なのだ。
            ここまで、精神と肉体ののあんなにおける根元的一致のためにバタイユの小説に登場する神として女が選ばれ、その場で主体に自己を超越することで、不合理な瞬間を創り上げることで神を出現させることが、小説の目的なのだということが理解されよう。

            ここでの主題の「わが母」は、倒錯と狂気の果てに、神聖な精神的母子相姦で終わる物語であるが三島は「この作品から、私が、近来の日本の小説でどうしても癒されなかった渇を、癒すことができたのは事実だった」と書いている。三島は、太宰治、夏目漱石、芥川龍之介と同様に母子関係が普通ではない育ち方(吉村孝明)をしているから、それゆえの「渇」なのであろう。

            「あたしは、死の中でまでお前に愛されたいと思います。あたしのほうは、今この瞬間、市の中でお前を愛しています。でもあたしがいまわしい女であることを知ったうえで、それを知りながら愛してくれるのでなければ、お前の愛は要りません。」(わが母)

            人を堕落に誘うとは、真理にめざめさせることであり、彼女はもはや究理者ではなくて、その信じる真理の体現者でなければならず、要するに究極的に「神」でなければならないのである。これがバタイユ小説のおそらく根本的な構造である。

            では「母」とは何か。母は、神に向かってわれわれをいざないゆく誘惑者であり、神自身ですらあるが自分の体現する最高理性へ人を誘い寄せる通路が、官能の通路しかないことを知悉しており、しかもこの官能は錯乱を伴っていなければならないのである。彼女の「愛」は残酷であり、自ら迷うことなく、相手を迷わせ、滅亡の淵に臨ませ、相手の官能的知的欲求のギリギリの発現を厳しく要求し、叱咤する。「お前はまだあたしを知りません。あたしに到達することはできませんでした。」母の堕落の真相を知り、その中に巻き込まれて気息奄々たる息子に答えて、母が言うこの言葉は正しく神の言葉である。

            人間の神の拒否、神の否定の必死の叫びが、実は「本心からではない」ことをバタイユは冷酷に指摘する。その「本心」こそ、バタイユのいわゆる「エロチシズム」の核心であり、ウィーンの俗悪な精神分析学者などの遠く及ばぬエロチシズムの深淵を、われわれに切り拓いて見せた人こそバタイユであった。

            母子癒着とは、このようなエロチシズムの深淵に関わることなのであり、精神的知的母子相姦のデヌーマンなのだということを最初に理解した上で、心理学的な記載を理解されるべきだと考える。

             

             

             

            | 1.サイコセラピー | 06:11 | - | - | - | - |
            母子癒着 その1
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              はじめに


              先日の世界IBFフライ級タイトルマッチ ムザラネvs八重樫東 について、まず身体を見て八重樫がトレーニングをきちんとしてきたことが分かった。真面目な人間なのであろう。彼はアウトボクシングもできる選手である。ついでながら、彼の属する大橋ジムの大橋会長も現役時代はアウトボクシングであったと記憶している。序盤のラウンドはアウトボクシング的に闘い、ほぼ五分五分で経過したが、何を迷ったか途中でいきなりインファイトになり、間も無く撃沈されてしまった。相手のムザラネの表情を変えないボクシングは秀逸なもので、上り坂にある選手で、八重樫は2年ぶりぐらいの試合だったはずで、年齢的にも勝敗は仕方ないのである。しかし、なぜあの時点でインファイトにという思いが残った。マスコミの激闘王というネーミングに応えようとしたのだろうか?
              この後、知人で日大でボクシング部だった方にこの疑問をぶつけた所、「八重樫は打たれる快感に酔っているのだ。アウトボクシング的にラウンドを重ね、終盤に打って出るという作戦を頭では分かっていても、いいパンチを食らうと打たれる快感が目覚めて,撃ち会ってしまう、結果KOされてしまう。もしこのままボクシングを続けたら、間違いなくパンチドランカーになる。こういう選手にとっては殴られることに、麻薬中毒のように中毒しているのだ。」といわれた。

               

              この話を聞いて頭に浮かんだのが、「オデュセイア」の中で描かれているセイレーンの歌声に魅せられたのと同じ状態が惹起されるのだということである。その歌声は恐ろしくも魅惑的で明らかに死に導く歌声であり、それが大他者としての母の歌声であり、現実的ファルスなのである。これが母子癒着の恐ろしい側面であり、そこに死の欲動が顔を見せているのではないのかと思うのである。かって三島由紀夫が「垂直のエロチシズム」と表現したのと同じ方向の出来事なのではないかと感じた。

               

              河合隼雄の「母性社会日本の病理」をこの「母子癒着」の導き手として使わせてもらおうと思っているが、この本は理論と現場のバランスのとれた、優れた著作で、読み手が現場での経験を重ねるにつれて、理解が深まる、或いは全く新しい理解を生成すると思う。ただ、時代もあるし、思想的背景もあるので、方向が垂直ではない、或いは母子癒着を描くには優しすぎると思うのである。ユング派の考え方に、ラカン的な考え方を接木するのはまさに木に竹を継ぐことになるかも知れないが母子癒着の恐ろしさを知って頂くためには他に手段はないように思う。以下「母性社会日本の病理」に垂直の方向を加える方法で述べていこうと思う。

              | 1.サイコセラピー | 10:09 | - | - | - | - |
              「 思考の中に閉じ込められる 」ということ。
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                今年一年を振り返って「思考に閉じ込められること」について書いてみたい。

                 

                ファウスト 第一部に、「 思索なんかする奴は、枯れ野原で悪霊にぐるぐる引きまわされている動物みたいなものです。そのまわりには美しい緑の牧場があるのに。」という言葉がある。フロイトにも、「 思考に閉じ込められて行動出来なくなるのが神経症の特徴である。」という記載がある。

                 

                強迫障害(強迫観念+強迫行為)がその極端な型なのだと思うが、強迫観念だけという人もかなり見られるし、元々は強迫とは縁のなかった方でも、鬱で会社を休んでいると、寝ている時以外は一日中休むきっかけとなった事から、それと結びつく過去の出来事や、犯人探しを思考し続ける、それも全く同じ思考を繰り返す、結果、休んだことで却って精神状態が悪くなってしまう方がかなりおられるように感じる。


                何かトラブルがあったときに、しっかり考えて問題を解決するというのは、一つの方法であり、否定する気はないが、それで解決できない問題もあるのだ。特に強迫観念のような思考状態のときは、考えるではなく、行為、行動をすることが出来ないと思考のループから逃れることが出来ない。まず、思索をやめて美しい緑の牧場に出ることである。自分にとって、なにが緑の牧場になるのかを、自分の行為、行動を通して知ることである。思索、思考を通してでは断じてない。ここが一人では出来ないのであり、そこがカウンセラーという他人の存在理由なのだと思う。

                 

                今年ももうじき暮れるが、今年は通常のカウンセリングではうまくいかない方と様々な本を一緒に読んでいくという方法をやって来て、本人のメンタルな面での自覚的変化は少ないが、実際の行為、行動面での変化はかなり認められる方が複数おられ、一緒に声を出して本を読み、一緒に思考するという方法も、それが行為、行動の変化のきっかけになれば有効なものだと感じている。

                 

                そういう本の一冊に丸山真男の「日本政治思想史研究」というものがあり、そこにヘーゲルからの引用で次のような文章がある。

                 

                「 シナおよび蒙古帝國は神政的専制政の帝國である。ここで根底になっているのは家父長制的状態である。一人の父が最上に位していて、われわれなら良心に服せしめる様な事項の上にも支配を及ぼしている。この家父長制原理はシナでは国家にまで組織された。・・・・・シナにおいては一人の専制君主が頂点に位し、階統制の多くの階序を通じて、組織的構成を持った政府を指導している。そこでは宗教関係や家事に至るまでが国法によって定められている。個人は道徳的には無我にひとしい。」

                 

                この文章を読み終えた後で、ある男性は「自分は道徳的には無我でした」と私に語った。その後の彼の行為、行動はまさに「雷に打たれたように変わった」のである。個人に関することなのでこれ以上は書けないが、このヘーゲルの記載に自分の姿と、自分が属していた組織の支配を読み取ったことで、本当の意味で自分に気づかれたのだと思う。いずれすぐれた医者になられるとおもう。

                 

                一方で「道徳的には無我である」女性で、常識的な知識にある部分だけ欠如のある人が、お子さんを持つ年齢になってから家父長原理の組織の中ではそれなりに生きてこられたのが、無我では済まなくなる場面で様々な軋轢を経験され、それをトラウマだと称し、社会不安による引きこもりの相談でいらしたことがある。この方は数年のカウンセリングで自分を変えつつあったし、社会的な場面にも限定的ながら出られるようになったのだが、常識的知識が自分に欠如していることや道徳的に無我であることはどうしても認めることが出来なかった。おそらくこういう方は同じ文章を読ませても、文章の中に自分を見つけることができないのであろう。

                 

                前者について、もっと言うと、「対象が自我を作る」、それも「対象が無意識的な自我を作る」ことがあるのだ。脱線するが、おそらく、前者の対象関係はその時点で想像的なものから、象徴的なものに変化し、後者の場合は想像的なものから動かなかったのだろうと考えている。それは恐らく前頭前野の働きが象徴的なものに達したかどうかの差なのだと思うが、まだエビデンスはない。恐らく、象徴的な対象関係を持てるようになる為には、自分を映す対象との距離を取れるようになる事、そうする事で対象関係がはじめて止揚できるのだろうと思っている。だから、強迫的な思考、あるいは「思考の中に閉じ込められる」のは対象関係が想像的なものにとどまっていることがその根底にあるのではないかと思う。この辺が来年の自分のテーマになるように感じている。

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                | 1.サイコセラピー | 12:48 | - | - | - | - |
                脳科学の課題
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                  脳科学の課題

                   

                  将来の精神医学が、脳科学を控え目に言っても重要な構成要素とするであろう事は疑いはない。その上で、脳科学の克服すべき課題として感じられるものについて、主に強迫性障害(以下、OCD と約す)を例にして述べていきたい。というのは、以前にもこのブログで述べた事であるが、OCDに関する限り、フロイトを含めた精神分析理論は自分には本当には納得できないので、確か、1996年頃に、Brain Lock という本を読んでからは、クライエントに説明する時には心理学、精神分析学的な説明ではなく、脳科学的な説明しか行ってこなかったので、その後にも新たなOCDの知見が加わる毎にメモにしてきた物が結構溜まって来たからである。

                   

                  脳科学的な見地から大雑把にいうと、「OCDは脳の回路の障害である。脳の回路がショートして、間違った信号が送られているのである。」といえる。これだけでは患者さんには何のことだかわからないといわれるし、実際、こう伝えたときに、「では、脳のブレーカーを入れなおして!」と言われたことさえある。ここで言う「脳の回路」を理解していただく為には、すくなくとも、 1996年当時でも、線条体(尾状核+被殻)、眼窩皮質、帯状回、視床という脳の場所の理解が必要であったし、現在はそれにさらに前頭前野、扁桃体というのも加わる。神経解剖の本でもこれらをちゃんと説明するとその本の一章に相当するページ数が必要になるので、ここでは簡略化しすぎる事になるが、まず、それぞれの場所の働きを説明して、その後でいくつかの脳科学の本の記載を列記したい。

                   

                  まったく脳科学に縁のない方には、脳の回路を地下鉄の路線図のようなものとしてイメージして頂き、上記のそれぞれの場所は「駅名」とし、駅と駅を結ぶ線路があり、通常は電車は一時間に一本しか、しかもゆっくりしかこないのに、OCDでは物凄いスピードで電車が何台も走りまわっているのがOCDだと思ってください。

                   

                  では、その場所、駅の説明からします。

                   

                  線条体と言うのは、尾状核と被殻からできているのですが、これらは胎児の時に同じところから出来てくるのでまとめて線条体という言い方をしますが、OCDで問題になるのは尾状核です。尾状核は、ある思考から別の思考へと移るためのギアチェンジをする働きをします。ここの故障がOCDの原因らしいのです。それで、ある思考が次の思考に移らない、関心が変わらないと言う事になります。また、ある思考が入って来ないようなフィルターの役目もあると言われます。

                   

                  眼窩皮質は回路に異常がないかを検知するはたらきがあります。さらに、ここで感情と思考が結びつけられるといわれています。 帯状回は内臓をコントロールする中枢と結びついていて、強迫行為をしないと恐ろしい事が起こるぞとOCDの人を脅かすのです。 視床は体全体からの感覚情報の中継場です。 扁桃体と言うのは、怒りや恐怖、そして不安の中枢と言われます。

                   

                  前頭前野と言うのは、理性の中枢、人間が人間たる所以の場所ですが、扁桃体を抑制する働きがあります。

                   

                  これだけを頭に入れて、以下の脳科学の最近までの記載メモを読んでください。

                   

                  OCDで起きていることは特定の神経経路が活動しすぎていると考えられている。それは現時点では、前運動野を含む前頭葉と尾状核の間を結ぶ経路がその一つだと考えられている。尾状核が結ばれている前頭葉は認知のもっとも高度な形、つまり、考えたり、評価したり、予定を立てたりするところである。正常な場合、尾状核は自動思考のある面を監視する。汚れたときに手を洗うように自動的に駆り立てたり、家を離れる前に鍵がかかっているかをチェックさせたり、調子の悪いことに注意をさせ、焦点を当てさせたりする脳の一部分である。尾状核はこれを全部前頭葉の特定な領域、つまり眼窩皮質のある場所を活性化させることで行っている。ここは何か予想されないことが起こったときに活動をする。エラーを感知する装置が組み込まれているのだ。この領域がOCDで特に活発である。手洗いの脅迫がある人は汚いところにいることを想像しただけで、尾状核と前頭葉は気が狂ったように打ち合いを始める。脳の真ん中の領域、つまり帯状回も強く反応するが、この部分は意識的な感情を心に残すが、ここが巻き込まれるとOCDでの感情的な不快が生じる。このような脳の反応パターンは正常な人では家族が中にいるのに家が火事になっているのを見ているというような大惨事について考えさせるようなことをさせなければ認められることはない。これらのイメージが被験者の心の中で巧みに処理された後で、研究者はリラックスして、嫌なことを忘れなさいというが、OCDのある人は尾状核と眼窩皮質は活動中のままである。

                   

                  前頭前野と扁桃体との相互作用のシステムは、現在の経験を意識的に評価することによって、感情をコントロールしたり、方向ずけをしたりするのを助けている。OCDの好ましくない想念や衝動がそれ自体には意味がなく、単なる病気の症状に過ぎないということがわかれば、前頭前野が強く活性化し、それとともに扁桃体の反応が抑制される。何がOCD の症状で、何が本物の不安か心配かが見分けられるようになる。自分の意志と脅迫衝動の間に距離を置くこと、盲目的に脅迫衝動に従うのではなく、少なくとも自分に選択肢を与えることができるようになる。

                   

                  OCDでは、尾状核に問題があって、手を洗うとか、鍵を確認するとかという進化論的には古いとされる大脳皮質の回路の信号が入り口の制御を突破して尾状核のなかに乱入してしまうらしい。これはフィルターの故障。さらに、一度入ってしまった思考が出て行かない、関心が移らないと言う現象がおきる。そうなると異常感知機関である眼窩皮質は、アラームの信号を出し続ける、そうなると、「何か間違った事が起きている」アラームが鳴り響いているわけだから、当然不安が出て来る、 帯状回が何かしないと大変な事になると言う警告を出す。さらに不安が起きてくる、そこでは扁桃核が活性化されている。しかたないので強迫行為をすると、さらにそれがこの回路を活性化することになる。これらの場所、駅が線路で結ばれてその駅の間で結合が起きて、閉鎖回路ができてしまう。もう、どうにも止まらない。これが、ここでの意味で Brain lock である。OCDの完成である。

                   

                  このロックを外すのが15分ルールと呼ばれるUCLAで開発された行動療法である。 まとめると、尾状核の故障でOCDがおこり、それがブレインロックで悪化、永続化して行くのだが、では、なぜ行動療法で良くなる可能性があるのか?具体的にどうすればいいのか? 1996年の Brain Lock ではそれが行動療法で、尾状核で行動療法、つまりは15分ルールで、強制的に関心を移し、錆び付いたギアを無理やりチェンジさせると良くなる、そこにSSRI を加えると、成功率が高くなる、ただしここでのSSRIは泳げない人の浮輪みたいなものです、助けにはなるがそれで治るのでは無い、あくまでも治るには行動療法だという事であった。SSRIはセロトニンに作用するが、セロトニンはOCDには主役ではないということで、主役はどうもグルタミン酸ではないかといわれている。

                   

                  この15分ルールは、私も自分の所で実践して来たが、その有効性は否定しない。しかし、大事なのはむしろこの療法の認知療法としての面だと感じるようになった。それは脳科学的にいうと前頭前野の働き、ヘーゲル的にいうと理性、 Brain Lock の中では「公平な観察者」と呼ばれる(経済学者のアダムスミスの「道徳感情論」からの借用)形而上学的な概念、そういうものが存在するようになるかどうかがOCDが良くなるかどうかの全てでは無いかと個人的には思っている。ここでの文脈からは外れるので、この話はいずれ別に書くつもりだが、以上に述べた脳科学で、精神分析でも特に難解なOCDの理論より、はるかに理解可能だと思う。

                   

                  それでは脳科学だけでいいことにならないか?課題なんてないのでは?

                   

                  そこで、先程の公平な観察者である。それが脳科学では何なのか、私に言わせれば、OCDの治療に一番大事なものが、それであり、また脳科学的な行動療法でも一番ではないが、かなり重要とされているのだから、それを脳科学で説明できなくては、情けないような気分になるのである。情緒的な面だけではなく、本当に治療に大事なことを脳科学的に説明できなければ、脳科学的な治療など生まれないと思うのである。

                   

                  マインドフルネスにも同じことを感じる面がある。脳の無駄なエネルギー消費を抑え、余ったエネルギーでメンタルを改善するのはなるほどであるが、治療法は従来禅の修行でやっていたことなのではないか、経頭蓋磁気治療は脳科学的だが、それ以外は従来もあった方法ではないのかと思う。

                   

                  もう一つ思うのは、同じOCDでも、なぜある人は手を洗い、なぜある人は鍵を確認するのか、そして、なぜある人は自分が汚いと思い、ある人は触るものが汚いと思うのか、その説明が今のところ脳科学ではできないことである。その辺は精神分析に一日の長がある。

                   

                  なぜ、その時その場所でヒステリーではなく、OCDになったのか、それもまだ脳科学では答えがない。

                   

                  当たり前のことだが、個人を相手にするのが治療なのだから、一番個別なことが説明でき、それで脳科学的な治療ができることが、脳科学の今後の課題なのではないか?

                  | 1.サイコセラピー | 16:50 | - | - | - | - |
                  心のモデルと気持ちの理解 3
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                    心のモデルと気持ちの理解 3


                    エイク、フェルメールと書いてきたが、次はハンス・ホルバインである。ホルバインの「使節たち」はラカンの「精神分析の四基本概念」の初めに掲げられていて、この絵を正面からの遠近法(我々が通常絵画を見る見方)でみると、精密な描写で二人の使節と当時の科学、芸術の最先端を現す天球儀、地球儀、楽器などが置かれている。その使節たちの足元に楕円形のなんだかわからない大きなシミのようなものが描かれている。このシミみたいなものは正面からではなく(正面からの遠近法ではなく)、左下から見るとドクロとして現れる。これはアナフォルモーズと呼ばれる技法である。アナモルフォーズは、絵画とはただ空間における事物を写実的に再生するだけのものではないことを我々に示すと言われる。さらに、ここ技法はリアリティを作り出す遠近法の虚構性を暴露するような歪曲であるとされる。それは、ドクロがはっきり現れるときには使節たちははっきり現れず、逆に使節たちがはっきり現れるときにはドクロはシミと化すということである。デカルト的主体が世界を見る見方も正面からの遠近法であるが、この正面からこの絵を構成している位置が、この絵を構成する秩序である。このことは以前のブログで「消失点」について述べたことと同じである。しかし、このドクロが意味するのは、デカルト的主体とは違う位置に立つことで、デカルト的主体の実測的次元に内在する欠如の機能が明らかになる。これはポール・リクール的な言い方をすれば、「言うこととは違ったことを意味する」という意味での象徴的なものと言える。この議論からは、「眼差し」とは、フェルメールの少女の目の白い点と同じく、ホルバインの使節たちの足元の大きなシミ、ドクロがそれなのである。

                     

                    ここで、もう一度エイクの絵に戻ろう。極めて写実的と言われながら、例えば「ロランの聖母子」の床が下方に向かって不自然に広がっている。こうすることで描かれた床が現実の床と連続して鑑賞者に感じられるようにしているのである。こういう技法もまた、絵画とはただ空間における事物を写実的に再生するものではないことを我々に示しているのであろう。

                    技法に優れたこの三人の画家が技法は違うにせよ、全て写実ではないことがわかる。

                     

                    人間の目はピントが合っているのは視野の中心だけで、それを人間の頭の中でパンフォーカスなものに変えているので、フェルメールのところで述べた筆使い、大まかで、大雑把というのはこのため、すなわち人間が見たとおりのものを描くためだったとではないかと気付かされるのである。


                    また上に述べた三人の他に、ベラスケスについても、「黒衣のフェリペ4世」で見られるように遠近法を使わないで、影で奥行きを表現している。それは、第三者の審級のない絵ということになるわけで、その点についてはいずれ詳しく述べてみたいと思っている。同じベラスケスの「王女マルガリータ」ではその三人の技法からさらに自分の目の映像をそのまま描いているのがわかる。拡大するとドレスの生地の質感は無くなるが、普通に見ると触感さえ感じられるような質感である。この自分が見た真実に忠実に描くことが、フェルメールの「光を描くこと」と共に、印象派の父(もっともマネ本人はそう思われることを嫌ったらしいが)と呼ばれるマネに影響を与え、それが「オランピア」の裸婦の色彩による強烈な現実感につながり、光を描こうとした印象派の画家に影響を与えたのであろう。

                     

                    エイク、フェルメール、ホルバイン、マネ、モネ、・・・・・という流れを美術史とは言えないかもしれないが、そういう位置づけをして初めて見えてくるものがある。こういうことが、丸山真男が「日本の思想」で言っている思想的座標軸に当たるものなのだと思う。それもまた稿を改めたいと思う。

                    | 1.サイコセラピー | 14:58 | - | - | - | - |
                    心のモデルと気持ちの理解 2
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                      心のモデルと気持ちの理解 2

                       

                      ヤン・ファン・エイク、ヤン・フェルメール、ディエゴ・ベラスケスはご存知のように精緻な描写で名高い画家である。しかし絵における表現自体はかなり異なる。例えば、前二者の絵を比較してみよう。ファン・エイクの「ファン・デル・パーレの聖母子」と フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」は、前者が白い服をまとった老人の瞳にエイクがこの絵を描いたアトリエの窓枠が反射しているの間で描かれている。後者は、少女の瞳には、人為的に不自然な白い点が描かれている。それにフェルメールの絵はエイクやベラスケスに比べると筆使いは大まかで、大雑把である。 しかし、エルクの絵が「目」を描いているのに対してフェルメールの絵は「眼差し」が描かれている。このことをある美術史家は、『フェルメールは自然のとおりの即物的な光を描写するかわりに、かならずしも自然のとおりではないけれど、人物に生命感を与えるような光を描き加える。そのことによって、瞳は単に外光に反応する肉体の一器官としての「目」ではなく、内部に精神を宿した「まなざし」となる。そのとき画家は、自分が見た対象としてではなく、画家を見ている「人間」を描くことに成功したのである。』と説明していた。

                       

                      ここで、実際にフェルメールの真珠の耳飾りの少女を見て、何を感じるかである。しばらく前に仙台でもこの絵の実物が見られたこともあり、質問すると「あの青が綺麗」という多数の意見に混じって「親しさをじる」、「自分が見つめられたよう」という感想が聞かれた。それは、美術史家が言うように人間を描くことに成功しているからなのであろう。

                       

                      ここでラカンが「精神分析の四基本概念」の 「宗ヽ┐箸浪燭 」の中で『見ることは、何かを見ないでじっとしていることによって可能となっていて、この見えない何かが「眼差し」である。』としている。また、他の箇所で『眼差しには「欲望」の機能が働いている。』、『見えるものの領野における対象「a」、それはまなざしである。』と言っている。 この美術史家のいう「まなざし」とラカンのいう「眼差し」が同じものだとすれば、フェルメールの絵には対象「a」が描かれてはいないが、現れているということになる。フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」に感じるものがラカンのいう『眼差し」、つまり対象「a」として欠如(ーφ)の水準で機能することができる。

                      | 1.サイコセラピー | 21:42 | - | - | - | - |