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青葉心理クリニック

認知モード理論 その5
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    認知モード理論 その5

     

    Top Brain system 、Bottom Brain system の両者を、それぞれよく使う人、あまり使わない人がいるので、組合せとしては、2X2=4通りとなる。その4つが認知モードの4つとなる。

    Top Brain を T、Bottom Brainを Bと表し、よく使うは(+)、あまり使わないは(−)とすると、

     

    1)T(+)かつ B( +)を主体者モードという。

    このモードで考える時、Tを使って計画して実行すると同時にBを使ってその結果を認識し、その後、フィードバックに基いて計画を調整する。このモードの人は自ら計画し、行動し、自分の行為の結果を目にできる立場にいる時が最も快適である。

     

    2)T(−)かつ B(+)を知覚者モードという。

    自分が知覚しているものを、Bを使って深く理解しようとする。自分が経験していることを解釈し、それをその時の状況に当てはめ、その意味合いをつかもうとする。だが詳細な計画をたてたり、それに着手することは苦手である。余談だが、木村敏先生の記載によると、有名な哲学者であり、精神病理医であったカール・ヤスパースはこのモードであったと思われる。

     

    3)T(+)かつ B(−)を刺激者モードという。

    創造的、独創的になれるが、物事の限度がわからなくなり、他人に迷惑をかけたり、自分の行動を適切に調整できなかったりする。Bによるフィードバックがかからないからである。

     

    4)T(−)かつ B(−)を順応者モードという。

    夢中になって計画の実行に取り掛かる事もなければ、自分の経験するものの分類や解釈に専心する事もない。その代わり、目の前の事象や差し迫った課題に熱中できることが期待される。行動指向性があり、進行中の状況への反応性が高い。

     

     

    実際にカウンセリングをなさっている方は、現在うまくカウンセリングが進行していない方の顔と上記の認知モードの一つが頭をかすめたのではないだろうか? その瞬間にこの認知モード理論はあなたの自家籠中のものとなるのである。現場を持っていれば、コスリンの本に限らず、ダマシオであろうが、コッホであろうが、脳科学のきちんとした本は難解ということはない。マルクスが資本論を書いた時は、当時一番資本主義が発達していたロンドンで、毎日労働者を見ていたというが、複雑極まる脳を取り扱う時には、書斎にこもって自分の脳だけを相手にしてもろくなことにはならない。診察室で、いろんな脳を観察することである。

     

     

    人により、どのモードが優位かが違い、それが性格のはっきりした特徴となるので、各自のアイデンティティにとって、認知モードは態度や信念や情動気質と並ぶ特徴であり、重要である。

    このモードを知ることで、脳が思考や感情や行動にどう作用し、ひいては学校、職場やもっと親密な状況での他人との関係にどんな影響を与えているかの理解の手助けになる。

     

    これで、認知モード理論の概説を終える。実際のカウンセリングの現場での使用には、この4つの分類をそのままで用いると、TとBによる二分法になってしまうので、それはコスリンの望むところではないので、実際の利用に際しては、よく考えられた細かいチューニングがなされていて、二分法ではなく、システムとして考えるということが徹底されている。認知モード理論のこういう考え方は、以前に人格障害に対するミロンの考え方を紹介した時にも考察しているが、現場では、なるべく単純なシステムこそが実用的であり、誤りも少ないものである。老婆心ながら、コスリンの作った診断リストは、日本人に使うには文化的背景が違うので、少し文章表現を変えなくてはならないと思う。

     

    こういう単純な考え方を現在私は脳というか、人間の理解に関して5つ持っている。それがコスリンの言い方を借りれば、二分法にならないように、システムとして考えられるように常に気をつけている。それと、考え方の限界、たとえば、コスリンはこの認知モード理論に対して、脳をどのレベルで捉えた理論なのか、情動のシステム(これは皮質下のものが大きい)はこの理論にははいっていないこと、つまり、あくまで大脳皮質の理論なのだということ、そして選択の余地がある時に働くモードなのだということをきちんと述べているのだが、それが理論を用いる場合に忘れてはならないことである。

    この認知モード理論による4つの方の分類に関して、本の中でコスリンが触れながら、実際に診断テストには採用されていない「心的イメージ」を用いることで、もっと簡易に直感的にできる方法があると思うが、心的イメージに関して誤解がないように述べるのは大変なので、次の機会にしたいと思う。

    | 1.サイコセラピー | 11:29 | - | - | - | - |
    認知モード理論 その4
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      認知モード理論 その4

       

       

      Top Brain に属する、視覚野から頭頂葉に向かう回路が空間関係の認識(あるものが、もうひとつのものの左側にあるなど)に、そしてBottom Brain に属する視覚野から側頭葉にむかう回路が視覚認識(顔を見てそれが誰かを認識するとか、あのネコは前に見た猫だとかを認識する)ということは言葉はともかく内容は既に神経内科の教科書にも記載がある、目新しいことではない。

       

      ここをもう少し詳しく説明する。

      1. Bottom Brainに属する側頭葉は、目からだけではなく、(聴覚中枢は側頭葉にあるので)耳からの入力信号もまとめて、ノイズを取り除き、脳の別の部位に送る。さらに他の側頭葉の部分には形状の(視覚的)記憶、音声の記憶が蓄えられているのでその情報も同じように送られる。
      2. この情報は Top Brainに属する前頭葉の上部に送られ、そのおかげで現在知覚している物体の性質についての情報が利用できる。そこで処理された情報が、今度はBottom Brain に送られる。
      3. 同じ側頭葉からの情報は、同じBottom Brainに属する前頭葉下部にも送られ、当該の物体や事象について適切な記憶を活性化させ、関連のある情動的な記憶の処理に重要な役目を果たす。(ここで辛うじて認知モード理論で情動が関連している)そしてそれがまた、Top Brainに送られる。

       

      この辺の事は、論文や本によって表現はさまざまであり、コスリンはそれらを以下のようにまとめている。

       

      1)Bottom Brain system は、感覚器からの情報をまとめるとともに、知覚されているものを、それまで記憶に保存されていた全情報と比較し、それからその比較の結果を使って、入力信号を生み出した物体や事象を分類し、解釈する。

       

      2)Top Brain system は、身の回りについての情報を(情動的な反応や生理的要求のような他の種類の情報と組み合わせて)用いて、どの目標を目指すか決める。自ら計画をたて、その計画がどうなるかを見込み、それから、計画が実行されるなかで、起こっていることを予期していたことと比べ、その結果に従って計画を調整する。

       

      3)Top Brain と Bottom Brain の二つのシステムは、常に協同する。

       

      4)我々は、常にこの二つのシステムを使う。だが使い方に2種類があり、ひとつはたとえば歩くときの脳の使い方、つまり選択の余地の無い、状況に強要されている時の使い方で、これは誰もが同じ様にTop Brain と Bottom Brainを使う。しかしもうひとつは選択の余地のある、コスリンが言うには踊る時の様な脳の使い方で、このときにTop Brain と Bottom Brain をそれぞれ、どれぐらいの割合でつかうかが、この認知モード理論の基本になるのである。ここをきちんと押さえておく事が極めて、極めて大事なのである。

       

      さあ、これでやっと実用的な4つの認知モードの話に入る。

       

      | 1.サイコセラピー | 02:02 | - | - | - | - |
      認知モード理論 その3
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        認知モード理論  その3

         

         

        繰り返しになるが、この理論の優れている点は、右脳ー左脳の二分法という古いパラダイムから、Top Brain , Bottom Brain という二分法ではないパラダイムを提供し、かつそれが前回ブログで述べたように脳科学の発達によって明らかにされた知見にきちんと裏づけられている事である。コスリンは、脳を大きく捉えるという手法を使っている。大きくというのは、例えていうと、脳を家とすると、その材料のレベルはニューロンのレベル、もっと細かい材料の分子構造のレベルはニューロンのたとえば、カルシュウムチャンネルのレベルになるが、それよりマクロな、家のそれぞれの部屋のレベルで脳の機能を考えているのだ。だからレベルでいうと右脳ー左脳の二分法に近いレベルで考えるのであるが、二分法では脳のマクロな部分がどう相互に関連しあって働くのかを捉えることができない。右脳ー左脳の二分法は極論すると「分離脳」になってしまい、相互作用の説明ができないということなのだ。二分法に代わって「システム」でかんがえる手法を使っている。システムであるから、「出力」、「構成要素」、「入力」があり、構成要素がシステム全体のために連合し、それぞれの入力に対して適切な出力を生み出す。認知モード理論は脳を上部と下部という大きな部分に分けて、その両方を情報を特定の方法で処理する「大きな」システムとして考えている。この大きなシステムを上部、下部にわけ、前者を後頭葉、頭頂葉、前頭葉の大半(上部)、後者を後頭葉、側頭葉(下部)という処理システムと考えるのである。そしてここが大事な所なのであるが、右脳ー左脳の二分法と違って、システム間の連合がある。そこが二分法に比べて、臨床的に役立つのである。Top Brain と Bottom Brain はそれぞれ、さまざまな部分が迅速に連絡し合って連合出来るような構成要素をもっているのだ。ただ、この理論は知・情・意の知と意のシステム理論であり、情のシステムはほとんど考えていない。辺縁脳はTop Brain にも、Bottom Brain にも入っていない。そして繰り返すが、脳を「大きな」捉え方しかしていない。このことをはじめから承知の上で、この理論を日常診療に活かしていこうというのが狙いである。脳科学が細かいレベルで発達したために、トランスポートのチャンネルの微細構造や、神経伝達物質の化学的合成、分解過程、それに基づく薬物動態などが脳科学、精神科学の本の多くのページを占めるようになった。その方向は学問としては価値のあることだが、顕微鏡の倍率を上げすぎると全体が見えなくなってしまうような面があり、日常診療には適さなくなるのだ。脳を、大きく捉え、システムとして考えると言うのは優れた着眼点だと思う。

         

        | 1.サイコセラピー | 07:16 | - | - | - | - |
        認知モード理論 その2
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          認知モード理論 2

           

           

          「Top brain , Bottom Brain 」の認知モード理論について、内容の説明をする前に、この本では大脳皮質の機能の理論なので、知・情・意のうち情について、つまり辺縁脳については記憶に関して僅かに触れられるが、情動、感情にはあまり触れられていない。また、右脳・左脳という二分法を否定的に捉えていること、さらに二分法自体を否定的に捉えていることを最初に紹介しておきたい。話が脱線するが、三島由紀夫がトーマス・マンの「魔の山」を読んではじめて大陸的二元論というものに得心したと言っているが、右脳・左脳もそういう二元論として捉えれば、コスリンが言うように根も葉も無いこととは思わない。コスリンは二分法ではなく、システムとして考えると言っているのは、Top Brain と Bottom Brain が、右脳・左脳ほど形態学的にはっきり二分されていないことがあるのだと思う。

           

          前回ブログで書いた通り、Top Brain の回路は視覚野(V1)から上向きに視覚連合野の後部頭頂葉(空間的な位置に関する視覚情報)を通り、前頭葉背外側(空間的な記憶を使った決定をする)に至る(superior occipitofrontal fasciculus)で、視空間認知が行われる。空間識別といわれ、ものの空間的関係を認知するのであるが、空間の中で物をどこに動かすか、身体をどう動かすかを決定する事も含まれるので、「計画を立てて実行する」のが Top Brainの作用と言える。

           

          一方、Bottom Brain の回路はV1から向きに下側頭葉(物体に関する視覚)を通り、前頭葉底部(物体に関する記憶をつかった決定)に至る(inferior occipitofrontal fasciclus)で、物体識別が行われる。つまり、それがなんであるかとか、誰であるかとかの認識を行うわけである。周りの世界からの感覚情報を分類して解釈する。

           

          Top brain 使う、使わないで2通りの認知モード、同様に Bottom brain に関しても2つもモーだがあるので、組み合すと、4通りの認知モードを設定できる。これが認知モード理論の大略である。

           

          なお、情について触れないのは、この「認知モード」というものが、「世界へどう向かい合うか、他者とどう接するかの根底にある、人間の思考法」であると述べられているので、知と意でしかないことははじめから知る必要がある。

           

           

          | 1.サイコセラピー | 21:42 | - | - | - | - |
          認知モード理論 その1
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            脳科学から出てきた理論の中で認知モード理論(theory of congnitive modes ; Stephen Kosslyn)が人格の理解、人格を変えていく方法として実用的だと考えるので、それを説明するうえでも必要と思われる脳科学的な知識の説明から入りたい。

             

            従来は大脳を前頭葉、頭頂葉、後頭葉、側頭葉と分けてきたのであるが、少なくとも肉眼的にはっきり分けられるのは、前頭葉と頭頂葉の間が中心溝で、側頭葉と前頭葉がシルヴィウス溝で分けられているだけで、頭頂葉、後頭葉、側頭葉の間にはこのような溝は存在しない。だから植村先生が言われるように、頭頂葉、後頭葉、側頭葉は機能的に分割できないひとかたまりの物、それに抵抗があるのであれば、頭頂葉ー後頭葉ー側頭葉コンプレックスとでも捉えた方が良いと思う。さらに、このコンプレックスを感覚統合脳、前頭葉を表出脳、辺縁系を中心とした側頭葉、頭頂葉の内側部を辺縁脳ととらえるのは作用から大脳を分節する上では優れた考え方だと思う。そして、哲学でよく言う、知・情・意を、それぞれ感覚統合脳、辺縁脳、表出脳に割り振るのである。人間が行動変容を起こすためには、知と情が共に意に働くことが必要になる。

            こう捉えることで、認知モード理論(theory of cognitive modes)で知られるStephen Kosslyn の 『Top Brain , Bottom Brain 』が理解しやすくなる。


            まず、知情意の知に関して。

            体性感覚皮質に対する体性感覚連合野の様に、低次機能を担当する皮質がうけた感覚情報を高次機能を担当する皮質が「統合」しているが、この統合は皮質間だけではなく、視床が複雑に関与して、前々回のブログで述べた意識を形成する、膨大な情報量と視床ー皮質コンプレックスにとって必要なものである。

            視覚においても同様の関係が視覚皮質(ブロードマンの17野)と視覚連合野(情報はブロードマンの18野→19野の順で伝わる)に認められる。ただし、この連合野での情報の伝わり方に2方向があり、頭頂葉方向に向かうものは視空間の認知に、側頭葉に向かうものは物体認知を
            司る。先に述べたKosslynのTop Brain , Bottom Brain はこの方向に基づいた分け方なのである。

             

            次に、知情意の意に関して。

            運動皮質、運動前野の関係は感覚皮質、感覚連合野の関係に似ているが、運動野にはほかに補足運動野と言うのがあり、運動前野は随意運動に、補足運動野は自動運動に関係している。

            スポーツ理論は、昔このブログのメンタルトレーニングで少し述べたが、ここがポイントなので、機会があれば脳科学から見たスポーツ理論を述べたいと思っている。

             

            最後に、知情意の情に関して。

            情は、情動と感情を分けて考えることが大切である。悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだというダマシオの理論の理解のポイントはここにある。脳科学的にも、情動は扁桃核が、感情は島皮質が司るのである。又、情の領域には外部からの刺激だけではなく体からの刺激も入力する。(Trieb を思い出してほしい)

            情の回路には、感情の興奮を司るPapezの回路(情動と記憶の感やすると言われた)と、感情の抑制を司る Yakovlev(ヤコブレフ)の回路がある。前者は扁桃体を、後者は前頭前野を結節点とする閉鎖回路である。前者の中心が海馬であり、その海馬は中間期記憶(最大2年まで)を司る。

             

             

             

             

            | 1.サイコセラピー | 13:33 | - | - | - | - |
            マインドフルネス
            0

              マインドフルネス

               

               

              1995年ぐらいに、Zen Keys ( Thich Nhat Hanh)という本を読んだ。第一章が マインドフルネスの修業なので、マインドフルネスという言葉の意味は現在心理畑で言われるマインドフルネスよりも、Hanhの文脈からは「気づき」としてインプットされている。

               

              さて、現在、心理の現場、たとえば就労支援施設でも心理療法として使われているマインドフルネスについて、前述の意味とは完全には一致しないと思うので便宜上、Hanhの言うマインドフルネスは「気づき」、心理療法としてのマインドフルネスはそのままで表現する。

               

              脳科学から分かってきたことを心理療法に結び付けていったのがマインドフルネスである。脳科学から脳の安静時のエネルギー消費が、全エネルギーの20%に達していて、これを減らす事が出来れば、脳に余裕が出来、余ったエネルギーを使って脳を元気にすることができると考えた訳である。それでは、何もしてないときに使われる脳のエネルギーは何に使われているのか?それが、過去への悔い、未来への不安なのだということなのである。そこで、もし現在に集中する事ができれば、無駄なエネルギー消費を減らせると考えた訳だ。この「今に集中すること」ということで、脳科学と禅の方法論、気づきが結びついたわけである。禅の方法論ではない、もっと機械的で、即効性のあるやり方として経頭蓋磁気刺激法という磁力で左前額部を刺激すると同じ様な効果がある方法もある。米国での成績は禅の方法論も、この磁力をもちいる方法も有効性は同じぐらいとされている。日本では後者は高度先進医療で、保険の適応になるにはきつい縛りがあり、私費で受ける方が多い様だが、残念ながら私が知る範囲では有効ではなかった方が多い様に感じる。

               

              初めに述べたThick Nhat Hahn の本を読むと、『「はっきり目覚めている」生き方から生まれてくる深い気づき(ここは mindfullness ではなくて、awareness )を通してこそ、存在の真理があらわになってくるのだ。』とある。ここでなぜ mindfullness ではなく、awareness が使われているのかというと、深い気づきだけではまだ mindfullness(気づき) には至らないということで、本来のmindfulness (気づき)は「存在の真理があらわになる」ことなのである。その意味で、心理療法としてのマインドフルネスは道半ばということなのである。

               

              はじめて心理療法としてのマインドフルネスを知った時に感じたのは、たとえ脳科学が無くても、既にHahnの教えは、マインドフルネスを凌駕しているということである。たしかに脳科学的な説明はより説得性は有るだろうが、今までになかった方法、たとえば磁気による刺激の様なものはないのである。だから本当は「存在の真理があらわになる」所にこそ気づきの本質があるのではないかと思う。awarenessを通してmindfullness にいたる方法論を脳科学から新たに生み出すことが求められているのではないかと思う。

               

              | 1.サイコセラピー | 17:42 | - | - | - | - |
              精神分析と脳科学
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                精神分析学と脳科学

                 

                精神分析学と脳科学は親和性が高い事は、例えばフロイトの「科学的心理学草稿」で述べられている通道Bahnung の概念と脳科学でのニューロン同士を結合する同期発火の概念を比べると実感されるであろう。この両科学の間の時間的距離を考えるとフロイトの炯眼には驚くしかない。ただもし後者が前者の単なる新バージョン、言い換えに過ぎないのなら、カウンセリングの現場ではなんの意味持たない。そこで、両科学の親和性の低い領域を考える事で、お互いに補合えるところを明らかにして、現場での新たな展開の可能性を考えたい。

                 

                精神分析(特に断らない場合、精神分析とはここではフロイト、ラカン、ビオン等のものを言う)は firstperson perspective 一人称的な見方 から成り立っている(平たくいえば、自分はこのように欲望するから、他者もそうするだろうということを公準として成りたつ)のだが、脳科学は thirdperson perspective 三人称的な見方、つまり客観的な科学的な見方から成り立つ。前者を主観、後者を客観といってもいいと思う。今の世界はひたすら科学的であること、客観的であることに純化しよう、させようというバイアスがかかっている。

                 

                医学部の基礎科目の中に生理学というものがある。普通、二つに分かれ、一方は動物生理学と呼ばれ、神経系、運動系を、もう一方は植物生理学と呼ばれ消化系、循環器系を扱う。後者を「はらわた」、前者を「それ(はらわた)以外のもの」に分類する斬新で、かつ実学的な発生学もあるが、いまはそれには触れない。その動物生理学の生理学たる所は、活動電位、つまりニューロンが電気信号を創り出す物理化学的な仕組みの解明だと思う。そして、それが教科書として書かれた脳科学の本、例えば Principles of Neural Science ( Eric R. Kandel ) でも多くのページを割かれている。活動電位の作られる原理は昔、生理学で習ったことと同じであるがその仕組みの解明は分子生物学的にはるかに詳細なものになっている。まさに thirdperson perspective である。こういう解明が、科学的な病気の原因の解明や治療に結び付く事だけでも価値があることはお分かりいただけると思う。だから、医学自体がより客観的に、より科学的に動いて行くのは当然のことなのである。それを認めた上でなのだが、科学には限界がある、つまり科学は科学が証明できることしか扱わない、扱うことができないのである。thirdperson perspective が扱うことの出来ないものが我々の『生きている世界』にはあるのではないか、firstperson perspectiveと third person perspective の発展的統合が必要なのではないかと思うのである。

                 

                比喩的にいうと(魂の実在を認めるわけではないが)、今の医学の進み方は、『仏作って魂入れず』になってはいないかということである。仏が third person perspective , 魂が first person perspective ということである。

                 

                どうしても従来の精神分析が説明できないこととして、なぜ意識が生じるのかという問題があると思う。最初に述べた科学的心理学草稿でも意識自体については説明できていない。脳科学自体もこの問題に答えていない、むしろ問題として避けているようにさえ感じてきた。たしかに例えば脳幹網様体の働きの様に意識の必要条件については述べられてきたかもしれないが十分条件については無言であったと思う。

                 

                しかし、先日、秋保温泉の中のピザ屋さんの本棚に、「意識をめぐる冒険」(クリストフ・コッホ)という本を見つけ、ピザが焼きあがるまでの時間軽い気持ちで読みだしたのであるが、その中の「意識の統合情報理論」というところを読んで、まさに目からウロコが落ちる思いがした。詳しくは同書を読んで頂きたいが、要点のみ引き写すと以下の様になる。


                1. 一瞬一瞬の意識経験は、とてつもなくたくさんの種類の他の意識経験の可能性を除外するという意味で、情報量がとてつもなく多い。
                2. 意識の内容は高度に統合されている。意識がいつもひとかたまりである(統合されている)のは、脳内の関連し合う部分同士が非常に複雑に因果的に相互作用しあい、一つの大きな皮質➖視床複合体を作っているからだ。

                 

                このことから、あるシステムが意識を経験するためには、膨大な情報量があり、その上でその膨大な情報量が(因果的に)統合されていなくてはならない。全体として統合された時に初めて生じる情報というものがある。つまり、[意識レベル] = [全体が生み出す情報量] ー [部分が生み出す情報量の総和] 。

                 

                こういうゲシュタルト的な考え方というのが、てんかん発作の時の意識消失を説明できるという観点から、直感的ではあるが、私はこの考え方に感激したのである。余計なことでは有るが、その本を読むのをやめられなくなり、ピザ屋さんから借りて5日で読了した。

                この様に脳科学を導入して精神、神経の世界を分析していくことは、firstperson perspecitive,精神分析、カウンセリングには避けられない、ある意味必然なのではないなかと思ったのである。では、一方、脳科学、thirdperson perspective に足りないものはなんなのか ?

                それは、脳科学の用語を使うとクオリアである。クオリアという表現はできても、或いは多面次元に浮かぶ結晶という表現は出来ても、それでもクオリアというものを「感じること」はできないという事実なのである。即自的に存在する事が thirdperson perspective にはできないのである。

                 

                人間は離人症になることができるが、コンピューターはどうあがいてもなれないのである。

                 

                精神分析家、心理学者、カウンセラーは、自分の基盤に脳科学の見方を、脳科学者は精神分析、心理学の見方をそれぞれ取り入れる事が急務であると思う。

                 

                 

                 

                | 1.サイコセラピー | 06:23 | - | - | - | - |
                倒錯について 12
                0

                  今回もFinkのLacanian psychoanalysisの訳である。これで倒錯の総論が終わり、次回から各論に入っていく予定である。

                   

                  享楽から分離へ

                   

                  倒錯を論じるときにフロイトはほとんど常に主体が法を拒絶することを強調していた。主体が満足を諦めることを頑強に拒否することである。ある意味でフロイトはこのように倒錯をもっぱら倒錯者が得られ続けている満足という視点から考えているのである。

                   

                  注40) フェチシズムの利点についてのフロイトの注解を考えてみること。「フェティシュが成し遂げること、そしてそれを維持するものが何かが今やはっきりできる。それは去勢の脅威に対する勝利の印であり、去勢に対する防衛である。それはまた性的な対象として女性を耐えられるものにする特徴を女性に授けることで、フェティストが同性愛者になることを防いでいる。後年になり、フェティストは彼の性器の代用物から、なお他の利点を享楽していることを感じるのである。フェティシュの意味は他の人には知られないので、フェティシュは自制する必要がない。簡単に利用できるし、それに伴う性的な満足を容易に得ることができる。他の男たちが得ようと努め、そのために努力しなくてはいけないことをフェティストは楽々と手に入れることができるのである。

                   

                  ラカンはより古典的なフロイトの手法として的確だと認められるであろうやり方で倒錯を考察している。つまり、あらゆる他の活動と同様に、倒錯はそれがもたらす(間接的であろうが、直感的でなかろうが、)満足の視点から考慮されるべきであると同様に、法と分離の関係において倒錯がはたす機能の点からも考慮されるべきである。神経症の症候が何らかの代理の満足を患者に提供するだけではなく、「不安を拘束するために」も形成されるのと同じように、倒錯者の活動はも直接的な性的満足を得るだけの単純な目的で行われるのではない。

                   

                  注41) 明らかに、不安を拘束することは満足の視点からも理解される。快原則から要求される通り、不安を拘束することは緊張のレベルを下げるからである。それと同様に倒錯者が分離を制定することは、これから見るように、満足の視点からも理解される。 ほとんどの神経症者は、倒錯者が自分たちが人生で得られるよりもはるかに多くの満足を得ているに違いないと思っているし、実際多くの分析者も同じ罠に落ちている。そう思うことは、倒錯者の明白な「享楽への意志」(ラカンがそう呼んだように)が何によってそう仕向けられたのか、何に奉仕しているのか、何を隠しているのかを理解するのを止めてしまう。 フロイトが、存在してきたとよく仮定してきたと思われる父親、つまり、母親から息子を分離させるのになんの保留もしない父親(倒錯者はこのことが起こるのを頑として拒否する息子である)から、、権威を持って自身の問題を解決しようとしない、父親が子供に権力を振るうべきだと信じていない、子供は理性的な生き物で大人の説明が理解できると信じ、子供を妻に任せっきりにすることを好み、怖がられるのではなく愛されることを欲し、(おそらくその上)妻に自分の権威を切り下げることを許している平々凡々とした現代の父親に目を写してみると、むしろ異なった視点から倒錯者を理解しることができる。

                   

                  注42)「母の欲望」(母親の子供に対する欲望、あるいは子供の母親に対する欲望)が事実であるとすると、大概の場合その責任は母子関係の三者関係化と分離をもたらす父親に降りかかる。

                   

                  Perversion and the Law

                   

                  倒錯と法 ラカンの倒錯についての逆説的な主張の一つが、倒錯はなんでもありの、享楽を求める行動として現れることがあるのにもかかわらず、法を存在させようとするはっきりしない目的があるということである。つまり、大文字の他者を法(あるいは法を与える大文字の他者)としようとするのである。例えば、マゾヒストの目標は(多くはパートナーに不安を生じさせることによって)パートナーあるいは目撃者に法を宣言し、おそらく判決を告げるところまで連れて行くことである。倒錯者はある種の「始原的満足」ー ランガージュの主体としての彼自身の主体的な分割を超えること、を得られるように思われる(残りの我々のように、話す存在には、享楽のわずかのかけら以上のものを得ることさえできないと思われる。つまり、ラカンが「享楽は話す人誰にも禁じられている。」と言う通りである。)そして、倒錯者は神経症者が夢見るか、幻想するかしかできない、ある種の全体性、完全性を見つけているように思われるが、実際には不安が倒錯者のセクシャリティを支配しているのである。倒錯者の意識的な幻想はある種の終わりのない享楽だと思われるかもしれないが(マルキ・ド・サドの数多くのシナリオで、男性の性的器官は性的活動を再び始めるにあたりなんの制限もないのを考えてみなさい。)しかし、意識的な幻想と具体的な行動を混同してはいけない。具体的な行動は享楽に限界を置くように仕組まれているのだ。

                   

                  注43)ある人の実際の行動は、特に分析の初めにその人が気付いている幻想よりも、その人の基本的幻想をはるかによく表すことが多い。

                   

                  欲望は常に防御であり、享楽のある限界を超えて行くことに対する防御であり、それは倒錯者の欲望であれ例外ではない。例えば、マゾヒストは、幻想において、全てを大文字の他者のためにして、自分自身のためには何もしない。「大文字の他者を私に夢中にさせよう、大文字の他者がいいと思うように私を使いなさい」とマゾヒストは言っているようだ。しかし、この幻想を超えて、マゾヒストの狙いは少し違っている。と言うのはこの明白な利他主義つまり、「私には何もいらない、全ては大文字の他者に」というのを超えて、そこにはマゾヒストのためのものがある。防御としての欲望は倒錯者の基本的な幻想に現れるが、それは法に関して倒錯者の位置を示す。

                   

                  神経症者は法に関連して欲望する。つまり、神経症者の父親は子供はその母親を所有できないと言い、従って子供は無意識に母親を欲望する。一方、倒錯者は法の作用として欲望するのではない、つまり、禁止されているものを欲望するのではない。代わりに、倒錯者は法を存在させるようにしなくてはならない。ラカンはフランス語のperversionをもじって、pere-versionと綴り、父を要求し、父に訴え、父に父の機能を履行することを望んでいると言うことの意味を強調している。

                  | 1.サイコセラピー | 11:44 | - | - | - | - |
                  倒錯について 11
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                    今回も、Bruce Fink の 「A clinical introduction to Lacanian Psychoanalysis」の第9章の訳出である。例によって、シェーマをブログに出せないので、Fig.8.3と Fig.9.1 は原書から拾っていただくしかないが、今回の、Being abd Having, Alienation and Separation を理解していただけば、「倒錯者の位置」ないし、「倒錯者の原理」は、いわゆる倫理道徳的な理解を離れ、Pshycosexual development の一段階への固着に過ぎないことが理解されると思う。

                     

                    Being and Having , Alienation and Separation (「〜であること」と「〜を持つこと」、疎外と分離)

                     

                    倒錯のすべての問題は子供が、その母との関係において、つまり、生物学的な(生命の維持に必要な)依存によってではなく、母への愛、すなわち母の欲望への子供の欲望によって分析の中で構成される関係の中で、母の想像的な対象とどのように同一化するのかということである。                    ーLacan, Ecrits,554/197-198

                    (この文章は、Finkの他の著作でも何度も引用されている。)

                     

                    フロイトが我々に示すのは、父の名のおかげで人は母親の性的なサービスに束縛されたままにならないですむということである。                    ーLacan , Ecrits, 852; Reading Seminars and

                     

                    倒錯に関する私の本質的なテーゼを記載するための一つの方法は「倒錯者は疎外を、別の言葉で言えば、原抑圧、意識と無意識の分裂、真に来るべき言語における主体になるべく用意する父の名を受け入れるないしは認めることを(精神病者とは違って)経験してきたが、分離は経験してこなかった」と言うことである。

                     

                    注33)この本でのラカンの用語である疎外と分離についての私のコメントは全く基本的でしかないので、詳しくは、The Lacanian Subject の5、6章を参照のこと。ここで注意すべきは、主体は疎外を通して言語の中に存在するようになるが、主体は単なるプレースホルダーとして、すなわち欠如として存在するようになるということである。本質存在という方向で何かを与えるのが分離である。 (「倒錯を理解するために」としてこの前のブログで訳出したFink のThe Lacanian Subject 5章を参照してほしい。)

                     

                    ここで、倒錯者の疎外をどう特徴付けられるだろうか? ラカンが言うように、我々は大文字の他者の欲望の部分対象としてこの世界に現れる( Ecrits, 582/225)、大文字の他者の欲望の対象となること、大文字の他者の欲望を勝ち得ることを望みながら、そして倒錯者には、彼の父親の欲望は全く言明されていないかのように思われ、母親が自分自身でその想像的対象をファルスとして象徴化する限りにおいて、倒錯者の母親の欲望の想像的対象に同一化する。(Ecrits, 554/198)

                    表現を変えると、母の欲望の想像的な対象はここではファルスであり、そのファルスは置き換えができるシンボルではなく、仮定的に言えば、母親が欲望するであろう、すべての地位を表す装いや、すべての社会的価値を設定する対象や、社会的に受け入れられた「真の男」、かってのファルスの所有者に似ている夫(あるいはボーイフレンドなど)という意味としてのファルスではなく、象徴化されない、代替え不可能な、置き換え不可能な対象としてのファルスであり、そして子供はそのファルスになろうとするのである。子供は母親の小さな宝物、フロイトならそう言ったであろう、母親の小さなペニスの代わりになろうとし、父親は多くは介入しようとしない(多分一人で居たいから)か、彼の介入の目論見は無効であるかなのである。

                    8章で導入した図を用いると、倒錯者の位置をFig.9.1のように示すことができる。この図を神経症者のそれと比較すると、倒錯者の主体の位置は大文字の他者を超えたところや、外部を必要としないことがわかる。その代わりとして、主体として、倒錯者は対象の役目を果たす。つまり、大文字の母親の空虚を埋める対象である。図式的に言うと、大文字の他者における最初の分割は倒錯者には起こっている。つまり、大文字の他者は完全ではなく、倒錯主体の大文字の母親は何かが欠けていて、何かを求めている。「私は何か?」と言う質問に対する倒錯者の答えは、「私はそれだ」それとは母が欠いている何かである。倒錯者にとって、このように、存在の永続した問いはない。つまり、倒錯者の存在の理由に関して永続した問いはないのだ。

                    男の子を母親から分離させるなら、男の子にファルスであることを辞めさせ、ファルスを持てるようにする必要があるだろう。つまり、(父親の父の認知や評価、社会的、象徴的活動の場を通して)象徴的なものを得るために想像的ファルスであることを辞めさせる必要があるだろう。男の子が母親にとってのファルスであれば、決して象徴的な位置を取れないだろう、その位置は象徴的去勢に伴うのである。母親が誇れる何者かになるよりむしろ、男の子は母親に愛情を持って抱きしめられ、撫でられ、多分性的な絶頂にさえ達するであろう何者かのままでいる。彼は世の中で有名になることができない、と言うのは彼が望みうるのは象徴的な達成ではないからである。

                     

                    注34)ここでは父親がファリックなシニフィアンを提供できていない、例えば、ハンスの想像的ファルス(この少年の夢の一つの中で、風呂桶のコック、彼のペニスのシンボル、が水道屋によって取り替えられる)のネジを緩めて外し、象徴的なファルスに取り替えることがでできない。

                     

                    彼は彼の母親の最高の目的として仕えるという水準に固着したままになる。

                     

                    原抑圧は主体が存在するのを可能にするが、それから子供は「僕は誰なの?」「両親にとって僕は何なの?」と問われるままになる。倒錯者は自身を大文字の母親に欠けているのものとして構成し、自身を母の欲望の対象とする、つまり自身を母親の対象aとするのである。彼は母親が無くしたもの(彼女のペニス/ファルス)そして彼女が欲するものに成る。子供は自身で母親の欠如を埋める。大文字の他者の欲望/欠如は、5章で詳細に説明してきた通り、名付けられない限り、不安を作り出し、この不安に対する倒錯者の解決は大文字の他者に享楽あるいは(たとえ一時的でも)欲望を消し去るある種の満足を提供することで母親の欲望を塞ぐものに成ることである。

                     

                    注35) 症候のように主体の位置は基本的には問題への解決策である。ここで注意して欲しいのは、Fig 9.1で示した倒錯者の解決策は、Fig.8.3のヒステリー者の解決策とある類似性を持つことである(倒錯者では主体の側が全く失われているが。)しかしながら、倒錯者とヒステリー者の(解決策の)間には、その使用域の重要な違いがある。つまり、ヒステリー者は大文字の他者の欲望(これは象徴的なものである)を引き起こす対象になろうとするのに対して、倒錯者は大文字の他者の享楽(これは現実的なものである)を引き起こす対象になる、すなわち、大文字の他者がそれによって満足を得る対象になるのである。第8章で見たように、ヒステリー者はそれによって大文字の他者が満足を得られる現実的な、身体的な、対象になることを拒否するのである。

                     

                    倒錯者との分析をするのがなぜそんなにも困難であるかの訳をこれが説明している。すなわち、倒錯者は分析者の欲望を満たす(塞ぐ)ことができる対象の役を演じることを期待して、対象aの役を自分自身に割り当てる。倒錯者が欲望の原因の位置を占めようと一生懸命な場合、倒錯者の分析主体(被分析者)の欲望の原因になるというやり方で転移を巧みに処理するのを強いるのは分析者には困難であろう。倒錯者は分析者を自分自身の沈思の原因とするよりむしろ、分析家の不安や欲望の原因として務めるだろう。このように純粋に倒錯者と分析をするのは極めて難しく、無意識の形成物によって、分析家が倒錯者に強調したものによって、倒錯者に興味をそそらせ、彼らの欲望を動かすのは難しい。ラカンが言うように、対象aが大文字の他者、ここでは分析家としての大文字の他者の中に、転移が可能可能になるように、主体によって位置づけられなくてはいけない。(Seminar 勝July 3,1963)

                     

                    注36) 分析家は分析主体(被分析者)の問い、あるいは満足の欠如の場所を占める。(その人の存在の理由であろうと、その人に性的満足を与えるものについての混乱であろうと)問い、あるいは欠如がないと、分析家は自分の務めを果たすことができない。ジャック・アラン・ミエールが言うように、知っていると仮定される主体が生じるためには性的享楽の場に何らかの空虚や欠落が必要なのである。

                     

                    しかし、倒錯者の位置をより厳密に明確に表現するためには、倒錯者は大文字の母親の欲望よりもむしろ大文字の母親の要求を扱っていることが強調されなくてはならない。子供の大文字の母親が「持つ」欲望/欠如が名付けられない、つまり口に出されない限り、子供は母親の要求にのみ直面させられる。厳密に言うと、欠如は象徴的体系の外部には存在しないので、子供は母親の欠如すなわち欲望に直面させられることすらないとも言える。ラカンが繰り返し用いる何が欠如を構成するかの説明は、図書館の本棚にない本の例である。知覚の見方からは、我々はそこにあるものだけ、、現存するものだけを見るので、そこにないものは見えないのだから、その本がない(ないことは見れないのだから)とは言えないことになる。その巻がその場所にないとか、なくなっているとか言えるのは(一巻と三巻がそこにあれば、その間に空間はないわけだから)例えば、デユーイの十進法の体系や、議会図書館の書籍分類体系のような象徴的な方眼が本の記号や名前を提供できるからでしかない。ある空間や場所を割り当てたり、規定したりするシニフィアンの体系がなければ、何ものもなくなっていると考えることはできない。言語がなければ、すなわち、象徴的な秩序がなければ、何ものかが欠けていると考えることはできない。

                     

                    このことが意味するのは、我々は、その母親が何かの点で欠けていると言われるまで、その母親を欠如として語ることさえできないのである。つまり、母親が自分で何かあるいは誰かへの切望、何かあるいは自身の子供へではない欲望を言葉にするまで、あるいは誰か(典型的にはその父親)が母親の欲望(例えば、母親は何々をうらやましく思っているとか、毛皮のコートを欲しがっている、昇進したい、父親にはああではなく、こう振舞って欲しい)あるいは母親の足りないところについて言明するまで。子供は、母親の欲望すなわち欠如が明確に述べられ、口に出されるまで自分の母親が欠けている、欲望していると理解しているとは言えない。一度それが名付けられるや、母親の要求の重み(例えば子供の身体的機能に関する現実的な、物理的に避けられない要求)が解除され、欲望の空間が利用可能になる、その空間では母親の欲望が明確に述べられ、動き、そこで子供は母親の欲望を自分の欲望のモデルとすることができる。

                     

                    「それ」が名付けられるまで、欠如はない。子供は要求としての大文字の母親に覆い隠され、自分自身の立場を適合させられない(欲望というものが享楽に関して立場を決め、享楽に対する防衛となる)

                     

                    注37) ここでは、最初のリビドー的な対象(すなわち、子供に享楽を与える対象)はその母親である。

                     

                    ここで子供は「欠如の欠如」と言えるものに直面しているのである。大文字の母親の要求だけが存在し、彼女は語るべき何ものも欠けていない、子供にとって象徴化できる何ものもない。

                     

                    注38) ラカンは「欠如の欠如」をやや異なった文脈で取り上げている。母親がいない、子供と共にいない時に子供は不安になると最も普通に信じられているが、ラカンはその反対に、不安は実際には、大文字の母親が常にいる時に「欠如の欠如」によって生じると言っている。 「何が不安を引き起こすのか? 言われているのとは違い、母親がいるーいないのリズムでも交代でもない。何が不安を引き起こすのかを証明するのは子供が「いるーいない」のゲームを繰り返すことで欲望を満たすことである。在の安心は、不在の可能性に基づくのです。子供にとって最も不安を作り出すのはそれを通して彼が存在するようになる関係、それは子供に欲望させる欠如を基盤としており、それが最もかき乱された時である。つまり、欠如の可能性がない時、母親が常に子供の後ろにいる時である」( Seminar 勝12月5日、1962) 倒錯者の場合にこれが示すのは、母子関係が過度に密接であるならば、母親が「所有している」子供を超えて何も欲望することはないと思われ、母親が欠けていると受け取られないだけではなく、子供自身が自分自身の生活になんの欠如も感じないし、このようであれば欲望することができない、厳密にいうと欲望する主体として存在することができない。ラカンが語る欲望は、欠如を覆うものであると同時に、不安に対する治療でもある。

                     

                    しかし、一度名付けられると、現実の欠如(母親の生活での欠如、例えば、旦那に、自分の職歴、自分の一生に満足できない、ー 語られることはないけれど息子を通してうまくやろうとしてきたもの)はある程度無効にされる。ラカンが言う通り、言葉は「もの」の死因である。「もの」(現実的欠如)は、一度名付けられると、言葉として存在するようになり、他の言葉と結バレ売るようになり、冗談などにされうる。言葉は、それが意味し、示す「もの」よりははるかに危険が少ない。と言うのは、言葉は「もの」を全滅dさせ、その圧倒的な力のいくばくかを流し去るからである。

                     

                    大文字の母親が無くしたものが名付けられると、子供が母のためにそうであったその対象はもはや存在できない。欲望がはっきり言葉で表現されたので、じっとしていられなくなり、あるものから次のものへと換喩的に転々とし、置き換わるからである。欲望はランガージュの産物であり、対象で満足させることはできない。大文字の母の欲望を名付けることは子供を対象としての子供の位置から追い出させるし、母の欲望へのつかまえどころのない鍵の追及に子供を駆り立てる。母は何を欲するのか?母親の欲望が出くわす、終わりのない物事の連続を特徴付けると思われる、言いようのない何かは、西洋社会ではファルスとして知られるものである。母親を完全にするために現実の対象(現実の臓器)は必要とされず、子供は母親の欲望が示すもの、欲望できるものとして、ファルストして暗示するものを所有することを求めるように進むことができる。 大文字の母の欠如は子供が資格充分の主体になるために名付けられるあるいは象徴化されなくてはならない。倒錯においては、これが起こらない。思考のレベルでこの欠如が存在するようにできる、その現実の重みを軽くするいかなるシニフィアンも提供されない。母親の父親も象徴化に必要な分節化を与えない。フロイトの著作に見るように、倒錯においては大文字の母おい屋の欠如の疑問は大文字の母親の性器の周り、母親の息子との性差に集中することが多い。この章の終わりで、母親の性器を中心題目とした症例で、むしろ抽象的な用語で議論された、命名(すなわち名付け)の重要性の詳細な説明を見るであろう。

                     

                    7章1において、父性隠喩には二つの契機があることを示した。大文字の母親の欲望/欠如の名付けは二番目の(論理的)契機である。父性隠喩の第一番目の契機は母親との子供の満足を与える接触の禁止(享楽の禁止)で、父の名は父の「否」の形をとる。

                     

                                      父の「否」

                                  ---------------------------------------

                                   享楽としての大文字の母親

                     

                    二番目の契機は大文字の母親の欠如の象徴化を意味する、すなわち名前(ここでは父親によって与えられる名前としての「父の名」あるいは、大文字の母親の欲望の名前としての父親自身)を与えられるという事実による欠如の構成である。

                     

                      

                                                                                  父の名              

                                                                 ------------------------------------------

                                      欲望としての大文字の母親

                     

                     

                    この二つの置き換えの契機は上記のようにシェーマとして表される。

                     

                    二番目の契機だけが純粋に換喩的と考えられる、というのは言語が名付けによって資格を有するやり方で行為するのは二番目の場合だけだからだ。この二つの契機はFig.9.1で与えられた二つのシェーマに正確に対応する。一番目の契機は大文字の母親の中での分割を招くのに対して、子供は大文字の他者が満足を得る対象として存在するようになる。一方、二番目の契機は(享楽の源としての大文字の他者から分離して)欲望する主体の出現させる。一番目の契機はラカンが疎外と呼ぶものに相当し、二番目は分離に相当する。一番目はフロイトが原抑圧と呼んだものに、二番目は二次抑圧と呼んだものに有効に関連付けるであろう。 初めに言ったように、ここでの私の本質的なテーゼは、倒錯者は疎外を経験しているが分離を経験していないというものである。精神病者はどちらも経験していないのに対して、神経症者は両者を経験している。図式的には以下のようになる。

                     

                     

                    以下の部分は、原著の179pを参照のこと。

                           疎外                         分離

                     

                                                                                            

                                               父の「否」                                                      父の名

                    精神病者 ------------------------------------------------  倒錯者  ---------------------------------------------  神経症者

                                         享楽としての大文字の母親             欲望としての大文字の母親 

                     

                     

                           原抑圧                        二次抑圧

                           享楽の禁止                      欠如の名付け

                     

                                             φ                        Φ

                                             要求                       欲望

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                    精神病者が父の禁止の不在、不全によると理解できるならば、倒錯者は象徴化の不在ないし不全によると理解できる。 注39) 倒錯には、後ろ向きと前向きの仕草の両者があると思われる。前者は大文字の他者に満足を与える試みを意味し、後者は、下記のように、父の名付けの行為を支えるないしは補おうとする。神経症においても、同じような後ろ向き、前向きの仕草がある。前者は大文字の他者が欲望するものになろうとすることを意味し、強迫では、大文字の他者の欲望のシニフィアンΦを完全に体現させようとするし、ヒステリーでは大文字の他者の欲望の原因(a)を完全に体現しようとする。後者は大文字の他者の欲望への固着を振り払う試みを意味するが、これが分析主体(被分析者)の進路である。                       

                    | 1.サイコセラピー | 07:50 | - | - | - | - |
                    倒錯を理解するために
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                      倒錯を理解するために

                      倒錯についていくつかの文献を読んできたが、例えば、Stephanie S. Swales の Perversion でも初めの方にラカン理論の説明が約30pにぐらい書かれていて、この説明はラカン理論の概説として優れたものであるが、こういう概説を置かないでいきなり倒錯について語るのは木を見て森を見ないことになると思う。その意味で、ここにFinkの著作The Lacanian Subject 5章から、疎外と分離について引用する。なるべく原文を尊重したが、パラグラフしたところがあることをご承知おき願いたい。また、ラカンのマテームヤシェーマにはブログではそのまま再現できないものもあるので、原文を参考にしていただく必要があるかもしれない。

                      主体性

                      主体性とは「疎外」と「分離」の結果である。

                      疎外

                      まず、「疎外」は、「子供は、言語と言う大文字の他者に、服従することで、自分をシニフィアンに代理させることができる。」と表現され、このことは以下の式で表される。

                                言語(大文字の他者)     
                              ―――――――――――-
                                子供

                      子供はこの操作により、分割された主体として(象徴界にその場を占めることができるようになる。つまり事実存在として)存在するようになる。      

                          S シニフィアン(に代理された子供)   
                        ―――――――――――――――――-――――-      
                          $(分割された主体としての子供)

                      疎外を(velという形式で)選択した子供は、言語に服従すること、自分の欲求need を言語という(本質的に)歪曲する媒体を通して表現することに同意すること、自分自身を言葉によって表象されるようにすること(シニフィアンになること)を選択したことになる。 ここでこの過程を俯瞰すると、 人間は本能が壊れた動物であり、本能があれば、子供を持つ動機は本能により決定される単一のもの(種の保存)になるが、それが壊れているために、人間の親が子供を持つ動機は複雑であり、その複雑な動機が子供の誕生以降も子供に作用し続け、子供が主体として象徴界にその場を獲得するようになる、つまり言語のうちに主体として到来する原因となる。この過程は、言語から見た疎外ではなく、欲望から見た疎外を表す。 このように、「疎外」とは、主体の誕生に先立ち、大文字の他者の欲望を原因として引き起こされたのである。 言語と欲望は、疎外という同じ織物の縦糸と横糸であり、言語は欲望に支配され、欲望は言語なしでは想像すらできないし、まさに言語という素材から作られている。 疎外は主体性に同意するのに必要な最初のステップであるが、このステップは自分自身の消失を意味する。 ということになる。

                      ラカンの「存在欠如としての主体」の概念

                      主体は何者かとして、つまり特定の存在(本質存在)として生じることができない。主体は言語が主体を無から生じさせる限りにおいて事実存在し、そして語られ、話され、現表されうるが、それでも本質存在はしないままである。(主体は決して存在するものではなく、主体として現出するのだ。これはハイデッガーの「道標」での主張に沿った考え方である。)疎外の開始の前には本質存在のいかなる問いもない。「はじめにいないのが主体自身である」疎外の後は主体の存在は全く潜在的である。疎外は主体の純粋な存在可能性を生じさせ、その可能性とは、主体を見つけることを期待できるであろう場所のことであるが、それでも空っぽのままである。疎外は、ある意味、未だかってどんな主体もいたことのない場所を生み出す。それは何かを著しく欠く場所である。主体はまずこの欠如を装う。 ラカンの著作の中での欠如はある程度存在論的な地位を持つ。(集合論で空集合{φ}に割り当てられるものに近い)無を超える最初のステップである。何かを空とみなすことは、二者択一的に満たし得ることを意味する空間的な隠喩を用いることになり、満たされている、あるいは空であるという本質存在より多くの事実存在を持つことになる。ラカンにより、よく用いられる隠喩はそれ自身の場所を欠いた何かという隠喩であり、場違いであるべきところ、いつもある場所にはない、つまり失われた何かである。さて次は失われた何かを取り上げると、それは最初にあったはずだし、局在していたはずである。つまり、それはある場所を占めていたはずである。そして何かが秩序づけられた体系の中だけで(象徴界だけで)場所を持つことができる、例えば、空間ー時の座標や十進法の図書分類法など、つまり、ある種の象徴的な構造の中だけで。 疎外は象徴的秩序を制定 することー 疎外は新しい主体ごとに新たに実現されなくてはならない ー と、その象徴的秩序の中で主体に場所を割り当てることを意味する。その場所はその時点で主体に占められていないが、主体のために、そして主体のためだけに指定された場所である。ラカンが、主体の存在は言語に覆い隠される、ここで主体がシニフィアンの下あるいは背後に滑り落ちるというのは、一部は主体が言語にすっかり隠され、主体の痕跡が、象徴界での場所のマーカーあるいは場所のホルダーになるだけであるとしている ジャック・アラン・ミエールが言うように、疎外の過程は主体を空集合{φ}として、すなわち要素を持たない集合、印付けたり、表象することで無を何者かに変える象徴として生み出すものと言えるかもしれない。集合論はこの一つの象徴と幾つかの公理を基にその全領域を作り出す。同様に、ラカンの主体は空を名付けることに基づく。シニフィアンが主体を創設するものである。つまり、シニフィアンは存在論的な影響力を行使できるものであり、シニフィアンが印付けたり、取り消したりすることで現実界から事実存在を苦労して手に入れるものなのである。しかしながらシニフィアンが築くのは実体のあるもの、あるいは物質的なものでは決してない。 象徴的秩序の中での主体の場所のホルダーとしての空集合は主体の固有名と関係がないわけではない。固有名は多くは子供の誕生のずっと前に選ばれ、象徴界に子供を書き込む。アプリオリには固有名は主体と何の関連もない。それは主体にとって他のいかなるシニフィアンと同じように異物である。しかし、やがては、このシニフィアンはおそらく他のいかなるシニフィアンよりも、主体の存在の基となり、主体の主体性と分かち難く結びつくようになる。それは主体の代わりとなる、主体としてのまさに不在のシニフィアンになるだろう。 原注5)主体は固有名を引き受けるあるいは主体化することを要求され、固有名を自分自身のものとする。そうすることができないのが多いことは名前を変える人が多いことからわかる。(政治的あるいは商売上の目的に限らず)

                      分離

                        次の操作である「分離」は、疎外された主体が、今度は言語と言う大文字の他者ではなく、欲望としての大文字の他者に直面することを意味する。分離は、疎外された主体が、大文字の他者の欲望が自分の世界に現れてくる時に、その大文字の他者の欲望に対処しようとする試みである。 疎外が本質的には強いられた選択で特徴付けられ、その選択は主体の本質存在を除外し、その代わりに象徴的秩序を制定し、主体をそこにプレースホルダーとしての単なる事実存在に追いやる。分離は、一方、本質存在を生じさせるが、その存在は極めて儚く、捕らえにくい種類のものである。疎外がとても歪んだ形の「どちらか」に基づくのに対して、分離は「どちらでもない」に基づく。 分離は主体と大文字の他者の両方が除外される状況を意味する。主体の本質存在はいわば外側から、主体と大文字の他者以外の他の何かから、正確な意味でどちらでもない何かからこのようにもたらされなくてはならない。 分離に関係する本質的な考え方の一つに、二つの欠如の並置、重なり合い、一致という考え方がある。これは欠如の欠如、つまり、欠如が欠けている状況と混同してはいけない。 ここで述べられていることは、「対象の欠如」であり、対象の欠如、つまり対象の不在性(出会い損ね)という本質が人間の思考を可能にするということである。そして、この思考こそが、「私は存在する」という思考を生み出し、その中で「存在する私が思考する」という時間的逆転を生じさせることで、事実存在を創り出すのである。 (欲望を生じさせる原因となる)欠如がなくなる、つまり「欠如が欠けている状況」というのは要求 demand が満たされ、欠如のない状況、母親が常に子供の前に「いる」状況であり、それは欲望を起こさせないので、「欲望の死」を意味し、子供に(存在への)不安を生じさせるのである。 フロイトは、「対象の保持」 Retention が、神経症を精神病から隔てるといったが、対象とはラカンに従えば、常に「出会い損ね」であり、不在の対象と言えるので、この「不在の対象が保持される」というのは対象がなくなっている(これが「欠如が欠けている状況」)ことではなく、対象が不在であっても対象の場所が保持されているのが神経症(ないし正常者)の特徴で、その場が保持されていることで、新しい代理の対象を見つける可能性が保持されるということなのです。主体の心の中のこのような場を対象というのであり、それは仏教用語の「空(くう)」に相当する、「無ではない、空」なのであり、慈円の『引き寄せて結べば柴の庵にて、解くれば元の野原なりけり』に通じる「空(くう)」なのである。この場所としての対象は欲望を満たすものではなく、欲望を起こさせるのである。だから「対象は欲望の原因」と言われるのである。ラカンの言う「対象a」とはこのような対象である。 不在の対象として、大文字の母親には欠如が必要であり、不完全であること、誤りを免れない性質があること、欠けていることのサインを、分離がなされるため、そして主体が$として存在するようになるために示さなければならないし、大文字の母親は、主体の出現が立証されるために、自身が欲望する(そしてこのように欠如し、疎外されている)主体であり、自分も分裂、つまり言語の斜線を引く作用に服従してきたことをことをはっきり示さなくてはいけない。 分離は、斜線を引かれた大文字の他者、つまり自身が分割された両親から始まる。両親は彼らが欲しているもの(無意識)をいつも知っている(意識)わけではないし、彼らの欲望は疑わしく、矛盾し、常に流動的である。多少隠喩を変えると、疎外を通じて主体は分割された両親の中に足がかりを得るようになる。つまり、大文字の他者が欠いている「場所」に主体は自身の存在の欠如を委ねてきたのである。分離において、主体は大文字の母親の欠如を主体自身の存在の欠如で、主体の未だ存在しない自身あるいは存在で埋めようとする (母親の欠如は 何かほかのものに対する母親の欲望が様々な現れとしてはっきり示される )。主体は大文字の他者の欠如を自分自身で埋めるために大文字の他者の欠如の境界線を正確に決めることを欲して、大文字の母親の欠如と自身の欠如を掘り出し、合わせ、結合しようと試みる。 子供は両親が喋ることの中で判読できないことに強い興味を持つ。両親の言葉の隙間に横たわる何かに興味を持つ。なぜ?を判読するために子供は行間を読もうとする。母はXというがなぜ僕にそういうのか? 母は僕に何を欲しているのか? 大体において何を欲しているのか? ラカンの考えでは、子供の終わりのない「なぜ?」は物事がどのように作用するかに関しての満足することのない好奇心というよりはむしろどこが自分に合うか、自分が持つのはどんな地位か、両親に対してどんな重要性を持っているかの関心を示すものである。子供は両親の欲望の対象になろうとして自身をある場所に繋ぎとめようとする。つまり、欲望が現れ、欲望を表すために言葉が使われ、さりとてそれがいつも十分にできない行間という『空間』を占めようとする。 欠如と欲望はラカンにとって同じ広がりを持つ。子供はかなりの努力を母親の欠如、つまり母親の欲望の全空間を埋め合わせるために捧げる。子供は母親にとって全てであることを欲する。子供は母親の欲望の場所を掘り出し、彼女の思いつきや気まぐれに自分を合わせようとする。母親の希望は子供には命令であり、母親の欲望は子供には要求である。 原注6) 母親の欲望が要求として子供に捉えられることは要求を満足することで欲望の満足が企てられることを意味する。 子供の欲望は完全に母の欲望へ完全に従属して生まれる。「人間の欲望、それは大文字の他者の欲望である」とラカンは繰り返し述べている。二番目の「の」を今は主格属格ととると、以下のような翻訳が可能となる。「人間の欲望は大文字の他者の欲望である。」「人間の欲望は大文字の他者の欲望と同じである」「人間は大文字の他者が欲望するものを欲望する」これらのすべてが意味の一部しか伝えていない。というのは人間は大文字の他者が欲望するものだけを欲望するのではなく、また同じように欲望するからである。言い換えると、人間の欲望は大文字の他者の欲望とすっかり同じように構造化されるのである。人間は、あたかも別人のごとく、もう一人のの人として欲望することを学ぶ。 ここで仮定されているのは、母親の欠如と子供の欠如を完全に重ね合わる傾向であり、彼らの欠如を完全に一致させようとする試みであると言える。しかし、これは空想的な、実現の可能性のない契機である。というのは事実は、そうしようとしても、母親の欲望の空間を独占することはまずできないし、そうすることはまず許されないし、強いられることもないからである。子供が母親の唯一の関心になることは滅多にないし、二つの欠如は決して完全に重なり合うことはない。つまり主体は、欲望の空間の一部を占めることをとにかく防がれ、除外されるのである。
                       

                       

                      第3項の導入
                       

                       

                      分離はここでは主体によってこれら二つの欠如を完全に一致させようとする試みを意味するものとして理解されるかもしれないが、その試みは突然妨げられる。いかにして、なぜその試みが妨げられるかはセミネール靴肇┘リの「精神分析のあらゆる可能な治療に対する前提問題について」を分析することで理解できるようになる。というのは、1964年に考案されたラカンの分離の概念は幾つかの点で彼が父の名の隠喩ないし父親の機能の操作として1956年に言及したものと同値であると思われるからである。 ラカンによれば、精神病は子供がそうしないと子供の象徴的世界を構築するであろう根源的なシニフィアンを同化することに失敗することから生じ、それに基づいて方向付けを決定する指針を読むことができないので、その失敗は子供を言語の世界にしっかり固定できないままにする。精神病の子供は言語をとてもうまく取り入れるかもしれないが神経症の子供と同じようなやり方で言語の世界に存在するようにはなれない。その基本的な投錨点(としてのシニフィアン)がなければ、同化された残りのシニフィアンは漂流することを運命づけられる。 その根源的なシニフィアンはラカンが父の名の隠喩とか父の機能と呼ぶものの操作を通じて任命される。原初の母親ー子供の結合体( 論理的すなわち構造的な契機としての、時間的な契機ではなく )を仮定するならば、西洋的な核家族における父親はその点に第三項として介入することで多くは異物、ないしは望まれないものとしてさえ受け取られるが、その結合体を邪魔するというやり方で典型的には作用する。子供はまだ一種の未分化な感覚の束であり、感覚ー運動の協調と自己のすべての感覚を欠き、母親からまだ区別されず、母親の身体を単に自身の身体の延長と受け取り、ある種の直接的な、無媒介な関係だと理解している。そして母親は彼女の注意をほとんどすべて子供に向けようとするかもしれないし、子供のいかなる欲求も予想し、子供が完全に自分と意思疎通ができ利用できるようにするかもしれない。このような状況では、父親ないしは他の家族の構成員、あるいは母親のその他の関心が非常に特定の作用を示すことになる。すなわち、母親ー子供の結合を解消し、母親と子供の間に絶対必要な空間あるいは裂け目を作り出すのである。もし母親が父親や家族の他の構成員に興味を示さなければ、いかなる重要性も認めないならば、母親−子供関係が三者関係化されることはない。あるいは父や他の家族の構成員が無関心であるなら、それとなくその結びつきが壊れないままにしておくなら、第三項は決して導入されないであろう。 ラカンはこの第3項を「父の名(の隠喩)」あるいは「父の作用」と呼んだが、その作用を父性隠喩、父性作用の形で形式化することで、それが生物学的、あるいは事実上の父親や、あるいはそのことならもはや固有名とも必ずしも結びついていないことを明らかにする。セミネール犬如▲薀ンはフロイトのハンス坊やの症例で父性作用を担いうる唯一のシニフィアンは「馬 horse」というシニフィアンであると示唆するまでに至っている。「馬」というシニフィアンはハンス坊やの例では明らかに、「ある」父の名であり、彼の「固有の」名前では決してない。それはハンスの息子を妻から分離することができないために父性作用を担えない父親の代役である。
                       

                       

                      原注9)片親の場合、恋人(過去のあるいは現在の)あるいは友人や親戚でさえも時々父親の後釜に座り、子どもの範囲を超える両親の欲望の一部を指し示す。同性愛のパートナーの一人が同様に この役目を果たすことは確かに想像できる。異性愛のカップルで生物学的男性が母親の役目をし、生物学的女性が法を表すことがあるが、社会的規範が現実にはこのような反転の有効性を父の名や父の作用を置き換えることで発展させることはない。
                       

                       

                      3章で示したように、象徴的秩序現実的なものの影響を取り除き、社会的に受け入れられないかもしれないが、社会的に、現実的に変形することを担い、ここで父の機能を担う名は現実的な、未分化な、母親と子供の結びつきを禁じ、変形することを担う。それは子供が簡単に母親と快感に満ちた接触を図ることを禁じ、父の代わりの人そして/あるいは大文字の母親にとって(母親が父親に重要性をを与える限りで父親は父性機能を担うことができるのだから)より受け入れ可能な方法で快を追求することを要求する。フロイトの用語では、それは現実原則に相当し、快原則の目標を無効にするのではなく、社会的に指定された通路に快原則の目標を導く。

                      原注10)ここで、フロイトの現実の概念を明確に社会的に定められた、社会的に構築された現実を意味するものとして解釈している。

                      父性機能は大文字の他者の欲望を無効にする同化すなわち、名(それは後で見るように置き換え可能ではないのでまだ一人前のシニフィアンではない)を担うことへと導くが、この大文字の他者の欲望はラカンの視点からは子供には潜在的にとても危険なもので、子供を飲み込む恐れがあり、子供を覆い隠す恐れがある。セミネール17の印象的な一節で、ラカンはそれまで言ってきたことを極めて図式的な用語でまとめている。 母親の役割は彼女が欲望することである。それは主要な重要性に属するものである。彼女の欲望はあたかもあなたにとってどうでもいいことであるかのように容易に担えるようなものではない。それは常に問題になる。母親は大きなクロコダイルであり、あなたは彼女の口の中にいることになる。あなたは何が彼女を突然始動させ、顎を固く嚙みしめさせるかを知らない。それが母親の欲望なのである。 だから私は元気づけるものがあるのだと説明しようとしたのだ。単純なことを言っているのです、実際間
                      に合わせに作ったのですが。ローラーがあります。石でできた、もちろん、罠になる可能性のある位置にあり、開いたままの状態で動けなくする。それがファルスと呼ばれるものです。それはもし顎が突然閉じることがあればあなたを守るローラーとなります。 念頭において欲しいのは私が「母親の欲望」と訳しているフランス語には両義性、つまり母親に対する子供の欲望と母親それ自体の欲望の両方を示すということ、が避けられないということです。くよくよ考えてどちらかを選ぶにしても、あるいは全体として状況を見るほうを好むにしても、ポイントは同じである。言語が現実になると危険な二項関係から子供を守るし、言語が生じるのは母親の欲望をある名前で置き換えることを通してである。  

                                     

                                                                  Name-of-the-father

                       

                                                                 -------------------------------------------

                       

                                       Mother’s Desire

                       

                      まったく文字どおりに読めば、この種の定式化は、母の欲望の対象は父(あるいは家族の中で父の代わりになるものならなんでも)であり、大文字の母親の欲望を名付けることで防御的な父の機能をこのようにして提供するのである。 ソール・クリプキによると、名は固定指示子である。言葉を変えると、それは常に、そして頑固に同じものを指示する。名をシニフィアンと言っていいかもしれないが、但し書きをつけると、それは他とは異なる種類のシニフィアン、つまり根源的なシニフィアンである。一人前のシニフィアンとして働くためには大文字の母親の欲望を置き換えるあるいはその代わりをするためのさらなる段階が必要である。つまり、シニフィアンが弁証法的運動の大事な部分にならなければならない、すなわち、置き換え可能になることであり、経時的に一連の異なったシニフィアンによって埋められていくシニフィアンの場所を占めるようになる。このことはこの章の後半で論じる種類のさらなる分離を要求し、それがラカンに父性機能に重要な象徴的要素を父の名、父親の否、禁止、シニフィアンとしてのファルス、他者の欲望のシニフィアンS(A) などの様々な言い方を取らせるのである。                        
                             Signifier
                         ――――――――――――――――
                            Mother’s Desire 
                       
                      父性隠喩によって示唆された置き換えは言語によって可能となるだけだが、それは第二のシニフィアン、つまりS2が母の欲望が遡及的に第一のシニフィアン、S1へと象徴化、つまり変形され(初めは父の名が、ついで、大文字の他者のより一般的なシニフィアンとして)任じられる限りにおいてである。

                       

                                S 2

                             -----------------------------------            

                                                     S 1

                       

                      ここでのS2は明確な役目を果たすシニフィアンである。それは大文字の母親の欲望を象徴化し、シニフィアンへと変形する。そうすることで大文字の母親と子供の結合に裂け目を創り出し、子供に楽に息ができる空間、子ども自身の空間を可能にする。言語を通して、子どもは大文字の他者の欲望を仲裁しようとすることができるのであり、それを寄せ付けず、常に完全にそれを象徴化するのである。1950年代にはラカンはここで示唆されたS2を父の名と言っていたが、60年代にはそれを、大文字の他者の欲望を意味する(すなわち、置き換え、象徴化し、効力を消す)様になるシニフィアンとして最も一般的に理解される、「ファルス」と言うようになる。このシニフィアンを表すためにラカンが提供する記号が、S(barred A) であり、通常は「大文字の他者における欠如」と読まれるが、欠如と欲望は外延を同じくするので、「大文字の他者の欲望のシニフィアン」とも読まれる。 この置き換え、すなわち隠喩の結果が主体の降臨であるが、その主体は単なる潜在性、つまり満たされることを待っている単なる象徴界のプレースホルダーではもはやなく、欲望する主体である。(次章の置き換えの隠喩の議論で理解するであろう様に、その様な隠喩はすべて主体化の機能を持つ。) 一般的に言うと、分離は大文字の他者からのまだプレースホルダーにすぎない主体の放出を招く。簡単に言うと、これはエディプス・コンプレックスの結果(少なくとも男の子の関する)に関するフロイトの見解と関係付けられるそこで父の去勢の脅し、「お母さんから離れなさい、さもないと!」、がついには子供を大文字の母親から離脱させるのである。このような筋書きで、子供はある意味大文字の母親から蹴りだされるのである。(Fig. 5.3)
                      この論理的に認められる契機(一般的には個人の成育歴の特定の時間的契機としては同定するのが極めて難しく、それが起こるためには、それぞれ以前の契機に積み重なる、多くのこのような契機が必要だろう)はラカンのメタ心理学の基本的なものであり、彼の代数学の重要な要素ーS1,S2,$,そしてa ーのすべてがここで同時に発生する。S2が任じられたとたんに、S1が遡及的に決定され, $が析出され、大文字の他者の欲望は新しい役目を引き受ける。すなわち、対象aである。

                       


                      対象 a
                       

                       

                      大文字の他者の欲望 子供が大文字の他者の欲望で本質的に判読できないままのもの、それをラカンは「X」、変数、より適切には知られざるものと呼び、それが子供の欲望に根拠を与える。その原因は、一方では、主体にとって、(欠如に基づく)大文字の他者の欲望であり、またここでラカンの格言である「人間の欲望は、大文字の他者の欲望である。」の別の意味に出会うが、それは例えば、次のように翻訳されうる。「人間の欲望は大文字の他者に自分が欲望されることである。」「人間の欲望は自分に対する大文字の他者の欲望である」主体の欲望の原因は主体への誰かの声であり、目指しである。しかしその原因はまた主体とは何の関係もないと思われる大文字の母親の欲望の部分からも起こり、それは主体を母親から(物理的にあるいはその他の方法で)引き離し、母親の大切な心遣いを他のものに向けさせる。 ある意味では母親がまさに得たいと望んでいるものが子供が望むに値すると気づくものである。セミネール爾如▲▲襯ビアデスがソクラテスの中の「何かあるもの」に魅了され、それは(「饗宴」の中の)プラトンの用語では「アガルマ agalma 」に当たるとラカンが指摘した。アガルマとは、貴重な、光り輝き、眩しい何かであり、ラカンによる解釈ではソクラテスの欲望そのもの、ソクラテスが欲望するもの、ソクラテスが望んでいる状態である。発見者に欲望を起こさせる高い価値を与えられたアガルマはここでラカンが対象a と呼ぶもの、つまり欲望の原因(7章で十分に論議されるであろう)へのアプローチとして役立ちうる。 ラカンの格言の第二の明確な記述は、人間の欲望は大文字の他者によって欲望されることを示唆するが、大文字の他者の欲望が対象 a だと暴露する。子供はその母親の唯一の愛情の対象でありたいが、母親の愛情はほとんど常に子供の向こうに向かう。母親の欲望について何か子供にはわからないものがあり、子供が支配できない。子供の欲望と母親の欲望の間の厳密な一致は維持され得ない。子供の欲望から母親の欲望が独立していることがその間に裂け目を創出し、その割れ目で子供に理解できない母親の欲望が独特のやり方で働くのである。 この分離の大まかな説明は仮説上の母ー子結合に欲望のまさに性質により「割れ目」が導入され、この割れ目が対象 a を招くことを断定する。

                       

                      原注12) ここで、母ー子二人一組の間を裂く父親の役目を思い出さないわけにはいかない。第三項の導入について述べてきたが、実際、第三項は常にすでにそこにあり、最初の関係の明白な親密さを構造化している。幼児は外からの侵入を経験するが、その侵入は、父として、父の名として、あるいはファルスとして様々に特徴付けられるものによって果たされるが、幼児を母親との完全な交わりから追い出し、ある種の完全な重なり合いを邪魔する。 侵入は幼児の母親への独占的な権利を禁止する形をとるかもしれないし、母親を超えた禁止の源を探すように幼児の興味を強いるが、母親が魅了される源は、男友達、恋人、家族、隣人、国家、法、信仰、神である。全く決められないかもしれないが、典型的に魅了する何かである。 対象 a はここでは剰余 remainder として、仮説としての母親ー子供結合が分解した時に、この結合の最後に残った痕跡、そのことから思い出される最後のものとして作り出される剰余として理解される。この剰余、思い出させるものに執着することで、分割された主体は大文字の他者から切断されているにもかかわらず、全体性という幻想を維持でき、対象 a に固着することで主体は自身の分割を無視できる。

                      原注13) ラカンは、これを「ごまかしの完全性」という。

                      これこそがラカンが幻想ということで意味していることであり、matheme (分析素)$ ◇ a で表し、それは 対象 aに関して分割された主体 と読まれる。主体の対象a との複雑な関係(ラカンはこの関係を「envelopment-development-conjunction-disjunction」の一つとしてこの関係を記述した。)の中でこそ主体は幻想的な意味での、全体性、完全性、達成感、幸福感を得るのである。 クライエントが分析者に幻想を詳しく話す時に、彼らは分析者に対象a と関係したいやり方について知らせるが、言葉を変えるとそのやり方とは、大文字の他者の欲望についてどのように位置付けられたいのかである。対象a は彼らの幻想の構成要素となるので、主体が好きなように扱える道具かおもちゃであり、彼らの望み通りに操作し、幻想のシナリオの中でそこから最大限の興奮を引き出すように物事を結集させる。 しかしながら、主体が大文字の他者の欲望に主体にとって最も興奮させる役を振り分けてもその快は不快に変わるかもしれないし、恐怖にさえ変わるかもしれないので主体を最も興奮させるものが常に一番快感を与えるものだという保証はない。快感あるいは苦痛の意識的な感覚のどちらと関連していてもその興奮はフランス語で享楽 jouissance と呼ばれるものである。フロイトはその享楽をねずみ男の顔に見つけ、それを「彼自身が気付いていなかった彼自身の快感における恐怖」と解釈した。そしてフロイトは、はっきりと「患者たちは彼らの苦しみからある満足を引き出している」と述べている。セックス、見ることそして/または暴力による興奮であるが、良心によって肯定的、あるいは否定的にどちらに捉えられようと、無垢に楽しい、あるいはうんざりするぐらい不快であろうと、この快感は享楽と名付けられ、主体が幻想の中で自分のために編成する。 享楽とはこのように失われた母子一体の代わりとして現れるもので、子供が自分の主体性を犠牲にしたり我慢することでのみ成り立つ一体によるので、その一体はそれほど団結したものではない。文字が存在する前、つまり象徴的秩序の存在する前のある種の享楽(J1) 、母子間の無媒介な関係、母子間の現実的な結合に対応する享楽を想像することができるが、それは父性機能の操作によって取り消されシニフィアンに道を譲る。その現実的な結合のいくらかあるいは部分は幻想の中で再発見される(文字獲得後の享楽、J2)つまり、象徴化の遺物や副産物との主体の関係として再発見されるのである。すなわちこれが対象a (S2としてて作り出され、遡及的にS1を決定し、そして主体を沈殿させる)である。            

                               J1 ⇨ SYMBOLIC ⇨ J2

                      J2は以前の全体性や完全性の代理をし、J2を実現する幻想は主体を主体の無、すなわち疎外のレベルでマーカーとしての主体の単なる事実存在を超えさせ、そして本質存在の感じを与える。このように幻想を通してのみ、主体が自身で、ラカンが「 being 本質存在 」と呼ぶもののいくばくかを得ることができるようになのは分離によって可能になるのである。事実存在 existence が象徴的秩序(疎外された主体がその中に場所を割り当てられること)を通してのみ認められるのに対して、本質存在 being は現実的なものに執着することによってのみ提供される。 このように、分離、すなわち主体と大文字の他者に関する「どちらでもない」が本質存在をいかにして生み出すかが分かる。つまり、主体と大文字の他者の一体に裂け目を作り出し、大文字の他者の欲望は主体を外れ、現にそうであるようにいつも他の何かを求め続け、それでも主体は、欲望の(本質)存在として、欲望する(本質)存在として主体を(本質)存在させ続け、そこから剰余ないし想起させるものを取り戻すことができる。対象a は主体を補完するものであり、常に主体の欲望を喚起する幻想的なパートナーである。

                      原注14) 大文字の他者のことを単純な帯(たとえば紙の)と考えてみれば、主体はひねりを加えた大文字の他者と考えることができる。最初の帯によって創り出される穴、すなわち欠如を埋めるであろう面は単純な円である。一方、二番目の帯によって創り出される穴、すなわち欠如を埋めるであろう面はより複雑なトポロジー的な面、すなわち「内的な8」である。

                      分離は主体を自我と無意識に分裂させるが、その結果として大文字の他者を、欠如を持つ大文字の他者と対象 a に 分裂させる。これらの一団は初めには無かったものであり、なのに分離は一種の交差を結果として起こし、それによって主体が自分自身のものだと考え、自身の事実存在に必須のものと考える大文字の他者の何か(ここでの理論では大文字の他者の欲望)が大文字の他者から剥ぎ取られ、現在の分裂された主体によって幻想の中で保持されるのである。

                       


                      さらなる分離
                       

                       

                      幻想の横断 1964年以降、分離の概念ははラカンの著作から殆ど姿を消し、60年台の後半からもっと複雑な分析の効果の理論に道をゆずる。セミネールの14と15で、疎外という用語は 1960から64年に詳しく論じた疎外と分離の両方を意味するようになり、新しい動的な概念が新たに付け加えられた。それは幻想の横断、即ち基本的幻想の乗り越え、横断、横切りである。 この再編成は、ある意味、ラカンが概念を推敲して、分析家は対象 a 、言語としてではなく欲望としての他者の役割を果たすべきであるということにはじまる。分析者は被分析者が分析者に振り当てる、すべてを知り、すべてを見ている大文字の他者の役、人間としての被分析者の価値を決める最終判定者、真理のすべての質問の最終解答者としての役を避けなければならない。分析者は、被分析者に真似すべき、そのようになろうとする、そのように欲望する(欲望傾向はそれ自体大文字の他者の欲望をモデルにする)大文字の他者として提供することをうまく避けなければならない。要するに、同一化すべき大文字の他者を受け入れることの出来る理想としての大文字の他者、自分のものとして見れる大文字の他者である。かわりに、分析者は欲望することを具現化しようと、出来るだけ個人の好き嫌い、個人の理想や意見を被分析者に表さず、出来るだけ分析者の性格、望み、好みついて出来るだけ具体的情報与えないように努力しなくてはいけない。というのはこれらのすべてが同一化をを引き起こしうる温床となりうるからである。 分析家の理想や欲望に同一化することはアングロ・アメリカンの伝統に属す某分析家達によって神経症の解決として進められてきた。被分析者は分析者の強い自我をそれによって被分析者の弱い自我に支え棒をするモデルとして取り込むべきであるとされ、もし被分析者が成功裏にうまく同一化できたならば、分析が成功裏に終わるというものである。ラカンの精神分析では、分析家との同一化は罠であると考えられ、そうなると、被分析者はランガージュとしての大文字の他者と欲望としての大文字の他者の中でさらなる疎外に導かれることになる。被分析者の他の何かへの不断に得体の知れない欲望を維持するために、ラカン派の分析者は自分のものに習って被分析者の欲望を作ることではなく、むしろ被分析者の幻想の構造を改造することで、主体の欲望の原因、すなわち対象 a との関係を変えることを狙う。 この幻想を再構造化することは幾つかの異なった事項を含む。つまり、分析過程における新しい基本的幻想の構築(基本的幻想とは被分析者のいろいろな幻想の基礎をなし、大文字の他者の欲望と最も深く主体との関係を構築するものである。)をなす。第4章で与えられた分裂した主体のシェーマで、長方形の左下へのコーナーへの横断 そして基本的幻想の中でのそれによって主体が原因の場を引き受けることになる位置の乗り越えることで、別の言葉で言うと、大文字の他者の欲望 ー 外来性の、異質の欲望 ー があったところに、自身が主体として到来することで外傷的な原因を主体化する。(fig. 5.5)

                                                     ⤵                
                                                  $ ◇ a

                      幻想の横断とは、言語としての大文字の他者と欲望としての大文字の他者に関して、新しいポジションを引き受けることを意味する。その動きは分裂した主体として主体を事実存在させ、主体の原因となったものになるために、使われたり、存在させられたりする。それがあったところ、つまり大文字の他者の欲望に支配された大文字の他者のディスクールがあったところで、主体は「私は」と言えるのである。「私に起こった」「彼らが私にこれをした」「運命が私を待ち構えていた」ではなく、「私が」「私がした」「私が見た」「私が叫んだ」と。 このさらなる分離は疎外された主体が自分自身の原因になる、原因の場所で主体として存在するようになる一時的な逆説的な動きである。外来性の原因、つまりある人を世界に存在させる原因となった大文字の他者の欲望、は内面化され、ある程度までは、責任を背負わされ、引き受けられ(フランス語のassomption 受任、受諾 の意味で)、主体化され、その人自身のものにされる。

                      原注15) 分析は「私が大文字の他者の欲望のためにいた a の位置に主体としての自我を再位置づけすること」に関係しなければならない。Seminar Ⅻ , June 16 , 1965

                      外傷を子供が大文字の他者の欲望と出会うことと考えるならば、フロイトの症例の多くはこの見方を支持する(一例だけを引き合いに出すが、ハンス坊やの母親の欲望との外傷的な出会いを考えてみなさい)が、外傷は子供の原因、つまり子供が主体として出現する原因でありまた大文字の他者との関係で主体として採用する場所の原因として作用する。大文字の他者の欲望との出会いは快/苦痛、つまり享楽の外傷的経験を構成し、これはフロイトが sexual ueber , 性的過剰負荷と呼んだもので、その外傷体験に対しての防御として主体が存在するようになるのである。

                      原注 16) sexual ueber はセクシャリティの過剰と一般的に訳される。例えば、SE 1、p230 を参照。
                      子供の欲求を世話する他者との性的な出会いに対する子供の反応については7章を参照。

                      幻想の横断はそれによって主体が外傷を主体化する過程であり、外傷的な出来事を自身で引き受け、享楽に対する責任を受諾する過程なのである。

                      原因を主体化すること: 時間に関する難問

                      時間的に言うと、自分を外傷的原因に逆行させることは逆説的である。主体が認めるようになり、責任を負うようになるべき外傷の契機に主体の関与などがあったのか?ある意味ではあった。しかし、主体的関与は事後的にもたらされた。このような見方は必然的に正確に規則正しく結果が原因に伴って起こる古典的な論理の時系列とは矛盾する。それにもかかわらず分離はシニフィアンの働きに従い、それによって文の最初の単語の意味は最後の単語が聞かれあるいは読まれた後でだけ明らかにすることができる。そしてそれによってその意味は発話後に与えられる意味上の文脈によってのみ遡及的に構成されるので、その完全な意味は時間の経過による産物である。ちょうどプラトンの対話篇が、哲学入門の学生にまず最初の意味を持つようになり、深く勉強すると多くの意味を持つ等になるように、プラトンの饗宴はラカンがセミナー爾覇媛鬚靴動瞥茵他の何かを意味することがしめされてきたし、今後も何百年、何千年にわたり、解釈され、解釈されなおされることにより新たな意味を持ち続けることになるだろう。意味は直ちに創り出されるのではなく、事後的にだけ、つまり問題の出来事の後でのみ創り出されるのである。これらが精神分析過程や理論で働いている、古典的論理にとっては異端の、時間の論理なのである。 ラカンは現場で主体が年代順にいつ出現するかを決して正確に指摘しはしない。すなわち、主体は常に到着しようとしている ー 到着する寸前である ー のか、若干の後の瞬間までに、遅れずに到着してしまっているのである。ラカンは主体の時制の状態を示すのに、両意に取れるフランス語の未完了時制(動作が進行中であることを示す時に使われる動詞の時制:半過去)を用いる。彼は例として次の文章:Deux secondes plus tard, la bombe eclatait , を、この文章は「2秒後に爆弾は爆発した」と 「2秒後に爆弾は爆発したであろう(しかし爆発しなかった)」の両方を意味することができる。言外に含まれた「もし〜なら、そうなるであろうが、しかしそうならなかった」がある。つまり、「もし導火線が切られていなかったら2秒後に爆発したであろう」ということである。同じような曖昧さは次の英語の言い回しにも示唆される。” The bomb was to go off two seconds later.”「爆弾は2秒後に爆発するところだった」「爆弾は2秒後に爆発した」

                      参考)be は存在の意味が常に含まれ、「何かがどこかにある」を意味する。この「どこか」は「場所」だけではなく、「状態」でもあるので、be to do の形をとると、「連続的な未完の状態」として、「何かをこれからする状態にある」ことを示すこともできるし、「完結した状態」として示すこともできる。 ちなみに、be「ある」というのはハイデッガーが言う通り、本質存在(〜である)と事実存在(〜がある)の二つの意味がある。 主体に応用すると、フランス語の未完了時制、半過去は主体があらわれたか、否かについて曖昧なままにする。

                      原注17) 英語で同じ効果を得るには過去時制と不定詞の組み合わせが必要になる。(was + to do ) 主体の非常につかの間の事実存在は未定ないしは中断のままとなる。主体が存在したかどうかを実際に決定する方法はない。

                      ラカンは主体の時制の状態を議論するのに前未来(未来完了として知られる)をよく用いる。”By the time you get back, I will have already left “ という言明は未来のいつかに、正確にいつとは特定できないし、何かがすでに起こっているであろうということである。この文法的な時制は、フロイトの Nachtraeglichkeit 事後性、つまり遅延作用、遡求作用、事後においての作用に関係付けられる。すなわち、最初の出来事(E1)が起こるが、二番目の出来事 (E2)が起こるまで効果を生じない。遡求的にE1は例えば外傷として、形成される。言い換えれば、それはトラウマとしての意味を引き受けるのである。それは以前は決して意味されなかった何かを意味するようになる。その意味と効果が違ってしまったのである。(fig.5.6)


                                         ← 
                       E1 → E2           E1 → E2                   
                                      __________         
                              (signification)      T


                      By the time you get back. I will have already left. という言明では、私の出発は遡求的に事前のこととして決定されている。もしあなたが帰ってこなければ、そのような状況は起こらない。前と後を作り出すには二つの契機が必要である。最初の契機の意味はその後に来ることによって変わる。 同様に、最初のシニフィアンは、以下に示すように、二番目のシニフィアンが場面に登場するまで主体化の作用を作り出すのに十分ではない。(Fig.5.7)                       

                                              ←
                          S1 → S2            S1 → S2  
                                           ___
                                            
                                            $


                      主体はその道を通っていくのだが、時間あるいは空間の中で決して主体の位置を正確に示すことはできないということを二つのシニフィアンの関係が示している。 ラカンの論文「論理的時間と予期される確実性の断言」は、一連の明白な強制の中で非常に正確な状況での主体の出現を正確に指摘しようとして書かれている。

                      この論文の中で遂行されたある時間、つまり一暼の瞬間、理解のための時間と決断の時間はのちにラカンによって分析過程それ自体の時間的契機に関連付けられた。ちょうどこの論文で詳細に論じられた3人の囚人の問題が部外者には理解のための時間が確定しないのと同じように、分析で理解のために必要な時間は確定しない。言葉を変えると、それはもともと計算できないのである。しかし、分析の終わりと主人たちの決断の時間を結びつけること(セミナーXX)で、主体化の最後の時間が論理的な、そして/または 分析的な条件を都合よく組み合わせることで余儀なく生じさせうることを暗示している。 未来のある時点までの間になされるという形で永遠に宙吊りにされると思われるかもしれないが、それでもラカンはこのように論理的には特定の、しかし時間的には不確定な時間において原因の主体化(対象aを主体化すること)が行われる見通しを提供する。ある意味、疎外をこの可能性の始まりと考え、このさらなる分離を分析過程の終わりと徴づけるかもしれない。それでも、後から見るであろうが、分離はある状況で促進されうる、例えば、分析を中断、シラブルに切る時、つまり論理的であり、時間的である状況である。 幻覚の横断も当然のことながら大文字の他者の欲望を、シニフィアン化するのをを促進する、大文字の他者の欲望をシニフィアンに変えるという視点から明確に述べられている。このさらなる分離において対象a(大文字の他者の欲望)との関係で主体が新しい地位を見つける限りにおいて、大文字の他者の欲望は父性隠喩を作用を受けているので、単に名付けられただけではない。原因が主体化されると、大文字の他者の欲望は同時にシニフィアンの運動に完全にもたらされる。そしてセミナー困離魯爛譽奪箸離薀ンの議論で見られるように、そこでこそ、主体は最終的に大文字の他者の欲望のシニフィアン、S(barredA) にアクセスを得る。

                      言い換えると、大文字の他者の欲望は分離を通して単に名付けられただけだったが、その名前は固定され、静的で、その変わらない効果によってモノのようであり、その呼称の限定された力においては厳格である。 神経症においては、その名前は普通は大文字の他者の欲望から十分に分離されている。その名前はモノの死ではないーシニフィアンがモノの死である。大文字の他者の欲望と父の名(の一つ)間の硬直した結合が続く限り、主体は行動することができない。ラカンによれば、ハムレットはシェイクスピアの劇の最後に決闘する前にはファルス的シニフィアンにアクセスできない。これがなぜ彼がいかなる行動も取れないのかの理由である。決闘の間だけ彼は王の背後のファルスを確信することができ、王はファルスの代役に過ぎない(ファルスは欲望のすなわち大文字の他者の欲望のシニフィアンである)と悟ることができ、戸惑いなく王を倒すことができたのである。ハムレットが最後に王とファルスを分離できるまで(王が何でもないとわかるまで)は王に復讐するとハムレットの全世界が崩壊することになると恐れて、行動は不可能だった。王(女王の欲望の対象)がシニフィアン化されるのは、権力は王を超えている、つまり正統性や権威は王だけに具現化されているのではなく、王を超えた、王の上にある象徴的秩序にあるのだとわかることができた時のみである。 大文字の他者の欲望の名前は、母親のパートナーから、教師へ、学校へ、警察官へ、民法へ、宗教へ、道徳律へ等々へと変化しなければならないし、主体化が起きる、つまり、主体が大文字の他者の欲望になるのなら、大文字の他者の欲望の名前は大文字の他者の欲望のシニフィアンに道を譲ることになる。この意味で幻想を横断することは言語それ自体からの分離を必要とする。すでに原因と化しているであろう主体が自身のディスクール( a social bond ,founded in language ) から、自身の大文字の他者の欲望との問題、つまり、大文字の他者に見つけた欠如を扱うことができないとか、大文字の他者に対して適切な距離を取ることや適切な関係を持つことができないなどでうまくいかないことについて、分離していることを必要とするのである。 神経症はディスクールの中に保持されるが、幻想を横断することというラカンの考えに、ある種の神経症の彼岸が示唆されているのがわかる。

                      原注21) もちろん、ここで分離として、そしてさらなる分離として述べていることは、疎外と分離をラカンが1964年に明確に表現した点に位置させている。神経症者はさらなる分離を必要としている、すなわち幻想の横断を必要としていると言うよりはむしろラカンは50年代の終わりと60年代のはじめに、神経症者は大文字の他者の欠如(すなわち、大文字の他者の欲望)を大文字の他者の要求と取り違えていると言う。大文字の他者の要求は神経症者の幻想の対象である。(エクリ、p321)神経症者の幻想において、つまり$◇a の代わりに $◇Dにおいて、主体は自分のパートナーとして大文字の他者の欲望の代わりに大文字の他者の要求を採用している、つまり、前者は基本的に「動き」であり、常に何か他のものを探し求めているが、後者は静的で、変化せず、同じもの(愛)の周りを回り続けるものである。それは本質的に主体は第3項に完全にはアクセスしてこなかった、つまり母ー子の双数関係の外部の点に完全にはアクセスしてこなかったことを意味している。それなら、分離は大文字の他者の要求(D)が神経症者の幻想の中で大文字の他者の欲望(対象a ) に取って代わる過程として理解されるだろう。神経症の主体は自身の不完全な幻想($◇D) の中である意味、もう本質存在しているのかもしれないが、分離を経験すれば、より大きな度合いの主体性を獲得するであろう。

                      神経症の彼岸では、(原因として、欲望するものとして)行動ができ、少なくとも瞬間的にはディスクールの外に つまりディスクールから抜け落ちる。すなわち、大文字の他者の重荷から自由になる。これはラカンが初期の論文(精神分析の攻撃性:エクリ)で述べた精神病者の自由ではない。それは文字(獲得)以前の自由ではなく、文字(獲得)以後の自由である。

                      分析設定での疎外、分離、そして幻想の横断

                      しばしの間、被分析者、分析者の寝椅子に落ち着いて座っていて、昨夜の自分の夢について語り、自分のディスクールで部屋を満たし、それが分析家にとって興味深い、満足するものであることを望んでいて、従って幻想モード($◇a) にある, そんな被分析者を想像するならば、その人は分析者が(ある意味ディスクールが宛先とする知の大文字の他者によってではなく)述べた一言によって突然語りを中断されてしまう。その一言は被分析者が慌てて誤魔化したり、自身にとっても、分析者にとっても重要でも興味深いものでもないと考えたりするかもしれない。被分析者はしばしば転移性恋愛のために、分析家が自分たちに言って欲しいこと、分析家が聞きたいことを言いたいと望んで自分たちのディスクールを合わせる。そしてこのような中断、咳、ブツブツ言うこと、一言、セッションの終結などが起こるまで、被分析者は自分たちの目的を達成していると信じ続けることができる。このような中断はしばしば被分析者を揺さぶり、分析家が欲していることや言わんとしていることを知らないことに突如として気づかせ、分析家は被分析者のディスクールに被分析者が意図した以外の何かを探していて、それから何か他のものそれ以上のものを探していることに気づかせる。 その意味において、被分析者のディスクールに句読点を打つとか、それを区切るというラカン的な実践は日分析者をそこから引き離し、分析者の欲望という謎に被分析者を直面させる。

                      原注22) scansionの動詞型として造語scandingを使いたい。と言うのは、一般に受け入れられた動詞型であるscanningはずいぶん異なった含意があり、ここでかなりの混乱を引き起こすかもしれないからである。つまり、ざっと調べる、速やかにリストに目を通す、スキャナーで身体の超薄写真をとる、テクストやイメージをデジタル形式でコンピューターに送るなどである。前に述べた全ては、何者かを(通常は被分析者のディスクールあるいは分析のセッション)切断する、句読点を打つ、中断するというラカンの考えとははっきり区別すべきである。

                      欲望が謎のままである限り、被分析者が正確にそれがどこにあるかを信じているところには決して存在せず、そして被分析者はその欲望を言いあてようとかなりの努力を払うのだが、被分析者の幻想は分析の場で繰り返し揺り動かされる。

                      原注23) 精神分析の四基本概念 17,18章を参考のこと。

                      大文字の他者の欲望は、対象aの身なりで、被分析者がそこにある、あるいは幻想の中でそこにあって欲しいというその通りの場所には決してない。分析者は、見せかけの、あるいは空想の世界の対象aとしての役割つまり、対象aの代役ないし見せかけとして役割を担い、$とa のさらなる隙間をもたらし、幻想化された関係、◇を途絶させる。分析者はその関係を支えきれないものにし、そこに変化を引き起こす。 疎外と分離はいつでも分析状況に影響を与えるので、被分析者は筋の通った話をしようとするので、自身を疎外することになる、つまり、分析家が意味を取れるであろう話し方をすることで自身を疎外するのである。ここでは、分析家は被分析者によって全ての意味を司る場として、すなわち、全ての話されたことの意味をを知る大文字の他者として受け取られている。意味がわかるように話そうとする中で、被分析者は自分の言葉の陰に立ち去るか、消えてしまう。まさに言語の性質ゆえに、それらの言葉は被分析者が意識的に選んで言おうとしたことより、常に余計にあるいは不足に話してしまうことを避けられない。意味はいつも疑わしいものであり、複数の価値を持ち、隠しておきたい何かをうっかり表し、話したい何かを隠してしまう。 意味がわかるようにしようとすると被分析者は意味としての大文字の他者の領域に置かれることになる。つまり、被分析者の「本当の意味」は大文字の他者(両親、分析者、神であろうとも)による場合だけ決定され、判断されうるので、被分析者はディスクールの向こうに消え去るのである。この種の疎外は避けられず、(マルクス主義者や批判的な理論家による疎外の理解とは異なり)ラカン的分析では、ダメだと決め付けることはない。 しかしながら、分析家はこの種の疎外を漠然と助長することを禁じられている。神経症者との分析において分析者は大文字の他者と被分析者の関係に焦点を当てようとし、自分に似た小文字の他者と被分析者の想像的関係に由来する「妨害 interference」をその過程の中で取り除くのだが、それは分析過程の終りではなく、そのまま終わりにするなら、被分析者が分析者を大文字の他者と同一化するアメリカの自我心理学のある種の解決を招くことになるだろう。

                      ラカン的分析者が用いるディスクールは根本的に被分析者の用いるディスクールとは異なる。それは分離のディスクールである。分析家が被分析者の意味の方向に沿った何かを提供するとしても、それでも分析者は「分析家がー被分析者のーディスクールのー意味をー提供する」という行列を、曖昧に、一度にいくつかのレベルで、多くの異なった方向に導く用語を用いて話すことで、打破することができる何かに狙いを定めているのである。果てしない全容とまではいかなくても、経時的な意味を暗示することで、意味の領域それ自体が問題化される。被分析者は分析者の不可解な話の、分析家の多くの意味を持つ言葉の意味、分析家がまさにその瞬間にセッションを終わらせた理由を推測しようとするので、被分析者は意味から分離され、分析家の欲望の謎に直面する。その謎は大文字の他者の欲望と関係した被分析者の深く根ざした幻想に影響を与える。自由連想法の基本的な取り決めは被分析者に、大文字の他者の欲望との関係をこれまでよりさらに明晰に、言葉にし、象徴化し、シニフィアン化することを要求するが、分析家の行為は主体を大文字の他者の欲望について作り出すことを要求された、まさにそのディスクールからより一層分離させる。

                      人は特定の運命の主体である、人が選んだわけではない運命、初めからでたらめで偶然のように思われるかもしれないが、人はそれでも運命を主体化しなくてはならない。フロイトの見方では、人は運命の主体にならなくてはいけない。ある意味、原抑圧は人の世界の始まりのサイコロの一振りであり、分裂を創り出し、構造を始動させる。個人はそのでたらめな一振りに真剣に取り組まなくてはならない、その一振りとは親の欲望の独特の形態である。そして、なんとかしてその主体にならなくてはいけない。Wo Es war,soll Ich werden は、私は外部の力、それは言語としての大文字の他者であり、欲望としての大文字の他者であるが、それがかって支配していた所に至らねばならない ということである。私はその他者性を主体化しなくてはならないのである。 ラカン的主体は倫理的に動機付けられているというのはこの理由からであり、ラカンの著作で度々繰り返されるのがこのフロイトの命令に基づくものだからである。フロイトの命令はもともと逆説的なものであり、私を原因に置く、戻すように命じ、自分自身の原因になるように命じているのである。しかし、逆説を退けるのではなく、そこに含まれる運動を理論化して、それを導くための技法を見つける。私はすでに無意識にあるのではない。そこにあると推測された所どこでもいるように思われるかもしれないが、現れるようにしなくてはいけないのである。ある意味、いつもすでにそこにいるかもしれないが本質的な臨床の仕事は、私をそれがあった所に現れるようにさせることなのである。

                      | 1.サイコセラピー | 05:49 | - | - | - | - |