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青葉心理クリニック

倒錯について 12
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    今回もFinkのLacanian psychoanalysisの訳である。これで倒錯の総論が終わり、次回から各論に入っていく予定である。

     

    享楽から分離へ

     

    倒錯を論じるときにフロイトはほとんど常に主体が法を拒絶することを強調していた。主体が満足を諦めることを頑強に拒否することである。ある意味でフロイトはこのように倒錯をもっぱら倒錯者が得られ続けている満足という視点から考えているのである。

     

    注40) フェチシズムの利点についてのフロイトの注解を考えてみること。「フェティシュが成し遂げること、そしてそれを維持するものが何かが今やはっきりできる。それは去勢の脅威に対する勝利の印であり、去勢に対する防衛である。それはまた性的な対象として女性を耐えられるものにする特徴を女性に授けることで、フェティストが同性愛者になることを防いでいる。後年になり、フェティストは彼の性器の代用物から、なお他の利点を享楽していることを感じるのである。フェティシュの意味は他の人には知られないので、フェティシュは自制する必要がない。簡単に利用できるし、それに伴う性的な満足を容易に得ることができる。他の男たちが得ようと努め、そのために努力しなくてはいけないことをフェティストは楽々と手に入れることができるのである。

     

    ラカンはより古典的なフロイトの手法として的確だと認められるであろうやり方で倒錯を考察している。つまり、あらゆる他の活動と同様に、倒錯はそれがもたらす(間接的であろうが、直感的でなかろうが、)満足の視点から考慮されるべきであると同様に、法と分離の関係において倒錯がはたす機能の点からも考慮されるべきである。神経症の症候が何らかの代理の満足を患者に提供するだけではなく、「不安を拘束するために」も形成されるのと同じように、倒錯者の活動はも直接的な性的満足を得るだけの単純な目的で行われるのではない。

     

    注41) 明らかに、不安を拘束することは満足の視点からも理解される。快原則から要求される通り、不安を拘束することは緊張のレベルを下げるからである。それと同様に倒錯者が分離を制定することは、これから見るように、満足の視点からも理解される。 ほとんどの神経症者は、倒錯者が自分たちが人生で得られるよりもはるかに多くの満足を得ているに違いないと思っているし、実際多くの分析者も同じ罠に落ちている。そう思うことは、倒錯者の明白な「享楽への意志」(ラカンがそう呼んだように)が何によってそう仕向けられたのか、何に奉仕しているのか、何を隠しているのかを理解するのを止めてしまう。 フロイトが、存在してきたとよく仮定してきたと思われる父親、つまり、母親から息子を分離させるのになんの保留もしない父親(倒錯者はこのことが起こるのを頑として拒否する息子である)から、、権威を持って自身の問題を解決しようとしない、父親が子供に権力を振るうべきだと信じていない、子供は理性的な生き物で大人の説明が理解できると信じ、子供を妻に任せっきりにすることを好み、怖がられるのではなく愛されることを欲し、(おそらくその上)妻に自分の権威を切り下げることを許している平々凡々とした現代の父親に目を写してみると、むしろ異なった視点から倒錯者を理解しることができる。

     

    注42)「母の欲望」(母親の子供に対する欲望、あるいは子供の母親に対する欲望)が事実であるとすると、大概の場合その責任は母子関係の三者関係化と分離をもたらす父親に降りかかる。

     

    Perversion and the Law

     

    倒錯と法 ラカンの倒錯についての逆説的な主張の一つが、倒錯はなんでもありの、享楽を求める行動として現れることがあるのにもかかわらず、法を存在させようとするはっきりしない目的があるということである。つまり、大文字の他者を法(あるいは法を与える大文字の他者)としようとするのである。例えば、マゾヒストの目標は(多くはパートナーに不安を生じさせることによって)パートナーあるいは目撃者に法を宣言し、おそらく判決を告げるところまで連れて行くことである。倒錯者はある種の「始原的満足」ー ランガージュの主体としての彼自身の主体的な分割を超えること、を得られるように思われる(残りの我々のように、話す存在には、享楽のわずかのかけら以上のものを得ることさえできないと思われる。つまり、ラカンが「享楽は話す人誰にも禁じられている。」と言う通りである。)そして、倒錯者は神経症者が夢見るか、幻想するかしかできない、ある種の全体性、完全性を見つけているように思われるが、実際には不安が倒錯者のセクシャリティを支配しているのである。倒錯者の意識的な幻想はある種の終わりのない享楽だと思われるかもしれないが(マルキ・ド・サドの数多くのシナリオで、男性の性的器官は性的活動を再び始めるにあたりなんの制限もないのを考えてみなさい。)しかし、意識的な幻想と具体的な行動を混同してはいけない。具体的な行動は享楽に限界を置くように仕組まれているのだ。

     

    注43)ある人の実際の行動は、特に分析の初めにその人が気付いている幻想よりも、その人の基本的幻想をはるかによく表すことが多い。

     

    欲望は常に防御であり、享楽のある限界を超えて行くことに対する防御であり、それは倒錯者の欲望であれ例外ではない。例えば、マゾヒストは、幻想において、全てを大文字の他者のためにして、自分自身のためには何もしない。「大文字の他者を私に夢中にさせよう、大文字の他者がいいと思うように私を使いなさい」とマゾヒストは言っているようだ。しかし、この幻想を超えて、マゾヒストの狙いは少し違っている。と言うのはこの明白な利他主義つまり、「私には何もいらない、全ては大文字の他者に」というのを超えて、そこにはマゾヒストのためのものがある。防御としての欲望は倒錯者の基本的な幻想に現れるが、それは法に関して倒錯者の位置を示す。

     

    神経症者は法に関連して欲望する。つまり、神経症者の父親は子供はその母親を所有できないと言い、従って子供は無意識に母親を欲望する。一方、倒錯者は法の作用として欲望するのではない、つまり、禁止されているものを欲望するのではない。代わりに、倒錯者は法を存在させるようにしなくてはならない。ラカンはフランス語のperversionをもじって、pere-versionと綴り、父を要求し、父に訴え、父に父の機能を履行することを望んでいると言うことの意味を強調している。

    | 1.サイコセラピー | 11:44 | - | - | - | - |
    倒錯について 11
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      今回も、Bruce Fink の 「A clinical introduction to Lacanian Psychoanalysis」の第9章の訳出である。例によって、シェーマをブログに出せないので、Fig.8.3と Fig.9.1 は原書から拾っていただくしかないが、今回の、Being abd Having, Alienation and Separation を理解していただけば、「倒錯者の位置」ないし、「倒錯者の原理」は、いわゆる倫理道徳的な理解を離れ、Pshycosexual development の一段階への固着に過ぎないことが理解されると思う。

       

      Being and Having , Alienation and Separation (「〜であること」と「〜を持つこと」、疎外と分離)

       

      倒錯のすべての問題は子供が、その母との関係において、つまり、生物学的な(生命の維持に必要な)依存によってではなく、母への愛、すなわち母の欲望への子供の欲望によって分析の中で構成される関係の中で、母の想像的な対象とどのように同一化するのかということである。                    ーLacan, Ecrits,554/197-198

      (この文章は、Finkの他の著作でも何度も引用されている。)

       

      フロイトが我々に示すのは、父の名のおかげで人は母親の性的なサービスに束縛されたままにならないですむということである。                    ーLacan , Ecrits, 852; Reading Seminars and

       

      倒錯に関する私の本質的なテーゼを記載するための一つの方法は「倒錯者は疎外を、別の言葉で言えば、原抑圧、意識と無意識の分裂、真に来るべき言語における主体になるべく用意する父の名を受け入れるないしは認めることを(精神病者とは違って)経験してきたが、分離は経験してこなかった」と言うことである。

       

      注33)この本でのラカンの用語である疎外と分離についての私のコメントは全く基本的でしかないので、詳しくは、The Lacanian Subject の5、6章を参照のこと。ここで注意すべきは、主体は疎外を通して言語の中に存在するようになるが、主体は単なるプレースホルダーとして、すなわち欠如として存在するようになるということである。本質存在という方向で何かを与えるのが分離である。 (「倒錯を理解するために」としてこの前のブログで訳出したFink のThe Lacanian Subject 5章を参照してほしい。)

       

      ここで、倒錯者の疎外をどう特徴付けられるだろうか? ラカンが言うように、我々は大文字の他者の欲望の部分対象としてこの世界に現れる( Ecrits, 582/225)、大文字の他者の欲望の対象となること、大文字の他者の欲望を勝ち得ることを望みながら、そして倒錯者には、彼の父親の欲望は全く言明されていないかのように思われ、母親が自分自身でその想像的対象をファルスとして象徴化する限りにおいて、倒錯者の母親の欲望の想像的対象に同一化する。(Ecrits, 554/198)

      表現を変えると、母の欲望の想像的な対象はここではファルスであり、そのファルスは置き換えができるシンボルではなく、仮定的に言えば、母親が欲望するであろう、すべての地位を表す装いや、すべての社会的価値を設定する対象や、社会的に受け入れられた「真の男」、かってのファルスの所有者に似ている夫(あるいはボーイフレンドなど)という意味としてのファルスではなく、象徴化されない、代替え不可能な、置き換え不可能な対象としてのファルスであり、そして子供はそのファルスになろうとするのである。子供は母親の小さな宝物、フロイトならそう言ったであろう、母親の小さなペニスの代わりになろうとし、父親は多くは介入しようとしない(多分一人で居たいから)か、彼の介入の目論見は無効であるかなのである。

      8章で導入した図を用いると、倒錯者の位置をFig.9.1のように示すことができる。この図を神経症者のそれと比較すると、倒錯者の主体の位置は大文字の他者を超えたところや、外部を必要としないことがわかる。その代わりとして、主体として、倒錯者は対象の役目を果たす。つまり、大文字の母親の空虚を埋める対象である。図式的に言うと、大文字の他者における最初の分割は倒錯者には起こっている。つまり、大文字の他者は完全ではなく、倒錯主体の大文字の母親は何かが欠けていて、何かを求めている。「私は何か?」と言う質問に対する倒錯者の答えは、「私はそれだ」それとは母が欠いている何かである。倒錯者にとって、このように、存在の永続した問いはない。つまり、倒錯者の存在の理由に関して永続した問いはないのだ。

      男の子を母親から分離させるなら、男の子にファルスであることを辞めさせ、ファルスを持てるようにする必要があるだろう。つまり、(父親の父の認知や評価、社会的、象徴的活動の場を通して)象徴的なものを得るために想像的ファルスであることを辞めさせる必要があるだろう。男の子が母親にとってのファルスであれば、決して象徴的な位置を取れないだろう、その位置は象徴的去勢に伴うのである。母親が誇れる何者かになるよりむしろ、男の子は母親に愛情を持って抱きしめられ、撫でられ、多分性的な絶頂にさえ達するであろう何者かのままでいる。彼は世の中で有名になることができない、と言うのは彼が望みうるのは象徴的な達成ではないからである。

       

      注34)ここでは父親がファリックなシニフィアンを提供できていない、例えば、ハンスの想像的ファルス(この少年の夢の一つの中で、風呂桶のコック、彼のペニスのシンボル、が水道屋によって取り替えられる)のネジを緩めて外し、象徴的なファルスに取り替えることがでできない。

       

      彼は彼の母親の最高の目的として仕えるという水準に固着したままになる。

       

      原抑圧は主体が存在するのを可能にするが、それから子供は「僕は誰なの?」「両親にとって僕は何なの?」と問われるままになる。倒錯者は自身を大文字の母親に欠けているのものとして構成し、自身を母の欲望の対象とする、つまり自身を母親の対象aとするのである。彼は母親が無くしたもの(彼女のペニス/ファルス)そして彼女が欲するものに成る。子供は自身で母親の欠如を埋める。大文字の他者の欲望/欠如は、5章で詳細に説明してきた通り、名付けられない限り、不安を作り出し、この不安に対する倒錯者の解決は大文字の他者に享楽あるいは(たとえ一時的でも)欲望を消し去るある種の満足を提供することで母親の欲望を塞ぐものに成ることである。

       

      注35) 症候のように主体の位置は基本的には問題への解決策である。ここで注意して欲しいのは、Fig 9.1で示した倒錯者の解決策は、Fig.8.3のヒステリー者の解決策とある類似性を持つことである(倒錯者では主体の側が全く失われているが。)しかしながら、倒錯者とヒステリー者の(解決策の)間には、その使用域の重要な違いがある。つまり、ヒステリー者は大文字の他者の欲望(これは象徴的なものである)を引き起こす対象になろうとするのに対して、倒錯者は大文字の他者の享楽(これは現実的なものである)を引き起こす対象になる、すなわち、大文字の他者がそれによって満足を得る対象になるのである。第8章で見たように、ヒステリー者はそれによって大文字の他者が満足を得られる現実的な、身体的な、対象になることを拒否するのである。

       

      倒錯者との分析をするのがなぜそんなにも困難であるかの訳をこれが説明している。すなわち、倒錯者は分析者の欲望を満たす(塞ぐ)ことができる対象の役を演じることを期待して、対象aの役を自分自身に割り当てる。倒錯者が欲望の原因の位置を占めようと一生懸命な場合、倒錯者の分析主体(被分析者)の欲望の原因になるというやり方で転移を巧みに処理するのを強いるのは分析者には困難であろう。倒錯者は分析者を自分自身の沈思の原因とするよりむしろ、分析家の不安や欲望の原因として務めるだろう。このように純粋に倒錯者と分析をするのは極めて難しく、無意識の形成物によって、分析家が倒錯者に強調したものによって、倒錯者に興味をそそらせ、彼らの欲望を動かすのは難しい。ラカンが言うように、対象aが大文字の他者、ここでは分析家としての大文字の他者の中に、転移が可能可能になるように、主体によって位置づけられなくてはいけない。(Seminar 勝July 3,1963)

       

      注36) 分析家は分析主体(被分析者)の問い、あるいは満足の欠如の場所を占める。(その人の存在の理由であろうと、その人に性的満足を与えるものについての混乱であろうと)問い、あるいは欠如がないと、分析家は自分の務めを果たすことができない。ジャック・アラン・ミエールが言うように、知っていると仮定される主体が生じるためには性的享楽の場に何らかの空虚や欠落が必要なのである。

       

      しかし、倒錯者の位置をより厳密に明確に表現するためには、倒錯者は大文字の母親の欲望よりもむしろ大文字の母親の要求を扱っていることが強調されなくてはならない。子供の大文字の母親が「持つ」欲望/欠如が名付けられない、つまり口に出されない限り、子供は母親の要求にのみ直面させられる。厳密に言うと、欠如は象徴的体系の外部には存在しないので、子供は母親の欠如すなわち欲望に直面させられることすらないとも言える。ラカンが繰り返し用いる何が欠如を構成するかの説明は、図書館の本棚にない本の例である。知覚の見方からは、我々はそこにあるものだけ、、現存するものだけを見るので、そこにないものは見えないのだから、その本がない(ないことは見れないのだから)とは言えないことになる。その巻がその場所にないとか、なくなっているとか言えるのは(一巻と三巻がそこにあれば、その間に空間はないわけだから)例えば、デユーイの十進法の体系や、議会図書館の書籍分類体系のような象徴的な方眼が本の記号や名前を提供できるからでしかない。ある空間や場所を割り当てたり、規定したりするシニフィアンの体系がなければ、何ものもなくなっていると考えることはできない。言語がなければ、すなわち、象徴的な秩序がなければ、何ものかが欠けていると考えることはできない。

       

      このことが意味するのは、我々は、その母親が何かの点で欠けていると言われるまで、その母親を欠如として語ることさえできないのである。つまり、母親が自分で何かあるいは誰かへの切望、何かあるいは自身の子供へではない欲望を言葉にするまで、あるいは誰か(典型的にはその父親)が母親の欲望(例えば、母親は何々をうらやましく思っているとか、毛皮のコートを欲しがっている、昇進したい、父親にはああではなく、こう振舞って欲しい)あるいは母親の足りないところについて言明するまで。子供は、母親の欲望すなわち欠如が明確に述べられ、口に出されるまで自分の母親が欠けている、欲望していると理解しているとは言えない。一度それが名付けられるや、母親の要求の重み(例えば子供の身体的機能に関する現実的な、物理的に避けられない要求)が解除され、欲望の空間が利用可能になる、その空間では母親の欲望が明確に述べられ、動き、そこで子供は母親の欲望を自分の欲望のモデルとすることができる。

       

      「それ」が名付けられるまで、欠如はない。子供は要求としての大文字の母親に覆い隠され、自分自身の立場を適合させられない(欲望というものが享楽に関して立場を決め、享楽に対する防衛となる)

       

      注37) ここでは、最初のリビドー的な対象(すなわち、子供に享楽を与える対象)はその母親である。

       

      ここで子供は「欠如の欠如」と言えるものに直面しているのである。大文字の母親の要求だけが存在し、彼女は語るべき何ものも欠けていない、子供にとって象徴化できる何ものもない。

       

      注38) ラカンは「欠如の欠如」をやや異なった文脈で取り上げている。母親がいない、子供と共にいない時に子供は不安になると最も普通に信じられているが、ラカンはその反対に、不安は実際には、大文字の母親が常にいる時に「欠如の欠如」によって生じると言っている。 「何が不安を引き起こすのか? 言われているのとは違い、母親がいるーいないのリズムでも交代でもない。何が不安を引き起こすのかを証明するのは子供が「いるーいない」のゲームを繰り返すことで欲望を満たすことである。在の安心は、不在の可能性に基づくのです。子供にとって最も不安を作り出すのはそれを通して彼が存在するようになる関係、それは子供に欲望させる欠如を基盤としており、それが最もかき乱された時である。つまり、欠如の可能性がない時、母親が常に子供の後ろにいる時である」( Seminar 勝12月5日、1962) 倒錯者の場合にこれが示すのは、母子関係が過度に密接であるならば、母親が「所有している」子供を超えて何も欲望することはないと思われ、母親が欠けていると受け取られないだけではなく、子供自身が自分自身の生活になんの欠如も感じないし、このようであれば欲望することができない、厳密にいうと欲望する主体として存在することができない。ラカンが語る欲望は、欠如を覆うものであると同時に、不安に対する治療でもある。

       

      しかし、一度名付けられると、現実の欠如(母親の生活での欠如、例えば、旦那に、自分の職歴、自分の一生に満足できない、ー 語られることはないけれど息子を通してうまくやろうとしてきたもの)はある程度無効にされる。ラカンが言う通り、言葉は「もの」の死因である。「もの」(現実的欠如)は、一度名付けられると、言葉として存在するようになり、他の言葉と結バレ売るようになり、冗談などにされうる。言葉は、それが意味し、示す「もの」よりははるかに危険が少ない。と言うのは、言葉は「もの」を全滅dさせ、その圧倒的な力のいくばくかを流し去るからである。

       

      大文字の母親が無くしたものが名付けられると、子供が母のためにそうであったその対象はもはや存在できない。欲望がはっきり言葉で表現されたので、じっとしていられなくなり、あるものから次のものへと換喩的に転々とし、置き換わるからである。欲望はランガージュの産物であり、対象で満足させることはできない。大文字の母の欲望を名付けることは子供を対象としての子供の位置から追い出させるし、母の欲望へのつかまえどころのない鍵の追及に子供を駆り立てる。母は何を欲するのか?母親の欲望が出くわす、終わりのない物事の連続を特徴付けると思われる、言いようのない何かは、西洋社会ではファルスとして知られるものである。母親を完全にするために現実の対象(現実の臓器)は必要とされず、子供は母親の欲望が示すもの、欲望できるものとして、ファルストして暗示するものを所有することを求めるように進むことができる。 大文字の母の欠如は子供が資格充分の主体になるために名付けられるあるいは象徴化されなくてはならない。倒錯においては、これが起こらない。思考のレベルでこの欠如が存在するようにできる、その現実の重みを軽くするいかなるシニフィアンも提供されない。母親の父親も象徴化に必要な分節化を与えない。フロイトの著作に見るように、倒錯においては大文字の母おい屋の欠如の疑問は大文字の母親の性器の周り、母親の息子との性差に集中することが多い。この章の終わりで、母親の性器を中心題目とした症例で、むしろ抽象的な用語で議論された、命名(すなわち名付け)の重要性の詳細な説明を見るであろう。

       

      7章1において、父性隠喩には二つの契機があることを示した。大文字の母親の欲望/欠如の名付けは二番目の(論理的)契機である。父性隠喩の第一番目の契機は母親との子供の満足を与える接触の禁止(享楽の禁止)で、父の名は父の「否」の形をとる。

       

                        父の「否」

                    ---------------------------------------

                     享楽としての大文字の母親

       

      二番目の契機は大文字の母親の欠如の象徴化を意味する、すなわち名前(ここでは父親によって与えられる名前としての「父の名」あるいは、大文字の母親の欲望の名前としての父親自身)を与えられるという事実による欠如の構成である。

       

        

                                                                    父の名              

                                                   ------------------------------------------

                        欲望としての大文字の母親

       

       

      この二つの置き換えの契機は上記のようにシェーマとして表される。

       

      二番目の契機だけが純粋に換喩的と考えられる、というのは言語が名付けによって資格を有するやり方で行為するのは二番目の場合だけだからだ。この二つの契機はFig.9.1で与えられた二つのシェーマに正確に対応する。一番目の契機は大文字の母親の中での分割を招くのに対して、子供は大文字の他者が満足を得る対象として存在するようになる。一方、二番目の契機は(享楽の源としての大文字の他者から分離して)欲望する主体の出現させる。一番目の契機はラカンが疎外と呼ぶものに相当し、二番目は分離に相当する。一番目はフロイトが原抑圧と呼んだものに、二番目は二次抑圧と呼んだものに有効に関連付けるであろう。 初めに言ったように、ここでの私の本質的なテーゼは、倒錯者は疎外を経験しているが分離を経験していないというものである。精神病者はどちらも経験していないのに対して、神経症者は両者を経験している。図式的には以下のようになる。

       

       

      以下の部分は、原著の179pを参照のこと。

             疎外                         分離

       

                                                                              

                                 父の「否」                                                      父の名

      精神病者 ------------------------------------------------  倒錯者  ---------------------------------------------  神経症者

                           享楽としての大文字の母親             欲望としての大文字の母親 

       

       

             原抑圧                        二次抑圧

             享楽の禁止                      欠如の名付け

       

                               φ                        Φ

                               要求                       欲望

       

       

       

       

       

       

      精神病者が父の禁止の不在、不全によると理解できるならば、倒錯者は象徴化の不在ないし不全によると理解できる。 注39) 倒錯には、後ろ向きと前向きの仕草の両者があると思われる。前者は大文字の他者に満足を与える試みを意味し、後者は、下記のように、父の名付けの行為を支えるないしは補おうとする。神経症においても、同じような後ろ向き、前向きの仕草がある。前者は大文字の他者が欲望するものになろうとすることを意味し、強迫では、大文字の他者の欲望のシニフィアンΦを完全に体現させようとするし、ヒステリーでは大文字の他者の欲望の原因(a)を完全に体現しようとする。後者は大文字の他者の欲望への固着を振り払う試みを意味するが、これが分析主体(被分析者)の進路である。                       

      | 1.サイコセラピー | 07:50 | - | - | - | - |
      倒錯を理解するために
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        倒錯を理解するために

        倒錯についていくつかの文献を読んできたが、例えば、Stephanie S. Swales の Perversion でも初めの方にラカン理論の説明が約30pにぐらい書かれていて、この説明はラカン理論の概説として優れたものであるが、こういう概説を置かないでいきなり倒錯について語るのは木を見て森を見ないことになると思う。その意味で、ここにFinkの著作The Lacanian Subject 5章から、疎外と分離について引用する。なるべく原文を尊重したが、パラグラフしたところがあることをご承知おき願いたい。また、ラカンのマテームヤシェーマにはブログではそのまま再現できないものもあるので、原文を参考にしていただく必要があるかもしれない。

        主体性

        主体性とは「疎外」と「分離」の結果である。

        疎外

        まず、「疎外」は、「子供は、言語と言う大文字の他者に、服従することで、自分をシニフィアンに代理させることができる。」と表現され、このことは以下の式で表される。

                  言語(大文字の他者)     
                ―――――――――――-
                  子供

        子供はこの操作により、分割された主体として(象徴界にその場を占めることができるようになる。つまり事実存在として)存在するようになる。      

            S シニフィアン(に代理された子供)   
          ―――――――――――――――――-――――-      
            $(分割された主体としての子供)

        疎外を(velという形式で)選択した子供は、言語に服従すること、自分の欲求need を言語という(本質的に)歪曲する媒体を通して表現することに同意すること、自分自身を言葉によって表象されるようにすること(シニフィアンになること)を選択したことになる。 ここでこの過程を俯瞰すると、 人間は本能が壊れた動物であり、本能があれば、子供を持つ動機は本能により決定される単一のもの(種の保存)になるが、それが壊れているために、人間の親が子供を持つ動機は複雑であり、その複雑な動機が子供の誕生以降も子供に作用し続け、子供が主体として象徴界にその場を獲得するようになる、つまり言語のうちに主体として到来する原因となる。この過程は、言語から見た疎外ではなく、欲望から見た疎外を表す。 このように、「疎外」とは、主体の誕生に先立ち、大文字の他者の欲望を原因として引き起こされたのである。 言語と欲望は、疎外という同じ織物の縦糸と横糸であり、言語は欲望に支配され、欲望は言語なしでは想像すらできないし、まさに言語という素材から作られている。 疎外は主体性に同意するのに必要な最初のステップであるが、このステップは自分自身の消失を意味する。 ということになる。

        ラカンの「存在欠如としての主体」の概念

        主体は何者かとして、つまり特定の存在(本質存在)として生じることができない。主体は言語が主体を無から生じさせる限りにおいて事実存在し、そして語られ、話され、現表されうるが、それでも本質存在はしないままである。(主体は決して存在するものではなく、主体として現出するのだ。これはハイデッガーの「道標」での主張に沿った考え方である。)疎外の開始の前には本質存在のいかなる問いもない。「はじめにいないのが主体自身である」疎外の後は主体の存在は全く潜在的である。疎外は主体の純粋な存在可能性を生じさせ、その可能性とは、主体を見つけることを期待できるであろう場所のことであるが、それでも空っぽのままである。疎外は、ある意味、未だかってどんな主体もいたことのない場所を生み出す。それは何かを著しく欠く場所である。主体はまずこの欠如を装う。 ラカンの著作の中での欠如はある程度存在論的な地位を持つ。(集合論で空集合{φ}に割り当てられるものに近い)無を超える最初のステップである。何かを空とみなすことは、二者択一的に満たし得ることを意味する空間的な隠喩を用いることになり、満たされている、あるいは空であるという本質存在より多くの事実存在を持つことになる。ラカンにより、よく用いられる隠喩はそれ自身の場所を欠いた何かという隠喩であり、場違いであるべきところ、いつもある場所にはない、つまり失われた何かである。さて次は失われた何かを取り上げると、それは最初にあったはずだし、局在していたはずである。つまり、それはある場所を占めていたはずである。そして何かが秩序づけられた体系の中だけで(象徴界だけで)場所を持つことができる、例えば、空間ー時の座標や十進法の図書分類法など、つまり、ある種の象徴的な構造の中だけで。 疎外は象徴的秩序を制定 することー 疎外は新しい主体ごとに新たに実現されなくてはならない ー と、その象徴的秩序の中で主体に場所を割り当てることを意味する。その場所はその時点で主体に占められていないが、主体のために、そして主体のためだけに指定された場所である。ラカンが、主体の存在は言語に覆い隠される、ここで主体がシニフィアンの下あるいは背後に滑り落ちるというのは、一部は主体が言語にすっかり隠され、主体の痕跡が、象徴界での場所のマーカーあるいは場所のホルダーになるだけであるとしている ジャック・アラン・ミエールが言うように、疎外の過程は主体を空集合{φ}として、すなわち要素を持たない集合、印付けたり、表象することで無を何者かに変える象徴として生み出すものと言えるかもしれない。集合論はこの一つの象徴と幾つかの公理を基にその全領域を作り出す。同様に、ラカンの主体は空を名付けることに基づく。シニフィアンが主体を創設するものである。つまり、シニフィアンは存在論的な影響力を行使できるものであり、シニフィアンが印付けたり、取り消したりすることで現実界から事実存在を苦労して手に入れるものなのである。しかしながらシニフィアンが築くのは実体のあるもの、あるいは物質的なものでは決してない。 象徴的秩序の中での主体の場所のホルダーとしての空集合は主体の固有名と関係がないわけではない。固有名は多くは子供の誕生のずっと前に選ばれ、象徴界に子供を書き込む。アプリオリには固有名は主体と何の関連もない。それは主体にとって他のいかなるシニフィアンと同じように異物である。しかし、やがては、このシニフィアンはおそらく他のいかなるシニフィアンよりも、主体の存在の基となり、主体の主体性と分かち難く結びつくようになる。それは主体の代わりとなる、主体としてのまさに不在のシニフィアンになるだろう。 原注5)主体は固有名を引き受けるあるいは主体化することを要求され、固有名を自分自身のものとする。そうすることができないのが多いことは名前を変える人が多いことからわかる。(政治的あるいは商売上の目的に限らず)

        分離

          次の操作である「分離」は、疎外された主体が、今度は言語と言う大文字の他者ではなく、欲望としての大文字の他者に直面することを意味する。分離は、疎外された主体が、大文字の他者の欲望が自分の世界に現れてくる時に、その大文字の他者の欲望に対処しようとする試みである。 疎外が本質的には強いられた選択で特徴付けられ、その選択は主体の本質存在を除外し、その代わりに象徴的秩序を制定し、主体をそこにプレースホルダーとしての単なる事実存在に追いやる。分離は、一方、本質存在を生じさせるが、その存在は極めて儚く、捕らえにくい種類のものである。疎外がとても歪んだ形の「どちらか」に基づくのに対して、分離は「どちらでもない」に基づく。 分離は主体と大文字の他者の両方が除外される状況を意味する。主体の本質存在はいわば外側から、主体と大文字の他者以外の他の何かから、正確な意味でどちらでもない何かからこのようにもたらされなくてはならない。 分離に関係する本質的な考え方の一つに、二つの欠如の並置、重なり合い、一致という考え方がある。これは欠如の欠如、つまり、欠如が欠けている状況と混同してはいけない。 ここで述べられていることは、「対象の欠如」であり、対象の欠如、つまり対象の不在性(出会い損ね)という本質が人間の思考を可能にするということである。そして、この思考こそが、「私は存在する」という思考を生み出し、その中で「存在する私が思考する」という時間的逆転を生じさせることで、事実存在を創り出すのである。 (欲望を生じさせる原因となる)欠如がなくなる、つまり「欠如が欠けている状況」というのは要求 demand が満たされ、欠如のない状況、母親が常に子供の前に「いる」状況であり、それは欲望を起こさせないので、「欲望の死」を意味し、子供に(存在への)不安を生じさせるのである。 フロイトは、「対象の保持」 Retention が、神経症を精神病から隔てるといったが、対象とはラカンに従えば、常に「出会い損ね」であり、不在の対象と言えるので、この「不在の対象が保持される」というのは対象がなくなっている(これが「欠如が欠けている状況」)ことではなく、対象が不在であっても対象の場所が保持されているのが神経症(ないし正常者)の特徴で、その場が保持されていることで、新しい代理の対象を見つける可能性が保持されるということなのです。主体の心の中のこのような場を対象というのであり、それは仏教用語の「空(くう)」に相当する、「無ではない、空」なのであり、慈円の『引き寄せて結べば柴の庵にて、解くれば元の野原なりけり』に通じる「空(くう)」なのである。この場所としての対象は欲望を満たすものではなく、欲望を起こさせるのである。だから「対象は欲望の原因」と言われるのである。ラカンの言う「対象a」とはこのような対象である。 不在の対象として、大文字の母親には欠如が必要であり、不完全であること、誤りを免れない性質があること、欠けていることのサインを、分離がなされるため、そして主体が$として存在するようになるために示さなければならないし、大文字の母親は、主体の出現が立証されるために、自身が欲望する(そしてこのように欠如し、疎外されている)主体であり、自分も分裂、つまり言語の斜線を引く作用に服従してきたことをことをはっきり示さなくてはいけない。 分離は、斜線を引かれた大文字の他者、つまり自身が分割された両親から始まる。両親は彼らが欲しているもの(無意識)をいつも知っている(意識)わけではないし、彼らの欲望は疑わしく、矛盾し、常に流動的である。多少隠喩を変えると、疎外を通じて主体は分割された両親の中に足がかりを得るようになる。つまり、大文字の他者が欠いている「場所」に主体は自身の存在の欠如を委ねてきたのである。分離において、主体は大文字の母親の欠如を主体自身の存在の欠如で、主体の未だ存在しない自身あるいは存在で埋めようとする (母親の欠如は 何かほかのものに対する母親の欲望が様々な現れとしてはっきり示される )。主体は大文字の他者の欠如を自分自身で埋めるために大文字の他者の欠如の境界線を正確に決めることを欲して、大文字の母親の欠如と自身の欠如を掘り出し、合わせ、結合しようと試みる。 子供は両親が喋ることの中で判読できないことに強い興味を持つ。両親の言葉の隙間に横たわる何かに興味を持つ。なぜ?を判読するために子供は行間を読もうとする。母はXというがなぜ僕にそういうのか? 母は僕に何を欲しているのか? 大体において何を欲しているのか? ラカンの考えでは、子供の終わりのない「なぜ?」は物事がどのように作用するかに関しての満足することのない好奇心というよりはむしろどこが自分に合うか、自分が持つのはどんな地位か、両親に対してどんな重要性を持っているかの関心を示すものである。子供は両親の欲望の対象になろうとして自身をある場所に繋ぎとめようとする。つまり、欲望が現れ、欲望を表すために言葉が使われ、さりとてそれがいつも十分にできない行間という『空間』を占めようとする。 欠如と欲望はラカンにとって同じ広がりを持つ。子供はかなりの努力を母親の欠如、つまり母親の欲望の全空間を埋め合わせるために捧げる。子供は母親にとって全てであることを欲する。子供は母親の欲望の場所を掘り出し、彼女の思いつきや気まぐれに自分を合わせようとする。母親の希望は子供には命令であり、母親の欲望は子供には要求である。 原注6) 母親の欲望が要求として子供に捉えられることは要求を満足することで欲望の満足が企てられることを意味する。 子供の欲望は完全に母の欲望へ完全に従属して生まれる。「人間の欲望、それは大文字の他者の欲望である」とラカンは繰り返し述べている。二番目の「の」を今は主格属格ととると、以下のような翻訳が可能となる。「人間の欲望は大文字の他者の欲望である。」「人間の欲望は大文字の他者の欲望と同じである」「人間は大文字の他者が欲望するものを欲望する」これらのすべてが意味の一部しか伝えていない。というのは人間は大文字の他者が欲望するものだけを欲望するのではなく、また同じように欲望するからである。言い換えると、人間の欲望は大文字の他者の欲望とすっかり同じように構造化されるのである。人間は、あたかも別人のごとく、もう一人のの人として欲望することを学ぶ。 ここで仮定されているのは、母親の欠如と子供の欠如を完全に重ね合わる傾向であり、彼らの欠如を完全に一致させようとする試みであると言える。しかし、これは空想的な、実現の可能性のない契機である。というのは事実は、そうしようとしても、母親の欲望の空間を独占することはまずできないし、そうすることはまず許されないし、強いられることもないからである。子供が母親の唯一の関心になることは滅多にないし、二つの欠如は決して完全に重なり合うことはない。つまり主体は、欲望の空間の一部を占めることをとにかく防がれ、除外されるのである。
         

         

        第3項の導入
         

         

        分離はここでは主体によってこれら二つの欠如を完全に一致させようとする試みを意味するものとして理解されるかもしれないが、その試みは突然妨げられる。いかにして、なぜその試みが妨げられるかはセミネール靴肇┘リの「精神分析のあらゆる可能な治療に対する前提問題について」を分析することで理解できるようになる。というのは、1964年に考案されたラカンの分離の概念は幾つかの点で彼が父の名の隠喩ないし父親の機能の操作として1956年に言及したものと同値であると思われるからである。 ラカンによれば、精神病は子供がそうしないと子供の象徴的世界を構築するであろう根源的なシニフィアンを同化することに失敗することから生じ、それに基づいて方向付けを決定する指針を読むことができないので、その失敗は子供を言語の世界にしっかり固定できないままにする。精神病の子供は言語をとてもうまく取り入れるかもしれないが神経症の子供と同じようなやり方で言語の世界に存在するようにはなれない。その基本的な投錨点(としてのシニフィアン)がなければ、同化された残りのシニフィアンは漂流することを運命づけられる。 その根源的なシニフィアンはラカンが父の名の隠喩とか父の機能と呼ぶものの操作を通じて任命される。原初の母親ー子供の結合体( 論理的すなわち構造的な契機としての、時間的な契機ではなく )を仮定するならば、西洋的な核家族における父親はその点に第三項として介入することで多くは異物、ないしは望まれないものとしてさえ受け取られるが、その結合体を邪魔するというやり方で典型的には作用する。子供はまだ一種の未分化な感覚の束であり、感覚ー運動の協調と自己のすべての感覚を欠き、母親からまだ区別されず、母親の身体を単に自身の身体の延長と受け取り、ある種の直接的な、無媒介な関係だと理解している。そして母親は彼女の注意をほとんどすべて子供に向けようとするかもしれないし、子供のいかなる欲求も予想し、子供が完全に自分と意思疎通ができ利用できるようにするかもしれない。このような状況では、父親ないしは他の家族の構成員、あるいは母親のその他の関心が非常に特定の作用を示すことになる。すなわち、母親ー子供の結合を解消し、母親と子供の間に絶対必要な空間あるいは裂け目を作り出すのである。もし母親が父親や家族の他の構成員に興味を示さなければ、いかなる重要性も認めないならば、母親−子供関係が三者関係化されることはない。あるいは父や他の家族の構成員が無関心であるなら、それとなくその結びつきが壊れないままにしておくなら、第三項は決して導入されないであろう。 ラカンはこの第3項を「父の名(の隠喩)」あるいは「父の作用」と呼んだが、その作用を父性隠喩、父性作用の形で形式化することで、それが生物学的、あるいは事実上の父親や、あるいはそのことならもはや固有名とも必ずしも結びついていないことを明らかにする。セミネール犬如▲薀ンはフロイトのハンス坊やの症例で父性作用を担いうる唯一のシニフィアンは「馬 horse」というシニフィアンであると示唆するまでに至っている。「馬」というシニフィアンはハンス坊やの例では明らかに、「ある」父の名であり、彼の「固有の」名前では決してない。それはハンスの息子を妻から分離することができないために父性作用を担えない父親の代役である。
         

         

        原注9)片親の場合、恋人(過去のあるいは現在の)あるいは友人や親戚でさえも時々父親の後釜に座り、子どもの範囲を超える両親の欲望の一部を指し示す。同性愛のパートナーの一人が同様に この役目を果たすことは確かに想像できる。異性愛のカップルで生物学的男性が母親の役目をし、生物学的女性が法を表すことがあるが、社会的規範が現実にはこのような反転の有効性を父の名や父の作用を置き換えることで発展させることはない。
         

         

        3章で示したように、象徴的秩序現実的なものの影響を取り除き、社会的に受け入れられないかもしれないが、社会的に、現実的に変形することを担い、ここで父の機能を担う名は現実的な、未分化な、母親と子供の結びつきを禁じ、変形することを担う。それは子供が簡単に母親と快感に満ちた接触を図ることを禁じ、父の代わりの人そして/あるいは大文字の母親にとって(母親が父親に重要性をを与える限りで父親は父性機能を担うことができるのだから)より受け入れ可能な方法で快を追求することを要求する。フロイトの用語では、それは現実原則に相当し、快原則の目標を無効にするのではなく、社会的に指定された通路に快原則の目標を導く。

        原注10)ここで、フロイトの現実の概念を明確に社会的に定められた、社会的に構築された現実を意味するものとして解釈している。

        父性機能は大文字の他者の欲望を無効にする同化すなわち、名(それは後で見るように置き換え可能ではないのでまだ一人前のシニフィアンではない)を担うことへと導くが、この大文字の他者の欲望はラカンの視点からは子供には潜在的にとても危険なもので、子供を飲み込む恐れがあり、子供を覆い隠す恐れがある。セミネール17の印象的な一節で、ラカンはそれまで言ってきたことを極めて図式的な用語でまとめている。 母親の役割は彼女が欲望することである。それは主要な重要性に属するものである。彼女の欲望はあたかもあなたにとってどうでもいいことであるかのように容易に担えるようなものではない。それは常に問題になる。母親は大きなクロコダイルであり、あなたは彼女の口の中にいることになる。あなたは何が彼女を突然始動させ、顎を固く嚙みしめさせるかを知らない。それが母親の欲望なのである。 だから私は元気づけるものがあるのだと説明しようとしたのだ。単純なことを言っているのです、実際間
        に合わせに作ったのですが。ローラーがあります。石でできた、もちろん、罠になる可能性のある位置にあり、開いたままの状態で動けなくする。それがファルスと呼ばれるものです。それはもし顎が突然閉じることがあればあなたを守るローラーとなります。 念頭において欲しいのは私が「母親の欲望」と訳しているフランス語には両義性、つまり母親に対する子供の欲望と母親それ自体の欲望の両方を示すということ、が避けられないということです。くよくよ考えてどちらかを選ぶにしても、あるいは全体として状況を見るほうを好むにしても、ポイントは同じである。言語が現実になると危険な二項関係から子供を守るし、言語が生じるのは母親の欲望をある名前で置き換えることを通してである。  

                       

                                                    Name-of-the-father

         

                                                   -------------------------------------------

         

                         Mother’s Desire

         

        まったく文字どおりに読めば、この種の定式化は、母の欲望の対象は父(あるいは家族の中で父の代わりになるものならなんでも)であり、大文字の母親の欲望を名付けることで防御的な父の機能をこのようにして提供するのである。 ソール・クリプキによると、名は固定指示子である。言葉を変えると、それは常に、そして頑固に同じものを指示する。名をシニフィアンと言っていいかもしれないが、但し書きをつけると、それは他とは異なる種類のシニフィアン、つまり根源的なシニフィアンである。一人前のシニフィアンとして働くためには大文字の母親の欲望を置き換えるあるいはその代わりをするためのさらなる段階が必要である。つまり、シニフィアンが弁証法的運動の大事な部分にならなければならない、すなわち、置き換え可能になることであり、経時的に一連の異なったシニフィアンによって埋められていくシニフィアンの場所を占めるようになる。このことはこの章の後半で論じる種類のさらなる分離を要求し、それがラカンに父性機能に重要な象徴的要素を父の名、父親の否、禁止、シニフィアンとしてのファルス、他者の欲望のシニフィアンS(A) などの様々な言い方を取らせるのである。                        
               Signifier
           ――――――――――――――――
              Mother’s Desire 
         
        父性隠喩によって示唆された置き換えは言語によって可能となるだけだが、それは第二のシニフィアン、つまりS2が母の欲望が遡及的に第一のシニフィアン、S1へと象徴化、つまり変形され(初めは父の名が、ついで、大文字の他者のより一般的なシニフィアンとして)任じられる限りにおいてである。

         

                  S 2

               -----------------------------------            

                                       S 1

         

        ここでのS2は明確な役目を果たすシニフィアンである。それは大文字の母親の欲望を象徴化し、シニフィアンへと変形する。そうすることで大文字の母親と子供の結合に裂け目を創り出し、子供に楽に息ができる空間、子ども自身の空間を可能にする。言語を通して、子どもは大文字の他者の欲望を仲裁しようとすることができるのであり、それを寄せ付けず、常に完全にそれを象徴化するのである。1950年代にはラカンはここで示唆されたS2を父の名と言っていたが、60年代にはそれを、大文字の他者の欲望を意味する(すなわち、置き換え、象徴化し、効力を消す)様になるシニフィアンとして最も一般的に理解される、「ファルス」と言うようになる。このシニフィアンを表すためにラカンが提供する記号が、S(barred A) であり、通常は「大文字の他者における欠如」と読まれるが、欠如と欲望は外延を同じくするので、「大文字の他者の欲望のシニフィアン」とも読まれる。 この置き換え、すなわち隠喩の結果が主体の降臨であるが、その主体は単なる潜在性、つまり満たされることを待っている単なる象徴界のプレースホルダーではもはやなく、欲望する主体である。(次章の置き換えの隠喩の議論で理解するであろう様に、その様な隠喩はすべて主体化の機能を持つ。) 一般的に言うと、分離は大文字の他者からのまだプレースホルダーにすぎない主体の放出を招く。簡単に言うと、これはエディプス・コンプレックスの結果(少なくとも男の子の関する)に関するフロイトの見解と関係付けられるそこで父の去勢の脅し、「お母さんから離れなさい、さもないと!」、がついには子供を大文字の母親から離脱させるのである。このような筋書きで、子供はある意味大文字の母親から蹴りだされるのである。(Fig. 5.3)
        この論理的に認められる契機(一般的には個人の成育歴の特定の時間的契機としては同定するのが極めて難しく、それが起こるためには、それぞれ以前の契機に積み重なる、多くのこのような契機が必要だろう)はラカンのメタ心理学の基本的なものであり、彼の代数学の重要な要素ーS1,S2,$,そしてa ーのすべてがここで同時に発生する。S2が任じられたとたんに、S1が遡及的に決定され, $が析出され、大文字の他者の欲望は新しい役目を引き受ける。すなわち、対象aである。

         


        対象 a
         

         

        大文字の他者の欲望 子供が大文字の他者の欲望で本質的に判読できないままのもの、それをラカンは「X」、変数、より適切には知られざるものと呼び、それが子供の欲望に根拠を与える。その原因は、一方では、主体にとって、(欠如に基づく)大文字の他者の欲望であり、またここでラカンの格言である「人間の欲望は、大文字の他者の欲望である。」の別の意味に出会うが、それは例えば、次のように翻訳されうる。「人間の欲望は大文字の他者に自分が欲望されることである。」「人間の欲望は自分に対する大文字の他者の欲望である」主体の欲望の原因は主体への誰かの声であり、目指しである。しかしその原因はまた主体とは何の関係もないと思われる大文字の母親の欲望の部分からも起こり、それは主体を母親から(物理的にあるいはその他の方法で)引き離し、母親の大切な心遣いを他のものに向けさせる。 ある意味では母親がまさに得たいと望んでいるものが子供が望むに値すると気づくものである。セミネール爾如▲▲襯ビアデスがソクラテスの中の「何かあるもの」に魅了され、それは(「饗宴」の中の)プラトンの用語では「アガルマ agalma 」に当たるとラカンが指摘した。アガルマとは、貴重な、光り輝き、眩しい何かであり、ラカンによる解釈ではソクラテスの欲望そのもの、ソクラテスが欲望するもの、ソクラテスが望んでいる状態である。発見者に欲望を起こさせる高い価値を与えられたアガルマはここでラカンが対象a と呼ぶもの、つまり欲望の原因(7章で十分に論議されるであろう)へのアプローチとして役立ちうる。 ラカンの格言の第二の明確な記述は、人間の欲望は大文字の他者によって欲望されることを示唆するが、大文字の他者の欲望が対象 a だと暴露する。子供はその母親の唯一の愛情の対象でありたいが、母親の愛情はほとんど常に子供の向こうに向かう。母親の欲望について何か子供にはわからないものがあり、子供が支配できない。子供の欲望と母親の欲望の間の厳密な一致は維持され得ない。子供の欲望から母親の欲望が独立していることがその間に裂け目を創出し、その割れ目で子供に理解できない母親の欲望が独特のやり方で働くのである。 この分離の大まかな説明は仮説上の母ー子結合に欲望のまさに性質により「割れ目」が導入され、この割れ目が対象 a を招くことを断定する。

         

        原注12) ここで、母ー子二人一組の間を裂く父親の役目を思い出さないわけにはいかない。第三項の導入について述べてきたが、実際、第三項は常にすでにそこにあり、最初の関係の明白な親密さを構造化している。幼児は外からの侵入を経験するが、その侵入は、父として、父の名として、あるいはファルスとして様々に特徴付けられるものによって果たされるが、幼児を母親との完全な交わりから追い出し、ある種の完全な重なり合いを邪魔する。 侵入は幼児の母親への独占的な権利を禁止する形をとるかもしれないし、母親を超えた禁止の源を探すように幼児の興味を強いるが、母親が魅了される源は、男友達、恋人、家族、隣人、国家、法、信仰、神である。全く決められないかもしれないが、典型的に魅了する何かである。 対象 a はここでは剰余 remainder として、仮説としての母親ー子供結合が分解した時に、この結合の最後に残った痕跡、そのことから思い出される最後のものとして作り出される剰余として理解される。この剰余、思い出させるものに執着することで、分割された主体は大文字の他者から切断されているにもかかわらず、全体性という幻想を維持でき、対象 a に固着することで主体は自身の分割を無視できる。

        原注13) ラカンは、これを「ごまかしの完全性」という。

        これこそがラカンが幻想ということで意味していることであり、matheme (分析素)$ ◇ a で表し、それは 対象 aに関して分割された主体 と読まれる。主体の対象a との複雑な関係(ラカンはこの関係を「envelopment-development-conjunction-disjunction」の一つとしてこの関係を記述した。)の中でこそ主体は幻想的な意味での、全体性、完全性、達成感、幸福感を得るのである。 クライエントが分析者に幻想を詳しく話す時に、彼らは分析者に対象a と関係したいやり方について知らせるが、言葉を変えるとそのやり方とは、大文字の他者の欲望についてどのように位置付けられたいのかである。対象a は彼らの幻想の構成要素となるので、主体が好きなように扱える道具かおもちゃであり、彼らの望み通りに操作し、幻想のシナリオの中でそこから最大限の興奮を引き出すように物事を結集させる。 しかしながら、主体が大文字の他者の欲望に主体にとって最も興奮させる役を振り分けてもその快は不快に変わるかもしれないし、恐怖にさえ変わるかもしれないので主体を最も興奮させるものが常に一番快感を与えるものだという保証はない。快感あるいは苦痛の意識的な感覚のどちらと関連していてもその興奮はフランス語で享楽 jouissance と呼ばれるものである。フロイトはその享楽をねずみ男の顔に見つけ、それを「彼自身が気付いていなかった彼自身の快感における恐怖」と解釈した。そしてフロイトは、はっきりと「患者たちは彼らの苦しみからある満足を引き出している」と述べている。セックス、見ることそして/または暴力による興奮であるが、良心によって肯定的、あるいは否定的にどちらに捉えられようと、無垢に楽しい、あるいはうんざりするぐらい不快であろうと、この快感は享楽と名付けられ、主体が幻想の中で自分のために編成する。 享楽とはこのように失われた母子一体の代わりとして現れるもので、子供が自分の主体性を犠牲にしたり我慢することでのみ成り立つ一体によるので、その一体はそれほど団結したものではない。文字が存在する前、つまり象徴的秩序の存在する前のある種の享楽(J1) 、母子間の無媒介な関係、母子間の現実的な結合に対応する享楽を想像することができるが、それは父性機能の操作によって取り消されシニフィアンに道を譲る。その現実的な結合のいくらかあるいは部分は幻想の中で再発見される(文字獲得後の享楽、J2)つまり、象徴化の遺物や副産物との主体の関係として再発見されるのである。すなわちこれが対象a (S2としてて作り出され、遡及的にS1を決定し、そして主体を沈殿させる)である。            

                 J1 ⇨ SYMBOLIC ⇨ J2

        J2は以前の全体性や完全性の代理をし、J2を実現する幻想は主体を主体の無、すなわち疎外のレベルでマーカーとしての主体の単なる事実存在を超えさせ、そして本質存在の感じを与える。このように幻想を通してのみ、主体が自身で、ラカンが「 being 本質存在 」と呼ぶもののいくばくかを得ることができるようになのは分離によって可能になるのである。事実存在 existence が象徴的秩序(疎外された主体がその中に場所を割り当てられること)を通してのみ認められるのに対して、本質存在 being は現実的なものに執着することによってのみ提供される。 このように、分離、すなわち主体と大文字の他者に関する「どちらでもない」が本質存在をいかにして生み出すかが分かる。つまり、主体と大文字の他者の一体に裂け目を作り出し、大文字の他者の欲望は主体を外れ、現にそうであるようにいつも他の何かを求め続け、それでも主体は、欲望の(本質)存在として、欲望する(本質)存在として主体を(本質)存在させ続け、そこから剰余ないし想起させるものを取り戻すことができる。対象a は主体を補完するものであり、常に主体の欲望を喚起する幻想的なパートナーである。

        原注14) 大文字の他者のことを単純な帯(たとえば紙の)と考えてみれば、主体はひねりを加えた大文字の他者と考えることができる。最初の帯によって創り出される穴、すなわち欠如を埋めるであろう面は単純な円である。一方、二番目の帯によって創り出される穴、すなわち欠如を埋めるであろう面はより複雑なトポロジー的な面、すなわち「内的な8」である。

        分離は主体を自我と無意識に分裂させるが、その結果として大文字の他者を、欠如を持つ大文字の他者と対象 a に 分裂させる。これらの一団は初めには無かったものであり、なのに分離は一種の交差を結果として起こし、それによって主体が自分自身のものだと考え、自身の事実存在に必須のものと考える大文字の他者の何か(ここでの理論では大文字の他者の欲望)が大文字の他者から剥ぎ取られ、現在の分裂された主体によって幻想の中で保持されるのである。

         


        さらなる分離
         

         

        幻想の横断 1964年以降、分離の概念ははラカンの著作から殆ど姿を消し、60年台の後半からもっと複雑な分析の効果の理論に道をゆずる。セミネールの14と15で、疎外という用語は 1960から64年に詳しく論じた疎外と分離の両方を意味するようになり、新しい動的な概念が新たに付け加えられた。それは幻想の横断、即ち基本的幻想の乗り越え、横断、横切りである。 この再編成は、ある意味、ラカンが概念を推敲して、分析家は対象 a 、言語としてではなく欲望としての他者の役割を果たすべきであるということにはじまる。分析者は被分析者が分析者に振り当てる、すべてを知り、すべてを見ている大文字の他者の役、人間としての被分析者の価値を決める最終判定者、真理のすべての質問の最終解答者としての役を避けなければならない。分析者は、被分析者に真似すべき、そのようになろうとする、そのように欲望する(欲望傾向はそれ自体大文字の他者の欲望をモデルにする)大文字の他者として提供することをうまく避けなければならない。要するに、同一化すべき大文字の他者を受け入れることの出来る理想としての大文字の他者、自分のものとして見れる大文字の他者である。かわりに、分析者は欲望することを具現化しようと、出来るだけ個人の好き嫌い、個人の理想や意見を被分析者に表さず、出来るだけ分析者の性格、望み、好みついて出来るだけ具体的情報与えないように努力しなくてはいけない。というのはこれらのすべてが同一化をを引き起こしうる温床となりうるからである。 分析家の理想や欲望に同一化することはアングロ・アメリカンの伝統に属す某分析家達によって神経症の解決として進められてきた。被分析者は分析者の強い自我をそれによって被分析者の弱い自我に支え棒をするモデルとして取り込むべきであるとされ、もし被分析者が成功裏にうまく同一化できたならば、分析が成功裏に終わるというものである。ラカンの精神分析では、分析家との同一化は罠であると考えられ、そうなると、被分析者はランガージュとしての大文字の他者と欲望としての大文字の他者の中でさらなる疎外に導かれることになる。被分析者の他の何かへの不断に得体の知れない欲望を維持するために、ラカン派の分析者は自分のものに習って被分析者の欲望を作ることではなく、むしろ被分析者の幻想の構造を改造することで、主体の欲望の原因、すなわち対象 a との関係を変えることを狙う。 この幻想を再構造化することは幾つかの異なった事項を含む。つまり、分析過程における新しい基本的幻想の構築(基本的幻想とは被分析者のいろいろな幻想の基礎をなし、大文字の他者の欲望と最も深く主体との関係を構築するものである。)をなす。第4章で与えられた分裂した主体のシェーマで、長方形の左下へのコーナーへの横断 そして基本的幻想の中でのそれによって主体が原因の場を引き受けることになる位置の乗り越えることで、別の言葉で言うと、大文字の他者の欲望 ー 外来性の、異質の欲望 ー があったところに、自身が主体として到来することで外傷的な原因を主体化する。(fig. 5.5)

                                       ⤵                
                                    $ ◇ a

        幻想の横断とは、言語としての大文字の他者と欲望としての大文字の他者に関して、新しいポジションを引き受けることを意味する。その動きは分裂した主体として主体を事実存在させ、主体の原因となったものになるために、使われたり、存在させられたりする。それがあったところ、つまり大文字の他者の欲望に支配された大文字の他者のディスクールがあったところで、主体は「私は」と言えるのである。「私に起こった」「彼らが私にこれをした」「運命が私を待ち構えていた」ではなく、「私が」「私がした」「私が見た」「私が叫んだ」と。 このさらなる分離は疎外された主体が自分自身の原因になる、原因の場所で主体として存在するようになる一時的な逆説的な動きである。外来性の原因、つまりある人を世界に存在させる原因となった大文字の他者の欲望、は内面化され、ある程度までは、責任を背負わされ、引き受けられ(フランス語のassomption 受任、受諾 の意味で)、主体化され、その人自身のものにされる。

        原注15) 分析は「私が大文字の他者の欲望のためにいた a の位置に主体としての自我を再位置づけすること」に関係しなければならない。Seminar Ⅻ , June 16 , 1965

        外傷を子供が大文字の他者の欲望と出会うことと考えるならば、フロイトの症例の多くはこの見方を支持する(一例だけを引き合いに出すが、ハンス坊やの母親の欲望との外傷的な出会いを考えてみなさい)が、外傷は子供の原因、つまり子供が主体として出現する原因でありまた大文字の他者との関係で主体として採用する場所の原因として作用する。大文字の他者の欲望との出会いは快/苦痛、つまり享楽の外傷的経験を構成し、これはフロイトが sexual ueber , 性的過剰負荷と呼んだもので、その外傷体験に対しての防御として主体が存在するようになるのである。

        原注 16) sexual ueber はセクシャリティの過剰と一般的に訳される。例えば、SE 1、p230 を参照。
        子供の欲求を世話する他者との性的な出会いに対する子供の反応については7章を参照。

        幻想の横断はそれによって主体が外傷を主体化する過程であり、外傷的な出来事を自身で引き受け、享楽に対する責任を受諾する過程なのである。

        原因を主体化すること: 時間に関する難問

        時間的に言うと、自分を外傷的原因に逆行させることは逆説的である。主体が認めるようになり、責任を負うようになるべき外傷の契機に主体の関与などがあったのか?ある意味ではあった。しかし、主体的関与は事後的にもたらされた。このような見方は必然的に正確に規則正しく結果が原因に伴って起こる古典的な論理の時系列とは矛盾する。それにもかかわらず分離はシニフィアンの働きに従い、それによって文の最初の単語の意味は最後の単語が聞かれあるいは読まれた後でだけ明らかにすることができる。そしてそれによってその意味は発話後に与えられる意味上の文脈によってのみ遡及的に構成されるので、その完全な意味は時間の経過による産物である。ちょうどプラトンの対話篇が、哲学入門の学生にまず最初の意味を持つようになり、深く勉強すると多くの意味を持つ等になるように、プラトンの饗宴はラカンがセミナー爾覇媛鬚靴動瞥茵他の何かを意味することがしめされてきたし、今後も何百年、何千年にわたり、解釈され、解釈されなおされることにより新たな意味を持ち続けることになるだろう。意味は直ちに創り出されるのではなく、事後的にだけ、つまり問題の出来事の後でのみ創り出されるのである。これらが精神分析過程や理論で働いている、古典的論理にとっては異端の、時間の論理なのである。 ラカンは現場で主体が年代順にいつ出現するかを決して正確に指摘しはしない。すなわち、主体は常に到着しようとしている ー 到着する寸前である ー のか、若干の後の瞬間までに、遅れずに到着してしまっているのである。ラカンは主体の時制の状態を示すのに、両意に取れるフランス語の未完了時制(動作が進行中であることを示す時に使われる動詞の時制:半過去)を用いる。彼は例として次の文章:Deux secondes plus tard, la bombe eclatait , を、この文章は「2秒後に爆弾は爆発した」と 「2秒後に爆弾は爆発したであろう(しかし爆発しなかった)」の両方を意味することができる。言外に含まれた「もし〜なら、そうなるであろうが、しかしそうならなかった」がある。つまり、「もし導火線が切られていなかったら2秒後に爆発したであろう」ということである。同じような曖昧さは次の英語の言い回しにも示唆される。” The bomb was to go off two seconds later.”「爆弾は2秒後に爆発するところだった」「爆弾は2秒後に爆発した」

        参考)be は存在の意味が常に含まれ、「何かがどこかにある」を意味する。この「どこか」は「場所」だけではなく、「状態」でもあるので、be to do の形をとると、「連続的な未完の状態」として、「何かをこれからする状態にある」ことを示すこともできるし、「完結した状態」として示すこともできる。 ちなみに、be「ある」というのはハイデッガーが言う通り、本質存在(〜である)と事実存在(〜がある)の二つの意味がある。 主体に応用すると、フランス語の未完了時制、半過去は主体があらわれたか、否かについて曖昧なままにする。

        原注17) 英語で同じ効果を得るには過去時制と不定詞の組み合わせが必要になる。(was + to do ) 主体の非常につかの間の事実存在は未定ないしは中断のままとなる。主体が存在したかどうかを実際に決定する方法はない。

        ラカンは主体の時制の状態を議論するのに前未来(未来完了として知られる)をよく用いる。”By the time you get back, I will have already left “ という言明は未来のいつかに、正確にいつとは特定できないし、何かがすでに起こっているであろうということである。この文法的な時制は、フロイトの Nachtraeglichkeit 事後性、つまり遅延作用、遡求作用、事後においての作用に関係付けられる。すなわち、最初の出来事(E1)が起こるが、二番目の出来事 (E2)が起こるまで効果を生じない。遡求的にE1は例えば外傷として、形成される。言い換えれば、それはトラウマとしての意味を引き受けるのである。それは以前は決して意味されなかった何かを意味するようになる。その意味と効果が違ってしまったのである。(fig.5.6)


                           ← 
         E1 → E2           E1 → E2                   
                        __________         
                (signification)      T


        By the time you get back. I will have already left. という言明では、私の出発は遡求的に事前のこととして決定されている。もしあなたが帰ってこなければ、そのような状況は起こらない。前と後を作り出すには二つの契機が必要である。最初の契機の意味はその後に来ることによって変わる。 同様に、最初のシニフィアンは、以下に示すように、二番目のシニフィアンが場面に登場するまで主体化の作用を作り出すのに十分ではない。(Fig.5.7)                       

                                ←
            S1 → S2            S1 → S2  
                             ___
                              
                              $


        主体はその道を通っていくのだが、時間あるいは空間の中で決して主体の位置を正確に示すことはできないということを二つのシニフィアンの関係が示している。 ラカンの論文「論理的時間と予期される確実性の断言」は、一連の明白な強制の中で非常に正確な状況での主体の出現を正確に指摘しようとして書かれている。

        この論文の中で遂行されたある時間、つまり一暼の瞬間、理解のための時間と決断の時間はのちにラカンによって分析過程それ自体の時間的契機に関連付けられた。ちょうどこの論文で詳細に論じられた3人の囚人の問題が部外者には理解のための時間が確定しないのと同じように、分析で理解のために必要な時間は確定しない。言葉を変えると、それはもともと計算できないのである。しかし、分析の終わりと主人たちの決断の時間を結びつけること(セミナーXX)で、主体化の最後の時間が論理的な、そして/または 分析的な条件を都合よく組み合わせることで余儀なく生じさせうることを暗示している。 未来のある時点までの間になされるという形で永遠に宙吊りにされると思われるかもしれないが、それでもラカンはこのように論理的には特定の、しかし時間的には不確定な時間において原因の主体化(対象aを主体化すること)が行われる見通しを提供する。ある意味、疎外をこの可能性の始まりと考え、このさらなる分離を分析過程の終わりと徴づけるかもしれない。それでも、後から見るであろうが、分離はある状況で促進されうる、例えば、分析を中断、シラブルに切る時、つまり論理的であり、時間的である状況である。 幻覚の横断も当然のことながら大文字の他者の欲望を、シニフィアン化するのをを促進する、大文字の他者の欲望をシニフィアンに変えるという視点から明確に述べられている。このさらなる分離において対象a(大文字の他者の欲望)との関係で主体が新しい地位を見つける限りにおいて、大文字の他者の欲望は父性隠喩を作用を受けているので、単に名付けられただけではない。原因が主体化されると、大文字の他者の欲望は同時にシニフィアンの運動に完全にもたらされる。そしてセミナー困離魯爛譽奪箸離薀ンの議論で見られるように、そこでこそ、主体は最終的に大文字の他者の欲望のシニフィアン、S(barredA) にアクセスを得る。

        言い換えると、大文字の他者の欲望は分離を通して単に名付けられただけだったが、その名前は固定され、静的で、その変わらない効果によってモノのようであり、その呼称の限定された力においては厳格である。 神経症においては、その名前は普通は大文字の他者の欲望から十分に分離されている。その名前はモノの死ではないーシニフィアンがモノの死である。大文字の他者の欲望と父の名(の一つ)間の硬直した結合が続く限り、主体は行動することができない。ラカンによれば、ハムレットはシェイクスピアの劇の最後に決闘する前にはファルス的シニフィアンにアクセスできない。これがなぜ彼がいかなる行動も取れないのかの理由である。決闘の間だけ彼は王の背後のファルスを確信することができ、王はファルスの代役に過ぎない(ファルスは欲望のすなわち大文字の他者の欲望のシニフィアンである)と悟ることができ、戸惑いなく王を倒すことができたのである。ハムレットが最後に王とファルスを分離できるまで(王が何でもないとわかるまで)は王に復讐するとハムレットの全世界が崩壊することになると恐れて、行動は不可能だった。王(女王の欲望の対象)がシニフィアン化されるのは、権力は王を超えている、つまり正統性や権威は王だけに具現化されているのではなく、王を超えた、王の上にある象徴的秩序にあるのだとわかることができた時のみである。 大文字の他者の欲望の名前は、母親のパートナーから、教師へ、学校へ、警察官へ、民法へ、宗教へ、道徳律へ等々へと変化しなければならないし、主体化が起きる、つまり、主体が大文字の他者の欲望になるのなら、大文字の他者の欲望の名前は大文字の他者の欲望のシニフィアンに道を譲ることになる。この意味で幻想を横断することは言語それ自体からの分離を必要とする。すでに原因と化しているであろう主体が自身のディスクール( a social bond ,founded in language ) から、自身の大文字の他者の欲望との問題、つまり、大文字の他者に見つけた欠如を扱うことができないとか、大文字の他者に対して適切な距離を取ることや適切な関係を持つことができないなどでうまくいかないことについて、分離していることを必要とするのである。 神経症はディスクールの中に保持されるが、幻想を横断することというラカンの考えに、ある種の神経症の彼岸が示唆されているのがわかる。

        原注21) もちろん、ここで分離として、そしてさらなる分離として述べていることは、疎外と分離をラカンが1964年に明確に表現した点に位置させている。神経症者はさらなる分離を必要としている、すなわち幻想の横断を必要としていると言うよりはむしろラカンは50年代の終わりと60年代のはじめに、神経症者は大文字の他者の欠如(すなわち、大文字の他者の欲望)を大文字の他者の要求と取り違えていると言う。大文字の他者の要求は神経症者の幻想の対象である。(エクリ、p321)神経症者の幻想において、つまり$◇a の代わりに $◇Dにおいて、主体は自分のパートナーとして大文字の他者の欲望の代わりに大文字の他者の要求を採用している、つまり、前者は基本的に「動き」であり、常に何か他のものを探し求めているが、後者は静的で、変化せず、同じもの(愛)の周りを回り続けるものである。それは本質的に主体は第3項に完全にはアクセスしてこなかった、つまり母ー子の双数関係の外部の点に完全にはアクセスしてこなかったことを意味している。それなら、分離は大文字の他者の要求(D)が神経症者の幻想の中で大文字の他者の欲望(対象a ) に取って代わる過程として理解されるだろう。神経症の主体は自身の不完全な幻想($◇D) の中である意味、もう本質存在しているのかもしれないが、分離を経験すれば、より大きな度合いの主体性を獲得するであろう。

        神経症の彼岸では、(原因として、欲望するものとして)行動ができ、少なくとも瞬間的にはディスクールの外に つまりディスクールから抜け落ちる。すなわち、大文字の他者の重荷から自由になる。これはラカンが初期の論文(精神分析の攻撃性:エクリ)で述べた精神病者の自由ではない。それは文字(獲得)以前の自由ではなく、文字(獲得)以後の自由である。

        分析設定での疎外、分離、そして幻想の横断

        しばしの間、被分析者、分析者の寝椅子に落ち着いて座っていて、昨夜の自分の夢について語り、自分のディスクールで部屋を満たし、それが分析家にとって興味深い、満足するものであることを望んでいて、従って幻想モード($◇a) にある, そんな被分析者を想像するならば、その人は分析者が(ある意味ディスクールが宛先とする知の大文字の他者によってではなく)述べた一言によって突然語りを中断されてしまう。その一言は被分析者が慌てて誤魔化したり、自身にとっても、分析者にとっても重要でも興味深いものでもないと考えたりするかもしれない。被分析者はしばしば転移性恋愛のために、分析家が自分たちに言って欲しいこと、分析家が聞きたいことを言いたいと望んで自分たちのディスクールを合わせる。そしてこのような中断、咳、ブツブツ言うこと、一言、セッションの終結などが起こるまで、被分析者は自分たちの目的を達成していると信じ続けることができる。このような中断はしばしば被分析者を揺さぶり、分析家が欲していることや言わんとしていることを知らないことに突如として気づかせ、分析家は被分析者のディスクールに被分析者が意図した以外の何かを探していて、それから何か他のものそれ以上のものを探していることに気づかせる。 その意味において、被分析者のディスクールに句読点を打つとか、それを区切るというラカン的な実践は日分析者をそこから引き離し、分析者の欲望という謎に被分析者を直面させる。

        原注22) scansionの動詞型として造語scandingを使いたい。と言うのは、一般に受け入れられた動詞型であるscanningはずいぶん異なった含意があり、ここでかなりの混乱を引き起こすかもしれないからである。つまり、ざっと調べる、速やかにリストに目を通す、スキャナーで身体の超薄写真をとる、テクストやイメージをデジタル形式でコンピューターに送るなどである。前に述べた全ては、何者かを(通常は被分析者のディスクールあるいは分析のセッション)切断する、句読点を打つ、中断するというラカンの考えとははっきり区別すべきである。

        欲望が謎のままである限り、被分析者が正確にそれがどこにあるかを信じているところには決して存在せず、そして被分析者はその欲望を言いあてようとかなりの努力を払うのだが、被分析者の幻想は分析の場で繰り返し揺り動かされる。

        原注23) 精神分析の四基本概念 17,18章を参考のこと。

        大文字の他者の欲望は、対象aの身なりで、被分析者がそこにある、あるいは幻想の中でそこにあって欲しいというその通りの場所には決してない。分析者は、見せかけの、あるいは空想の世界の対象aとしての役割つまり、対象aの代役ないし見せかけとして役割を担い、$とa のさらなる隙間をもたらし、幻想化された関係、◇を途絶させる。分析者はその関係を支えきれないものにし、そこに変化を引き起こす。 疎外と分離はいつでも分析状況に影響を与えるので、被分析者は筋の通った話をしようとするので、自身を疎外することになる、つまり、分析家が意味を取れるであろう話し方をすることで自身を疎外するのである。ここでは、分析家は被分析者によって全ての意味を司る場として、すなわち、全ての話されたことの意味をを知る大文字の他者として受け取られている。意味がわかるように話そうとする中で、被分析者は自分の言葉の陰に立ち去るか、消えてしまう。まさに言語の性質ゆえに、それらの言葉は被分析者が意識的に選んで言おうとしたことより、常に余計にあるいは不足に話してしまうことを避けられない。意味はいつも疑わしいものであり、複数の価値を持ち、隠しておきたい何かをうっかり表し、話したい何かを隠してしまう。 意味がわかるようにしようとすると被分析者は意味としての大文字の他者の領域に置かれることになる。つまり、被分析者の「本当の意味」は大文字の他者(両親、分析者、神であろうとも)による場合だけ決定され、判断されうるので、被分析者はディスクールの向こうに消え去るのである。この種の疎外は避けられず、(マルクス主義者や批判的な理論家による疎外の理解とは異なり)ラカン的分析では、ダメだと決め付けることはない。 しかしながら、分析家はこの種の疎外を漠然と助長することを禁じられている。神経症者との分析において分析者は大文字の他者と被分析者の関係に焦点を当てようとし、自分に似た小文字の他者と被分析者の想像的関係に由来する「妨害 interference」をその過程の中で取り除くのだが、それは分析過程の終りではなく、そのまま終わりにするなら、被分析者が分析者を大文字の他者と同一化するアメリカの自我心理学のある種の解決を招くことになるだろう。

        ラカン的分析者が用いるディスクールは根本的に被分析者の用いるディスクールとは異なる。それは分離のディスクールである。分析家が被分析者の意味の方向に沿った何かを提供するとしても、それでも分析者は「分析家がー被分析者のーディスクールのー意味をー提供する」という行列を、曖昧に、一度にいくつかのレベルで、多くの異なった方向に導く用語を用いて話すことで、打破することができる何かに狙いを定めているのである。果てしない全容とまではいかなくても、経時的な意味を暗示することで、意味の領域それ自体が問題化される。被分析者は分析者の不可解な話の、分析家の多くの意味を持つ言葉の意味、分析家がまさにその瞬間にセッションを終わらせた理由を推測しようとするので、被分析者は意味から分離され、分析家の欲望の謎に直面する。その謎は大文字の他者の欲望と関係した被分析者の深く根ざした幻想に影響を与える。自由連想法の基本的な取り決めは被分析者に、大文字の他者の欲望との関係をこれまでよりさらに明晰に、言葉にし、象徴化し、シニフィアン化することを要求するが、分析家の行為は主体を大文字の他者の欲望について作り出すことを要求された、まさにそのディスクールからより一層分離させる。

        人は特定の運命の主体である、人が選んだわけではない運命、初めからでたらめで偶然のように思われるかもしれないが、人はそれでも運命を主体化しなくてはならない。フロイトの見方では、人は運命の主体にならなくてはいけない。ある意味、原抑圧は人の世界の始まりのサイコロの一振りであり、分裂を創り出し、構造を始動させる。個人はそのでたらめな一振りに真剣に取り組まなくてはならない、その一振りとは親の欲望の独特の形態である。そして、なんとかしてその主体にならなくてはいけない。Wo Es war,soll Ich werden は、私は外部の力、それは言語としての大文字の他者であり、欲望としての大文字の他者であるが、それがかって支配していた所に至らねばならない ということである。私はその他者性を主体化しなくてはならないのである。 ラカン的主体は倫理的に動機付けられているというのはこの理由からであり、ラカンの著作で度々繰り返されるのがこのフロイトの命令に基づくものだからである。フロイトの命令はもともと逆説的なものであり、私を原因に置く、戻すように命じ、自分自身の原因になるように命じているのである。しかし、逆説を退けるのではなく、そこに含まれる運動を理論化して、それを導くための技法を見つける。私はすでに無意識にあるのではない。そこにあると推測された所どこでもいるように思われるかもしれないが、現れるようにしなくてはいけないのである。ある意味、いつもすでにそこにいるかもしれないが本質的な臨床の仕事は、私をそれがあった所に現れるようにさせることなのである。

        | 1.サイコセラピー | 05:49 | - | - | - | - |
        倒錯について 10
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          Refusing the Sacrifice

           

          犠牲と強要の概念は確かに倒錯についてのフロイトの著作にないわけではない。それを最もはっきり見ることができる場所の一つはフロイトの「自我の分裂」の考察である。フロイトが強調するのは「自我の分裂」が倒錯では起き、神経症では起きないということである。 神経症では、矛盾した考えは異なったレベル、すなわち異なった審級に位置する。例えば、「義理の妹を抱きたい」という思考は抑圧され、無意識に存続する。一方、「義理の妹を抱きたくない」という考えが意識に存在するようになる。

           

          17)フロイトは、ある考えが id エス にあり、別の考えが自我にあると言っている。

           

          他方、倒錯においては、自我自体が(自我という審級それ自体が)分裂する。そして矛盾する思考 ー 女性はペニスを持っていると同時に持っていない ー が同じ(自我という)審級に並んで維持される。

           

          18)フロイトは、「知」knowledge の点から,この自我の分裂を理解するように促している。フロイトによると、女性性器の知覚が意識から追い出されるのは、父が男の子のペニスを切り落とすぞと脅しているのは本気なんだと暗示するからである。(実際、男の子は父が既にその切り落としをその子の母親にしたんだと信じている。)大事なものを失うのではという新しく認識された可能性はかなりの不安を招く。この不安は神経症の場合のように症候が不安を固定して軽減させるのではなく、一種の分裂( Spaltung )を形成して処理されるのである。この分裂は「知」の二者選択が無矛盾律の一種の局所的な停止により、並んで維持されているようなものである。つまり、「女性はペニスを持っていない」と「すべての人間はペニスを持っている」の二者選択である。倒錯者が、彼の周りの人たちが言うこと(「女性はペニスを持っていない」)をただ繰り返すだけの観念的な、繰り返しで記憶させられた「知」はあるかもしれないがしかし同時にあるレベルでは、その思考が倒錯者に不安を生じさせるのでそれは本当だという認識もあるかもしれない。しかし、これと並んで、すべての証拠を超えて信念を導くある種の主体的必然性がある。つまり、耐えられない知の否認である(それは今は小さいが、やがて大きくなる。)。倒錯者は女性がペニスを持っていないのを十分承知しているが、やはり持っているのではないかと感ぜざるをえない。(「わかっちゃいる、でも」) 神経症がセクシャリティを意味する両立しえない考えに対する防衛である ー 古典的な形式をとる否定を導くので、「私の夢に出てきた人は私のお母さんではありません。」という考えが意識になるのは「not : 〜ではない」をつけたことだけによる ー のに対して、倒錯では、フロイトによれば、一種の分裂を伴っており、イエスとノーを同時にいう。

           

          フロイトはこれを精神病にとっておきたかったであろう処理手続、つまり自我による部分的な「現実の拒否」として言及する。しかし、彼が分裂の概念を基礎付けるために提出した症例での記載は抑圧の症例とほとんど変わらない。というのは、神経症では抑圧されたものは二つの症候に姿を変えて回帰する。( 継続された自慰のために父に罰せられるのではないかと言うその男の恐怖と両方のつま先が触れ合うことに不安を感じやすいこと)症候形成には、フロイトが言う通り、争う二つの異なった審級が ーエゴとイド、すなわち、意識と無意識 ー 必要で、だから神経症の条件となんら変わらないものをここで持っているように思われる。すなわち、自我が抑圧によって意識と無意識に分裂するのである。 しかし、分裂と思われるこの症例を、どこで断念が(欲動によって供給される快を断念することが問題なのだが、スタンダード・エディションでは instinctual renunciation 本能的断念と訳されている)始まるかを理解するために注意深く調べてみよう。早期に年長の少女に誘惑されて女性の性器を知らされた少年はその少女との関係が壊れた後で彼の性器を触って快を覚えた。ある日、彼の子守が彼がそうしているのを見つけて、やめないとお父さんがそれをちょん切っちゃうと言った。フロイトが言うには、通常の去勢恐怖の結果、正常な人[神経症]とされる結果、直ちにであれ、かなりの苦悶の末であれ、少年はこの恐れに屈して、完全にあるいは少なくとも部分的にこの禁止に従う。(すなわち、もう自分の手で自分の性器を触らなくなる)言い方を変えると、完全に、あるいは部分的に、欲動の満足を放棄するのである。しかし、この少年は何の恐れも起こらないかのように自慰を続けた。彼は父の名の下に享楽を放棄することを拒否したのである。子守は彼の父が是認しないだろうから、父のために(さもなければ父は彼を去勢するだろうから)自慰をやめるように彼に求めたが、彼は拒否した。 享楽の喪失の可能性に直面した時に倒錯者と強迫神経症者は異なる方法で反応するとフロイトは暗に示す。強迫神経症者はしぶしぶであり、熱意なく、享楽の幾つかを後で取り戻そうとするを止めようとしないかもしれないがそれでも、その喪失に従う。彼は尊敬、承認、是認といった象徴的に同価値であるものをを求めて享楽を放棄する。あるものを得るために他のものを失う。彼は自分のペニスに対する自己愛的(想像的)愛着を諦めるように誘導されると言って良いかもしれない。そのペニスがラカンの言う想像的ファルス、φ、で、自己愛的に備給されたペニスである。そして、それは彼に自体愛的な喜びを与え、社会的、象徴的なレベルで何かを得ることができる。彼は、Φのためにφを諦める。Φはシニフィアンとしてのファルスであり、社会的に認められた価値と欲望のシニフィアンである。ラカンがハンスについて言うように、ある意味で、少年は父親の, より大きくて、より良いファルスを得るために自分の小さいファルスを差し出さなくてはならないのだ。しばしば、父のファルスは結局、十分に大きかったり、よかったりしない。しばしば全く不十分だと思われ、少年は酷い仕打ちを受けたと感じ、父に対して永遠にそれを忘れないだろう。それでも自体愛の幾つかは強迫神経症者によって、明け渡され、断念され、譲り渡されるのである。

           

          20)何はともあれ、強迫神経者の自体愛的な行動は変形される。というのは、自慰を続けると、それは父の禁止の無視であり、こうしてこの禁止が自慰行為の重要な部分になる。大文字の他者はそれに伴うファンタシーに(もちろん、必ずしも意識的にではないが)含まれるようになる。例えば、私の女性のクライエントの一人は、力強い男性にじっと見られていると幻想しながら自慰を続けた。 大文字の他者に快を引き起こすことも、フロイトがそれを概念化した通り、昇華の言葉で理解されうる。

           

          一方、倒錯では、この快を譲り渡さないし、彼の快を大文字の他者に譲らない。フロイトは何度も、倒錯者は自分の快、すなわち(彼のファンタジーの中で)自分の母親ないしその代理に関係した快を断念しないと主張している。

           

          21)フロイトによると、幼い男の子の自慰的行為は普通は自分の母親についてのファンタジーと関係している、つまりそれはすでに愛他的 alloerotic であることを暗示している。

           

          言葉を変えると、他者を伴うということである。甚だしきに至っては、とても幼い年齢より他は、自体愛なんてものはないと主張する。両親が最初にある感覚帯を刺激し、それらに関心を示し、それらに注意を払い、それらに気配りを与えるなどをする限りにおいて、幼児が自慰的に触ることですらすでに両親と関係がある。他の人々とのつながり、それは常に自体愛的行為を伴う大人のファンタジーでは明白なのだが、それなしにはこのようなものとしてのエロティシズム 性欲はないのではないかというぐらい基本的なものである。すべてのエロティズム 性欲は愛他的なのである。 なぜある少年はそれを譲渡し、ある少年はこばむのか? フロイトはこの拒絶を体質的因子で説明することがある。つまり、倒錯者の欲動は神経症者のそれよりも強く、神経症者にはできるやり方では、服従させられたり、手なずけられたりしない。しかし、違う説明が可能だと思われる。以下を考えて見よ。 臨床的な著作や毎日の観察から、母親たちはしばしば夫たちに不満足で、子供たちとの関係に人生の満足を探す。母親が女の子より、男の子を人生におけるすべてをもたらす補完物としがちだと臨床的にも確かめられているが、それは子供の性(もちろん性の社会的な意味で)によると仮定し得るのみである。

           

          23)例として、小さなハンスの母親の行動を考えてみよう。彼女は娘ハンナは叩くのに、息子は自分のベッドに入れ、風呂にも一緒に入るというようなことをしていたのである。

           

          さて、息子のペニスに対する母親の関心は男性の性的器官に享楽が局在化するのに寄与する。母親が息子のペニスに大きな価値を置く場合には彼は極端にそれに愛着するかもしれず、自己愛的に言うと、母親とのエロス的な関係全体がペニスをめぐって行われる。しばしば、このような息子は母親から離れろといういかなる要求に対しても精力的に抵抗を示す。その闘争は、たとえペニスに対するいかなる威嚇がない場合でさえも、ペニスに集中しやすい。(このような直接の威嚇は思っている以上にしばしばなされる。)

           

          24)倒錯者が自分のペニスに強い自己愛的愛着を示すことや、過剰な欲動を持つことについてフロイトが話すときにその意味をどうとるかを私は次のように考えている。欲動はその源が体質的でも、生物的なものでもなくて、大文字の他者の要求の機能として存在するようになる。(例えば、肛門欲動は子供が排便訓練されるように、というのはこれは排泄機能をコントロールすることを学ぶということなので、両親が要求することで存在するようになる)倒錯者の欲動の強さは倒錯者のペニスに関して、大文字の他者としての母親が持つ関心や要求にその原因がある。

           

          母親が同じぐらいの程度まで娘を自分の補完物と受け取らない、人生においてこれほど強い満足に関して娘を当てにしない、彼女らの性器ににこのような大きな関心を示したりしない限りでは、母親と娘の関係は同じ程度まで性愛化するのは稀で(精神病の場合でも、そうだろう)、普通女性の場合には享楽は普通象徴的に男性と同じような形で局在化することはない。母親からの分をめぐる父親との闘争も同じように危機に陥ることはないし、特定の器官に集中することもない。フェティシズムは倒錯の中でも重要な理論的な位置を占めていて、性的器官の代理に大量のリビドーを局在化することを伴っているが、これは少女では少年に比べて極めて限定的にしか行われない。 父親は母親から娘を分離するのにはあまり苦労しないことが多い。(息子との場合のようには娘と争っていると感じないし、娘にそうするのが重要だとも感じないかもしれない。)それでも、父親が効果的でない場合、倒錯の特徴を持つヒステリーになったり、父親が一切介入を拒否した場合には、精神病になったりしやすい。 これは、ある程度、倒錯者に関して語るときに私が男性代名詞だけを使うことを説明している。精神分析用語では、倒錯は事実上もっぱら男性用の診断名である。実際ラカンは「女性のマゾヒズムは男性のファンタジーだ」とまで言う。

           

          27)同様にラカンはドンファンは女性の夢であり、何も欠けることのない男性を夢見ているのだと定義している。彼はまた、ドンファンを女性の神話であるとも言う。ラカンは女性のマゾヒズムなるものは絶対にないと言ったのではなくて、むしろ彼が言いたいのは、男性はマゾヒズムを女性の中に見がちなのは男性がそれを女性の中に見たいからで、男性がそう信じたいほど、女性のマゾヒズムはほとんどいないということである。 男性はこの女性はマゾヒティク(後で見るように、彼女は彼の中に不安を生じさせようとしているということを意味する)だというファンタジーを通して、彼自身の不安に夢中になる能力を維持し、彼にとって正に彼の欲望の条件(欲望に是非との必要なもの)として提供される対象と一致するのである。欲望はただ単に不安を覆い隠したり、偽り隠すものではない。「男性の領域には、常にある種のペテンがある。」、masuquline masquerade 男性の仮装と名付けたい誘惑に駆られる何かである。

           

          そして女性同性愛を倒錯ではなくて、異性愛 heterosexuality だと述べている。つまり、大文字の他者の性、すなわち女性を愛することである。Homosexuality を、Hommosexualite とラカンは綴り、homme, つまり「男性」から二つのmを含ませ、男性を愛することとしている。

           

          28)「当人の性にかかわらず、女性を愛する人たちを定義によって異性愛 heterosexual と呼ぼう。」

           

          男性は倒錯に関しては弱い性であるというラカンの主張は、確かに私たちの思考をためらわせるが、ここで提供できる以上の説明を保証している。

           

          29)ジャック・アランミエールの On perversion からの引用

           

          ” 女性の倒錯 Female Perversion “

           

          女性の倒錯をその姿がないところで探さなくてはならない。女性の自己愛はその概念を拡張することで、倒錯と取れるかもしれない。女性は正確な意味では大文字の他性であり、大文字の他者は鏡の前で多くの時間を費やす。自身を正しく認知するあるいは多分、自身を大文字の他者として認知するために。これは神話かもしれないが、とても大切なことである。女性の倒錯を自己愛の中に、その人自身のイメージの核に、あるいはフロイトが言ったように、子供の中に ー 子供は満足の対象として用いられる ー 認めるかもしれない。 後者の場合、母親と想像的な対象、すなわちファルスがある。ここでの母親は男の子の倒錯の原因であるが、同時に子供を享楽の道具として使う。前述の公式に従うと、これは倒錯と呼びうる。最初の倒錯のカップルは母親と子供だったのか?ラカンは50年代には、隠された女性の倒錯の表現を見るかもしれないのは母親自身の体と子供の結合においてだと示した。 女性同性愛が男性の器官を除外する限り、それを固有の倒錯に登録するにはいささか困難がある。ラカンは女性同性愛の社会的重要性はないと言った。フロイトに従うと、男性同性愛は基本的な社会の紐帯である。すなわち、社会の紐帯の原理である。女性同性愛は機能がない。大きな文化的重要性はあるかもしれないが基本的な社会的重要性はない。 「もしそれが倒錯でないならなんと呼べばいいのか?」と聞くかもしれない。「女性同性愛」あるいはおそらく、「それをラカンは「女性に対する愛」と定義した異性愛 heterosexuality 」といっそ呼んだ方がいいのかもしれない。ヒステリーの女性同性愛を考えねばならない、女性が分析に入るとそれが魔術のように消え失せる。彼女が分析家を接近できないものとして愛することができる限り、女性同性愛で実現された愛への希求は直ちに転移へと移行し、あなたは魔術的な治癒の目撃者になるだろう。他のものはとても長い時間がかかる。 率直に言って、私にはラカンが言うこの母と子の関係の倒錯的特徴と、倒錯構造とが同じものなのかどうかはわからない。

           

          なぜある少年は快を諦めることに同意し、他の少年は拒否するのかの疑問に戻ると、母親と息子に非常に緊密な結合のある症例において、父は、分離をもたらすために、脅迫において全く力強くなくてはいけないし、そして、あるいは尊敬と承認の約束を全く確信させなくてはいけない。このような緊密な結合が形成できるようになった、まさにその事実が、父が父の機能を果たせないことと介入しようと思わないことを示している。( 多分、その父は妻から一人にされるのを喜んでいて、そうすれば、妻は息子を独占できる。 ) 父はある精神病の父親の張り合う残忍性は避けるものの、彼自身を象徴的分離者( 「これは俺のもの、そしてあれはお前のもの」という人、つまり、子供に象徴的空間を与える人 )の位置に強力におくことはしない。たとえ彼がそうしようとしても,少年の母親によって陰険な手段で傷つけられているかもしれない。その母親は父が背中を見せた時に、少年にウインクをして、彼に特別な関係はかき乱されず密かに保たれていることを知らせる。 私には焦点をフロイトが存在すると仮定してきたと思われるそういう父、つまりの息子を母親から分離させようとする意思を力強く宣言する父( 倒錯者は頑固に拒否する息子である)から平々凡々とした現代の父、より弱い姿でそして彼の役割についてしばしば混乱する父へと移行させなくてはならない。

           

          30)忘れてはいけないのは、このような弱い父は少なくとも古代ローマに遡れば文献上たくさん認められることと、19世紀以来、父がかなりの力を無くしたというのは少し証明不十分であるということである。

           

          母親ー息子の結びつきが強く、弱い、あるいは無関心な父の場合では、父の機能は全くないわけではないが、後押しが要るのは尤もである。8 章の終わりに言ったように、ハンス坊やのような早期の幼年時代の恐怖症は、4歳を中心として現れ、恐怖症において中心となる対象(ハンスの場合は馬)母親と子供の分離に寄与する Name -of- the-father 父の名 として役に立つ。ハンスはある特徴を馬に与え、それはとりわけ「anger 怒り 」であり、ハンスの母親との特別な結合に関して父に示してほしいものだった。(「あなたは怒っている。そうだろう。そうに違いない。」)でも彼は決して父がそうするのを認めることができない。倒錯では、早期の幼年時代の恐怖症のように父の機能の部分的な不全から生じ、この機能は後で分離をもたらすために付け加えることを必要とする。フロイトがしたように、倒錯者は享楽を犠牲にするのを拒否したり、母親や、母親の代理(例えば、フェティシュ)との関係から得られる享楽を維持しようとすることを強調することよりもむしろ我々は父の機能がで不十分あることを強調する必要がある。 否認 disavowal は防衛機構として記述されうるが、その防衛は子供が享楽を犠牲にしろという父親の要求に対するものであるが、その代わりに、ハンスの恐怖症のように単に回避的なものとしてではなく、不安を和らげる分離が起こりうるように父の機能(父の法において表現される)を支える試みとして、それを見る。大文字の他者がその法を宣言する試み、つまり、法の場を示す試みとしてである。ラカンの見方では、大文字の他者としての母からの分離はある点(分離に際して、対象が失われる、あるいは消え失せる)では不安を生み出すかもしれないが、より深いレベルでは、つまり存在のレベルでは、普通は救われるのである。ハンスは意識レベルでは母親が行ってしまうのを恐れているが無意識的には彼女が去ってくれれば、彼女に関わりのない欲望を持てるのにと望んでいるのである。彼の分離不安は彼の母親とうまくやり続けたい、言葉を変えると彼女からある快を得たいという希望を反映するが、同時にうまくやることをやめたいという希望、享楽を終わりにしたいという希望がある。というのは享楽は彼を飲み込み、彼が欲望する主体となるのを止めるからである。

           

          31)以下のやり取りの中で子供が母親以外の女性に欲望を示した時に、彼に罪悪感を感じさせて彼が母親以外の女性に欲望を持つことを防ごうとする母親のやり方を考えよう。 ハンス「ああ、下に行ってマリドールと眠りたい。」 母親「本当にママから離れて、下で寝たいの?」 ハンス「ああ、朝になったらまた上がってきて、おしっこするよ。」 母親「いいわ、あなたが本当にパパやママから離れたいなら、上着とズボンを持ってらっしゃい。バイバイ。」 このように彼の分離不安は実際には分離、母親からの分離に対する希望を示している。

           

          享楽は単に過大評価されている。すべての人が実際に欲しがるほど素晴らしいものではないが、倒錯者はそれを諦めることを拒否し、それに惹かれ、それを獲得する唯一の存在であろう。

           

          32)実際フロイトが言う通り、(倒錯者でないならば)快感原則が我々に緊張と興奮の可能な最低のレベルを成し遂げさせるだろう。

           

          前章で見た通り、精神病者は身体に制御できない享楽の侵入を受けたために苦しんでいる。神経症とは享楽に対する戦略であり、とりわけその取り消しである。倒錯も、享楽に対する戦略であり、それへの限界を置く試みである。

          | 1.サイコセラピー | 06:08 | - | - | - | - |
          倒錯について 9
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            A First Symbolization

             

            ここで特に言及すべき大事なことの一つは、意識から放り出されるのが思考であるなら、その時少なくとも最初の象徴化は行われていたということである。すなわち、倒錯において、父に関係する何か、そして息子を母親から分離しようとする父の意志が象徴化され、精神病とは対照的に、象徴的な分離者としての父親の最初の受け入れすなわち Bejanung 肯定、是認 (admission 承認、容認)が起こる。フロイトが治療した倒錯患者についてのフロイトの臨床報告を我々が理論化したものに基づき、去勢に関係した症候が形成されるので、父は少なくともある程度象徴化されると主張できる。

             

            13) 言葉を変えると、何らかの抑圧が起こっていたのである。何かが意識の外に押し出されるなら、それは初めは意識の中にあったのであり、象徴化されていたのでなければならないことに注意せよ。

             

            しかしそれでもこの象徴化は神経症で成し遂げられるほど完璧ではない。 ここでの私の目標は抑圧とは明らかに異なったメカニズムとしての否認をフロイトが確定的な定義をしていないことを徹底的に批判することではないので、ラカンの思考の文脈の中で、我々が参考にして否認と取れると私が思うことを最初にお示ししようと思います。( 私が知りうる限りでは、ラカンは否認をこれから私がしようとする様には決して明確には述べていませんが。)そしてその上でフロイトのいくつかの議論をラカンの用語になおしたいと思います。つまり、the Other 大文字の他者 と the sacrifice of jouissance 享楽の犠牲 という用語です。ここでの私の主張はフロイトがしようとした区別の方法とは違いますが、否認は抑圧からははっきり区別することができるメカニズムだということです。 原抑圧、排除と同様に、否認は父に関わっています。すなわち、父の欲望、父の名、そして父の法です。神経症、精神病、倒錯、の3つの本質的な精神分析の範疇はこれら3つのメカニズムから構成されますが、すべて父の機能と関係しています。(我々の社会では父の機能は典型的には子供の父によって成し遂げられる。)この点はフロイトの著作の中では、ラカンの著作の中ほどには明確ではない。この点で、ラカンはフロイトの著作を体系化したと見なしうる。

             

            14) 言語、法、象徴界の重要性に重きを置かない理論家や実践家はラカンがフロイトを不適切に体系化し、母親の大切さを無視してきたと考えがちである。しかし、フロイトを丹念に読めば誰でもわかる通りフロイトの著作を通して父は極めて重大である。ラカンは単に前エディプス期の重大さを強調するフロイトの批判者に論駁する手段をフロイト派の人たちに提供したに過ぎない。すなわち、言語と法の出現に伴い、前エディプス期は書き換えられ、上書きされる。「前性器期はエディプス・コンプレックスの遡及的効果によって体系化される」(Ecrits, 554/197)

             

            エディプス・コンプレックスは、それに時間的に先行するものに対して遡及的効果を及ぼし、それが象徴的な操作であることを暗示する。意味する過程にとっては、セットに新しいシニフィアンが加わること(例えば、「father’s NO!」が、[name-of the-father, father’s name, name give by father]のセットに加わる)が以前言われたことの意味を変化させる。精神分析では話すことが勝手に使える唯一の道具であるから、分析家として我々が扱っているのは遡及的に構成される意味に他ならず、それらに先立つ前エディプス的な関係ではない。 7章で見たように、フロイトはパラノイアを同性愛の衝動に対する防衛から生じるとしたが、ラカンは同性愛は精神病を理解するのに的外れではないが、むしろ父の名の排除 foreclosure の結果であるという。同性愛に対する防衛は精神病の原因ではなく、排除の副産物となるのである。同様に、フェティシュな対象はフェティストの意識の中で俗に母のファルスと呼ばれるものと関係しているというフロイトの概念はラカンの考え方からは不適切なものではないが、むしろ、父、父の欲望、父の法の見地から理解されるのである。母のファルスを確信することは後で見るように、母の欲望を作り出す欠如が父によって神経症の場合のように、相殺されていない、すなわち名付けられていないことが示される。

             

            15) これはラカンのカテゴリーを使うことでフロイトの用語を明確にされる必要がある例の一つである。すなわち、フェティストは彼の母親がペニスを持っていると信じている。そのペニスは実際の、生物学的なもので、ファルスではない、というのはファルスはシンボルだから。言い換えると、ファルスは象徴的秩序の重要部分だあるということである。ラカンは漠然と子供が盲信しているその器官を 想像的ファルス the imaginary phallus ということがあるが、子供が母が持っていると想像する実際の(器官としての)ペニスを意味すると理解されるべきである。

             

            言い方を変えると、ラカンはフロイトの観察が不適切だと考えているのではなく、それをより広い理論的枠組みに包摂しているのである。

             

            ラカンの見方からは、否認に内在する明らかな矛盾は、私には、以下のように記述されると思われる。「僕はお父さんが僕にお母さんやお母さんがいることで(実際に、あるいはまた、幻想の中で想像された)得られる享楽を諦めるように無理強いしないし、できないことを強要しないこともよくわかっている。でも僕はお父さんの代わりの誰かと,このような強制や強要を演じようと思う。その人に法を宣言させよう。」この明確な記述は、後で見るようにサディストやフェティシストよりもサディストによりよく当てはまるが、否認が父親の機能に関してのある企てあるいは見せかけを意味していることを示すには十分である。

            | 1.サイコセラピー | 05:08 | - | - | - | - |
            倒錯について 8
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              Disavowal 否認

               

              いくつかの異なったテキストで、フロイトは彼が Verleugnung と呼ぶ過程を記述している。これは英語では disawoval と翻訳されたが、様々な点で denial の方が元の意味に近い。( 実際、フランス人は denial に意味や使用法が近い deni の方が好まれてきた。) フロイトはある少年たちに見出した奇妙な態度を説明するためにその概念を発達させた。彼らは少女の外性器を見たときに、少女がペニスを持っていないことを否定し、実は彼らはそれを見たと主張する。例えばハンス坊やは生まれて7日目の妹がお風呂に入れられているのを見て、「彼女のおしっこをするものはまだすごく小さい。彼女が大きくなれば、それもちゃんと大きくなるよ。」 フロイトは、このような症例では、女性性器の知覚あるいは視覚が否認されるといい、このことを定式化している。もう少し年長の男性患者では女性がペニスを持っていないことに関して二重の態度をとることに注目している。つまり、彼らはその知覚を否認し、フロイトが母親のファルスと名付けた信念を維持しながら、この知覚がそれでもあるレベルには登録されていることを示すと思われる症状を発現させる。特定の知覚の記憶が単に暗点化されたり、人の心から何らかの方法で(我々が大まかに排除について考えるように)除去されたわけではない。影響があるのでそれがなおそこにあることを我々は知る。それは症候を生じさせる。しかしそれでもなお否定されているのである。「防御過程における自我の分裂」においてフロイトはこのような症候を二つ述べている。すなわち、( 持続された自慰行為のために )父に罰せられるのではないかというある男性の恐れと、彼の両足の小指がものに触れた時の不安な過敏さである。 このように記述されると、否認は抑圧にとてもよく似ているように思われる。つまり、記憶を意識から追い払い、そしてその記憶が症候の形で帰ってくる。実際、フロイトは最初に抑圧されるのは情動で、一方否認されるのはその感情に関係した思考であると提案して抑圧と否認のはっきりした区別を考案しようとした。しかし、この最初の試みは、観念や思考のみが抑圧されうるというフロイトのより厳しい、繰り返された主張と矛盾する。神経症において、情動と、その情動に関係した思考( Strachey はフロイトの用語 Vorstellungsrepraesentanz を ideational representative と翻訳した。)が解離するようになる。例えば、自我や超自我が矛盾している、あるいは受け入れられないと考えるとみなす性的衝動を表す思考が抑圧される一方、その思考に伴う情動は解き放たれる。フロイトが「自我の分裂」で与えた記載では、抑圧と否認は同じものに陥っているように思われる。

               

              分離を通しての主体が存在するようになることはフロイトの原抑圧の概念と関係している。フロイトに従うと、無意識には、Vorstellungsrepraesentanzen 表象代理 が含まれ、これを文字通り訳すと、representatives of the (re)presentation or idea 表象あるいは観念の代理 となるが、通常は ideational representatives 観念的代理物 と英訳されている。それらは欲動の心的代理である。フロイトの見方によると、抑圧されるのはこれらの代理物であり、知覚や情動ではない。しかし、フロイトはそれらの代理物の座を実際には決して正確には確定していない。フロイトは、無意識は原抑圧を通じて構成されると書いている。原抑圧は抑圧の最初の相であり、欲動の心的(観念的)代理が意識に入るのを否定されることからなる。これとともに fixation 固着 が確立される。当の代理はその時以降変わることなく存在し、欲動はそれにくっついたままとなる。原抑圧は無意識の核を形成し、他の(表象)代理はそれと結びつきを確立し、結局はその存在を無意識に引き込まれるようになるかもしれない。 ラカンは我々がこの代理とシニフィアンを同一視することを提案する。そのシニフィアンは観念化のレベルでは欲動の代理をする。それは表象や思考のレベルである。シニフィアンは欲動を言葉によってなになにだと述べることを許す。つまり、ランガージュの存在として(欲動を)我々の心に浮かばせるのである。Vorstellungsrepraesentanz 表象代理 とシニフィアンを同じものだとすることから始めて、抑圧はラカンによって無意識の創設を導くものとして一対のシニフィアンを基盤に概念化された。つまり、ラカンがs1として表す「一なるシニフィアン」と 対となるシニフィアンs2である。この対となるシニフィアンこそが原抑圧で抑圧されるものである。( [The Lacanian Subject 」p73~74)

               

              フロイトが強調しているように、抑圧は表象の次元に属するものに関わっており、それをフロイトは Vorstellungsrepraesentntanz と名付けているということである。抑圧されているのは「表象」の「代理」である。我々はこの Verstellungsrepraesentanz を疎外の最初のメカニズムに関する我々のシェーマの中に位置づけることができます。このシェーマはシニフィアンの最初のカップリングであって、これによって我々は、主体がまず大文字の他者の中に現れることを理解できます。それは最初のシニフィアン、すなわち一なるシニフィアンが大文字の他者の領野に出現する限りのことであり、またこのシニフィアンが他のシニフィアンに対して主体を表象する限りにおいてです。そしてこの他のシニフィアンは主体のアファニシスという効果を持つことになります。ここから主体の分割という事態が生起します。それは主体がどこかで意味として現れる時、別のところで主体は消失 fading として現れる、ということです。ですから、そこには、一なるシニフィアンと、主体の消失の原因である対となるシニフィアンとしての主体との間に、生と死という事態が存在するのです。この対となるシニフィアン、それが Vorstellungsrepraezentanz です。 このシニフィアンこそが原抑圧 Urverdraengung の中心点を構成することになります。すなわちフロイトの理論に示されているように、無意識へと移されて引力となるものの中心点を構成するようになります。(「精神分析の四基本概念」p292〜 )

               

              1938年からの論説で、抑圧を否認から区別する二回目の試みを行う。抑圧は患者自身の性的衝動の一つ( 内的世界からの本能的要求 )が消失し、一方否認では現実の外的世界の一部分が消失するとした。これをより厳しく言うと、抑圧では患者自身の欲動の一つに伴う思考が心から追い出され、( 欲動に伴うリビドーや情動の量は自由に移ろい、あるいは置き換えられる。)否認では現実の外的世界の知覚が心から追い出される。 しかし、これは事態をより悪くしただけで、フロイトが言うには、現実の外的世界の一部分がペニスの欠如である。はっきり言って、何かが欠けていることを見たり、知覚したりすることはできない。つまり、人はそこに見られるはずの何かを見るのであり、不在の何かは見ない。ペニスの欠如(あるいはそのことに関わるほかのもの)は知覚の問題ではない。つまり知覚のレベルでは欠如はない。そこでは世界は満ちているのである。人は何か特別に期待している場合にのみ、無を見、そして精神的にその不在に気づく。完全な暗室を除くと、人は常に何かを見る。杆状体と衰退にには常に衝突する光子がある。無は思考のレベルだけに存在する。 ここで問題なのは知覚そのものではない。フロイトが言うように、網膜上のスコトーマ、すなわち暗点があるかのようにフェティストは見えるべきものが妨げられているということではなく、つまりある光子を受け取るのを彼がやめているということではない。特別な知覚に関係する思考が問題なのである。見ることは信じることではない。 フロイトの1938年の、内的世界に関連したものとしての抑圧と、外的世界に関連したものとしての否認の区別は彼の1924年の神経症的不安と現実不安の区別を思い出させる。神経症的不安は内的危機から、つまり患者自身の自我や超自我によって不適切だと考えられる患者の内部にある衝動に基づき、それに対して現実不安(フロイトは恐怖ともいう)は現実の外からの危険に基づく。しかし、否認が明白に知覚に関連した思考に関係する、すなわち、一般的には主体の内部にあると考えられ、主体の心的現実の一部であるものに関係するので、単に知覚だけではないので、内部対外部の区別は崩壊する。抑圧も否認も知覚ではなく思考に関わっているのである。 フロイトの内部/外部の区別を批判した上で、現実の外的世界の知覚を心から締め出すことを否認とみなすフロイトの見方が、現実の外的危険から生じるとされた現実不安の定義と同じく、客観的な現実性への素朴な信念によっていることも指摘しておこう。議論のために、特定の危険は外部のものだと受け止めよう。仮に、山のキャンプ場付近でヒグマを見たり、声を聞いたりしたとすると、想定される危険の現実性というものについて我々は何を言い得るのか? 経験豊かなキャンパーは(長い経験に基づいて)クマは100ヤード離れた木に注意深くぶら下げてある食べ物だけに興味があると信じているかもしれないが、それに対して新米はクマは執念深く、怒らせなくても人間を襲いがちだと信じているかもしれない。しかし、慣れたキャンパーでも百回に一回は間違うかもしれない。その時には我々は新米の明らかに神経症的な不安が実は現実的なものであると言えるのではないか? 例をニューヨークに変えよう。我々が特定の裏道を歩く100人の女性のうちの一人が強姦されることを知っていると仮定しよう。そこを歩く女性の恐怖は現実的で、神経症的ではないと我々のほとんどが言わないだろうか?何が現実の危険かを誰が言えようか?分析者は外部の危険が現実的かそうでないか、つまりそれが危険かどうかをを決められるのか?現実性に訴えることには常に問題がある。現実的 対 非現実的、そして 現実不安 対 神経症的不安 はせいぜい曖昧なもので、もっともらしい内部/外部の区別と一緒になったらなおいっそう疑わしくなる。 心的現実の他のすべてに優先する重要性と、現実の社会的/言語的構成をある種の客観主義者の現実の見方を比べて論じてきたが、フロイトの区別を以下のように再定式化しようと思う。すなわち、抑圧において、患者自身の欲動の一つに連合する思考が意識から追い出されるが、それに対して否認では一つの思考や思考の複合、それは女性性器の知覚や父親による仮想上の去勢不安(坊やを母親から離し、そして自慰させないようにするための)そしてペニスに対する患者の自己愛的な愛着に関係した思考や思考の複合であるが、それらが意識から追い出されるのである。

              | 1.サイコセラピー | 08:52 | - | - | - | - |
              倒錯について 6
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                倒錯について 6 「倒錯について」ということで1〜5までは Dor の The Clinical Lacan から主に引用したが、この中で彼が倒錯のキーワードとしているのが、defiance と transgression である。しかし、これらが倒錯である(倫理道徳的な意味ではなく、構造的なものとしての)というための必要十分条件ではない。あえて言えば、十分条件である、がしかし、倒錯に気づくためには大切な概念である。それでは倒錯であるということ同値なもの、つまり必要十分なものは何かというと、「否認 disavowal 」となるが、クライエントが、抑圧ではなく、否認を使っているとどのようにして鑑別するのかというのが実は大問題なのである。倒錯は、性倒錯と同値ではないのは当たり前のことなのだが、現実には了解されていると言い難い。この問題を引きずりながら、さらに「倒錯化したヒステリー」なるものに出会うと、今までの自分の鑑別診断が根こそぎひっくり返されるような思いになる。 一方、「倒錯者はカウンセリングに来ない」という格言?があり、倒錯者はカウンセリングで扱うことのない人たちとされ、大事なのは神経症と精神病の鑑別だとされるが果たしてそうか? 結論的にいうと前述の格言は「(神経症者ではなく)倒錯者だとカウンセラーに見抜かれた人はカウンセリングに来なくなる」と言い換えられると感じる。 それではなぜ倒錯を述べるのかというと、もちろんごく少数ではあるがクライエントとしての倒錯者にどう接していくかということもあるのだが、むしろ、誤解を恐れずにいうと資本主義を成熟型とした場合、今の日本を、特にきちんとしたヒエラルキーからなる法ではなく、「変な法」に支配された(資本主義の)未熟型だと考えるとあまりに符合することが多いからである。この倒錯型社会で対人関係に悩む人の中には、成熟した社会でそれに悩む人とは違ったやり方があるはずであり、(資本主義として)成熟した社会を前提としている精神分析のやり方に何らかの変更を加えなくてはいけないのではないかと思うのである。 「倒錯について 7」以降は、A Clinical Introduction to Laconian Psychoanalysis Theory and Technique Bruce Fink の Perversion の章を読んでいこうと思っている。今日本で新たに出版されているラカンに関する本は、従来のものに比して数段優れているが、ラカンの疎外から分離そして幻想の横断へと向かう流れの中で、分離について Fink と若干意見が違うものがあるように思われるが、彼の倒錯の議論では、この分離がうまくいかないものが倒錯だという考えなので、Fink に従って論を進めていくとそれらの本とは齟齬をきたすかもしれないことをあらかじめ述べておきたい。さらに、Fink は註の中でかなり大事なことを述べているので、訳文の中に註を番号を振ってそのまま出してあるし、参考文献が大事な場合は、Fink の指示している範囲を超えて訳したところもある。そのため註が長くなっているところがあるので、それも了解いただきたい。本当は原文では、本文、註、私が補足したことをそれぞれ色分けしているのだが、ブログにすると、エディターの選択によりその色別ができないことがあるので、図を使えないこととともにお許し願いたい。
                | 1.サイコセラピー | 08:41 | - | - | - | - |
                倒錯について 7
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                  PERVERSION 倒錯


                   倒錯は大文字の他者のファンタジーに姿を変えて、神経症者の無意識の中に存在する
                  欲望は防衛である。享楽へと至る限界を超えることに対する防衛である。(ecrits 825p)


                  精神分析的に言うと、ほとんどの臨床家は倒錯と正確に見なせる多くの患者を見ていない。かなりの数の現代の米国の分析家が治療中の倒錯者はありふれていると信じているように思われるが、この本で紹介してきたラカンの基準の用語で評価するならば、倒錯者と普通に言われる人々のほとんどすべてが実際には神経症者あるいは精神病者と判明する。

                   

                  1)例として、Robert J.Stoller, Sex and Gender を見てみよう。ストーラーによって議論される人々の多くが倒錯者としてよりも、精神病者としてよく理解される。

                   

                  現代の精神科学は、それとしては、我々の倒錯の理解を多少なりとも拡張していない。フロイトが我々にそれを話すことをするのが最高なので、新しく「様々なもの(行為)に名前をつけるがそれ以上は何も言わない」ので、精神医学は人々を性的に興奮させる特定の対象を記述する立派な新しい用語を提供してきただけである。例えば、小児性愛、窃触症、服装倒錯的フェティシズム、等々。

                   

                  2)これらの「素晴らしい」診断区分はDSM R では、paraphilias パラフィリア という一般的カテゴリーに含まれている。このあまりに広く使われすぎているマニュアルの著者の精神科医たちはより科学的に響く用語 paraphilias を、政治的には正しくないと思われる用語 perversionを避けるために、採用したと思われる。しかし、この paraphilias に関する詳細な論議では最もひどく政治的で道徳的な言葉を使い続けている。例えば、「パラフィリアのイメージは比較的無害なものである」「正常な性行為はその人の性的なパートナーを触ったり、愛撫したりすることから性的興奮を意味する」などである。


                  ラカンは、我々が倒錯の本質を現実界、想像界、象徴界の間の、そして欲望と享楽の間の彼の重要な区分にによってよりよく理解できるようにしてくれた。もし神経症が両親によって課された決定的な享楽の犠牲ー去勢ーに反抗して(偽装した形で享楽のわずかな量を取り戻そうと試みること)そして、法に関して欲望するようになることによる一連の戦略であると理解できるなら、倒錯は限界が享楽に向かえるように法を支える試みを意味する。(これがラカンのいう「享楽への意志」である。)それに対して精神病では法が全く完全にない。神経症では決定的な法の設立(幻想の中でしか打ち負かせない)が、そして倒錯では、主体は法を存在させよう、一言で言うと大文字の他者を存在させようとする。例の通り、ラカンの著作はフロイトのそれから生じているので倒錯についての私の議論をフロイトの区別の幾つかを取り上げることで始めよう。


                   

                  The Core of Human Sexuality 人間の性行為の核


                  もし、生殖以外の目的で行われる性活動が倒錯であるというフロイトの初期の主張から出発するならば、人間の性的行動は倒錯であるという事実を受け入れなくてはならない。我々すべてが多形倒錯として、つまりより高い目的あるいは適切な対象や開口部について何も知らない快を求める存在として、人生を始めるように、倒錯はまさに人間の性の核心にある。そして、一生を通じて、種の再生産に必要とされる以外の形式で、快を求めることだけのために快を求め続けるのである。

                  もし、「正常な」性活動というものが, 「全体像」つまり、そのパートナーはパートナー自身を欲望されるのであり、パートナーが持つ、あるいは具現化している特定の属性を欲望されるのではないという概念から出発するのであれば、そこで我々は再び人間の性行動の大部分は倒錯的であるという事実を受け入れなくてはならない。前の章で見たように、強迫神経症者は彼のパートナーを対象 a に還元し、パートナーの「大文字の他者性」を無効化し、ヒステリー者は彼女のパートナーを欲望するというよりはむしろ彼女のパートナーを通じて欲望し、パートナーに欠けている対象になろうと欲する。性的なパートナーは、それぞれの(強迫神経症者やヒステリー者自身の)目的とはなりえない。カントのいう何かそれ自身のために追い求められるものではない。何か他の利己的な目的、快を成し遂げるとか、愛されていると感じること、それに類するものではなくて、パートナーが何かを持っている(それは欲望を生じさせる欠如にすぎないかもしれないが)、そしてそれは我々に何らかの意味があるから追い求められるのである。ラカンが言うように実際、対象 a はそれについて何かフェティッシュなものがある。

                   

                  3) Ecrits 610 p 参照。「シニフィアンの切断で捉えられる対象としてのすべての倒錯の根源的なフェティシュと、大文字の他者の欠如を埋め合わせる万能のシニフィアンとしての恐怖症の対象の区別を(ラカンは)自分の聴講生に教えてきた」

                   

                  前章でも見たように、我々から愛を引き出す対象は、欲望を引き出す、あるいは我々に享楽をもたらし得る対象と必ずしも同じである必要はない。

                  どちらかあるいは両方の概念(あるいは同様の概念)から出発しても、事実上、すべての人間のセクシャリティは倒錯であると述べざるをえない。倒錯者 pervert、倒錯的 perverse、倒錯 perversion という用語を、セクシャリティが自分たちと違う人たちを非難するために用いる人たちがいるので、すべての人間のセクシャリティは事実上、本質的に倒錯的であると単純に断言してそのままにしておくのがある読者には政治的に好都合であろうことは確かだろう。実際、ラカン派の精神分析者は所与のセクシャリティの倒錯的な性質を当然のこととして、すなわち正常としている。

                  しかしラカン派の精神分析者が関心を持つのは否定の特殊なメカニズム、つまり否認 disavowal (フロイトのいう Verleugnung )は、みんなが倒錯者だと思う、そして現代の心理学者によって倒錯だとされる人々のほんのわずかの人にしか見られないもので、抑圧とは明確に区別されるメカニズムである。(少なくともこのことを本章で明らかにしたい)このメカニズムが働いているのが、あれこれの性的行動それ自体ではなく、分析家がある人を倒錯と診断する根拠なのである。このように、精神分析では倒錯 perversion は、いわゆる正常とは異なる性行動をする人を非難するのに使われる軽蔑的な用語ではない。むしろ、倒錯を神経症と精神病からはっきり区別する特徴で、高度に特有な臨床構造を示すのである。分析家は、すべての人間の欲望は事実上、本質的に倒錯的、あるいはフェティッシュ的であることに同意するが、それでも、神経症的な構造と倒錯的な構造には重要な理論的、臨床的な区別を維持する。精神分析では、倒錯は汚名ではなくむしろ構造的なカテゴリーとみなされる。

                   

                  | 1.サイコセラピー | 05:31 | - | - | - | - |
                  リズム
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                    リズム


                    内因性という概念がある。「今はまだ原因がわからないが、いずれ医学が進歩すればその原因がわかり、身体因に分類し直されるもの」のような、言い換えると「秘因性」das Kryptogene としていわばネガティブな定義を受けているように思われるが、逆に、ポジティブな定義として、テレンバッハが著書「メランコリー」の中で「内因性(エンドン)das Endogene」についての特徴を示す現象としてあげているのが、Abwandlung des Rhythmischen リズム性の変化 である。そこで彼は、リズムが生きとし生けるものを形成する力があり、リズム性がその文化の領域から明瞭にに消し去られていればそれだけ、メランコリーへの傾向が増大するのではないかということを述べている。フロイトが現実神経症をそこに置き、ラカンが lalangue の世界、symptom に対して sinthome を配置した世界は、このリズム性の支配する世界ではないのかと思う。

                    そんなことを思いながら、You Tube を見ていたら、Nostalgia by Kento というチャンネルがあり、曲が流れた。不思議な安心感があった。分類された場合、私は確実に音痴に所属するので、音楽的な評価はできないが、上述のリズム性のいうリズムとはこのことではないかと感じた。よく見ると、Nostalgia Composed And Performed by Kento とあるので、ご自分で作曲され、演奏されているのだろう。動画がないので定かではないが、PC で作られた音ではなく、ご自分でエレクトーンを演奏されているのだと思う。その後、このチャンネルに定期的に曲がアップされるようになり、私が知る限り今日の時点で4曲を聴くことができる。個人的には二曲めの Art Film が好きだが、全ての曲に共通して、そのリズム感が驚異的に正確なのに驚かされ、さらに正確なのに暖かさがある。おそらくこのことが聞いているいる私に「安心感」を与えるのだと思う。lalangは「喃語」のようなものだと言われるが、むしろ「喃語のリズム性」と表現されるのではないかと、この一連の曲を聴きながら思った。
                    | 1.サイコセラピー | 05:20 | - | - | - | - |
                    Das ist nicht mehr zu haben.
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                      Das ist nicht mehr zu haben.

                      最近、アドラーのブームが起きているらしく、その源はNHKで特集番組が放送されたことにあるのではないかと思われる。カウンセリングの現場でもアドラーについて語る方が増えているし、先日は友人の医者からもフロイトとアドラーについて質問を受けた。アドラーのいわゆる器官劣等説はフロイトの抑圧理論と同様に「仮説」であり、それだけを見た場合、きちんとした体系を持ち、その中では首尾一貫したものである。これは、同じようにフロイトから離反したユングやライヒ、フロイトと距離を保ちながら離れることのなかったフロム、フロイトに付き従ったが、死の欲動を認められなかったアブラハムなどに共通して認められることだが、それぞれに才能を持った人たちであるので、彼らの仮説、つまりモデルの中ではその言説を認めざるをえない。しかし、大事なのは臨床である。それらの理論、仮説、モデルがどのくらい臨床を説明できるかである。それぞれの理論がどれだけの臨床的射程を持つかということでその理論の価値が決まると考えるのである。
                      これを、クライエントや友人の医者にどう説明しようかと改めて考えて、精神分析の治療にとって礎石ともいえる「転移」という概念を説明することで、フロイトの理論と上述の他の理論を分けるフロイトの「性」の概念を説明することで、その概念のない他の理論の射程の短さ、自己完結性を俎上に挙げられるのではないかと考えた。以下、転移について述べて、その根源にある、我々人間が生きていく支えとなることを明らかにすることでフロイト理論、さらにはラカンの理論の射程の長さを述べていきたい。

                      まず、転移について、フロイトは夢判断の中で「一番古い幼児体験はそのものとしてはもうありません。それは分析してみると『転移』と夢によって取って代わられているいるのです。」(フロイト著作集 2 p. 155)と述べている。また、「過去の考え方感じ方が現在に移されること」というのがフロイトの転移の定義である。記憶としては抑圧されているが、その時考えたことや感じたことは、現実をとらえる場合には戻ってくるということである。

                      この『転移』には表向きには二つの現れ方があるとされる。

                      一つは分析の場では、クライエントが両親などに抱いている感情が、分析家に向けられることである。夢の中では、この感情がさらに見かけ上は別の人に転移されることになる。

                      もう一つの現れ方は、重要な記憶が抑圧された場合に、その記憶に付着している情動の強さ(無意識の欲望)が他の記憶や表彰へと移動され、それによって表現されることをいう。

                      一見別の意味のように思われる二つの現れ方ではあるが、抽象化するとどちらも、現在は失われているもの(「そのものとしてはもうありません」)が持っていた「意味付け」が、現在そこにある別のものに表現されるということでは同じになる。

                      「もうない」幼児体験、つまり、失われた子供時代(原抑圧)は、我々が言語の世界に参入する時に必然的に被る疎外によって被る主体としてのアファニシス、つまりラカンの$であり、ここで他者を通じて、失ったものを取り戻そうとするのが主体が生きることに必要な内的な原動力、平たく言うと生きる支えなのである。この失ったものを他者を通じて取り戻そうとする経緯が転移の道筋なのである。「もうない、一番古い幼児体験」は、我々の無意識で生き延びながら、転移の中で別のものとして代理されているのである。
                      この抑圧された幼児体験の記憶が代理されたものが、神経症の症状形成の核にある。
                      この抑圧されたものに付着する情動的な価値、すなわち無意識の欲望は、幼児時代のことに伴うものであるので、常に性的な(二者関係の)欲望である。神経症の症状の原因は幼児期の抑圧された性的な記憶であり、症状自体はその象徴的な表現である。なぜ抑圧されるのかというと、二人関係というのは社会の関係ではなく、社会の関係は三者関係であり、二者関係から三者関係に参入するためには、すなわち社会に入っていくためには、二者関係の抑圧により三者関係との共存を行うことが必要になるのである。そのためには二者関係と三者関係に認識論的断絶というものを導入しなくてはならない、それを行うために、インセスト・タブーという法の導入が必要で、そこに文化の根源がある。その過程の神話的モデルがエディプス・コンプレックスであり、このコンプレックスの解消が去勢不安によってなされるということである。


                      ここで少し見方を変えると、我々人間が生きていく上で支えになる、言語世界に参入する前の、もうない幼児体験を取り戻したいという無意識の欲望はフロイトのいう性的な欲望であると同時に、その幼児体験は言語によるプロセッシングを受けていないのだから、言語の方向から言う欲望よりも、身体側から言う欲動をその駆動力と考えなくてはならない。その駆動力を性欲動と言い、そのエネルギーをリピドーとした。だから性欲動というのは人間が生きていく上での根源的なもので、「性」というものをこのようなものと考えた時に、フロイトが「性」というものを精神分析の根源的なものと考えたことが初めて理解されるのである。「汎性欲主義」と批判されたフロイトの仮説ではあるが、その批判とは裏腹に、性の意味を上述のごとく理解すると、その言葉自体は皮肉にもその本質を表現していたと言えるかもしれない。このような「性」の概念を否定したユングやアドラーの理論が、理論としては完成されたものであっても、「転移」という概念の説明の根拠がないことだけからも、その射程が短いということがお分かりいただけたであろうか。
                      | 1.サイコセラピー | 17:13 | - | - | - | - |