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青葉心理クリニック

New normal とは?
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    New normal とは?

    言葉の成り立ちからいうと、normal は規範 norm の形容詞ということになる。ラカン的に言えば、人間はすでに出来上がっている言葉のネットワークの中に生み落とされるものなのだから、丸山真男的に言えば、歴史的条件が我々の「主体」の中に入り込んでいるわけだから、それら所与のものによって規範が出来ていて、その規範にしたがって生きることが normal 正常、普通であり、それができる様になることが大人になることとされている訳である。
    新型コロナウイルス感染症のパンデミックを収束するために、今までのnormalを新しいnormalに変えること、つまり密閉、密集、密接(いわゆる「三密」)を避けることが、new normal と捉えられている様にも思える。
    しかし、おそらく未来の歴史書には、今回の COVID-19は現在の社会体制を根源的に変えた出来事、おそらくフランス革命に相当するする歴史的事件として記載されるのではないかと思われ、そうすると、先ほどの意味での「三密」を避ける生活が、new normal になるというのはあまりに枝葉末節すぎるのではないか? むしろ、真言蜜教でいう「三密」を実践する方がまだnew normal というのにふさわしいのではないか? というよりも如何なるnew normal を作り出すかにより、この国家 国民の運命は決まってしまうのではないかということである。
    多くの人たちは、台風一過的にパンデミックが過ぎ去れば、また元の生活が戻ってくると思っているかもしれないが、ウイルスとの共存、それも新型コロナ以外のウイルスも想定しなくてはいけない訳だから、三密を避けるどころか、規範自体を変える、エートスを変えることが求められているのかもしれない。
    我々が生きている社会を支配しているのが、米国型の「自由主義に基づく能力本位の資本主義」、と中国型の「政治的資本主義」であり、そのどちらもが進歩主義にその基盤を置きながら、皮肉にもマルクスの生きた時代の「疎外」を蘇らせている。前者の資本主義の特徴は民主主義による多党制、後者のそれは一党独裁による長期支配である。経済学者の分類では、日本は前者に属することになっているが、実際の社会を見ていると、二極化、森友問題、解釈改憲、桜問題、そして検察人事の問題などからは、むしろ後者なのではないかという気がしてくる。そして 経済学者が唱えるコロナ後の政策は、その前提が間違っているために、例えば相続税の強化や選挙を公金で賄うなどは米国には適応できても、日本ではさらに混迷を深める様な気がしている。資本主義の中で、その欠陥を補い、「疎外」を解消していくには、新たな収奪の方法、新たな支配の方法を発明するのではなく、それを担う人間を変えていくしかないのだと思います。
    New normal は小手先の変更ではなく、人間を変えることにあるのだということです。普通にしていることが、コロナウイルスの拡散を防いでいる様な、そういう人間のあり方に変えていくことであり、そのあり方が類的人間なのだと思います。

    | 1.サイコセラピー | 20:37 | - | - | - | - |
    マルクスは優しい
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      非常事態宣言に基づく自粛期間に、こういう時でないとできない何かまとまった事をしようと思い、久々に資本論を読み直してみようと決めた。資本論ははじめが一番難しいのは知っていたので、その部分だけでもと軽く考えたのだが、読み出すと若い頃読んだマルクスと全く違うマルクスが現れてきて、深みにはまってしまい、マルクスの初期の作品、「ユダヤ人問題によせて」、「経済学、哲学草稿」を実家の本棚から数十年ぶりに引っ張り出して読み、さらにはその関連でエンゲルスの「フォイエルバッハ論」を新たに注文することになった。一方、「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」が新訳が出たのをきっかけに読み始めたが、受験で日本史選択であったためフランス革命の歴史に疎い事を知らされ、そちらはまず F. ブリュシュ「フランス革命史」を読み終えてからという事で中断している。
      今、私の目に屹立しているマルクスは、若い時にやはり屹立していたマルクスなのは変わりない、つまり、法、政治、哲学、人間学、社会学などの幅広いジャンルにまたがり、「人間」を観察する事で現実を捉えた偉大な思想家ということでは変わりないのであるが、読むという個人と個人の契機は、若い時に読んだマルクスの人間像とは違うマルクスを、耳従う年齢になった今、新たに現出したのであろう。そのマルクスは『優しい』のである。


      ここまで書いた時に、ネットで『ディオールの豪華なドレスはインドの「奴隷商人」の手で作られる』courrier.jp というニューヨーク・タイムズの記事を見ました。ここで書かれている「ファッション業界の暗部」はマルクスが資本論の中で述べている「イギリス皇太子妃の舞踏会のために、貴婦人たちの衣装を魔法使いさながらに瞬時のうちに仕立て上げねばならなかったために26時間半休みなく働き死んでいった少女たちの過酷すぎる労働」と同型と言えると思う。2020年になっても、1830年代にマルクスが見た地獄が、まだ解消されず、この世に存在しているのである。人間というのは進歩しないものだという評論では済まない現実があるのだ。資本主義が制限を加えられなかった時に暴走する凶暴な面が今蘇っている事を目を逸らさずにまず見なくてはいけない。二極化が進行しているとはそういう事なのでしょう。


      ここからは、今の私のマルクス観です。正しい、間違っているとかは別のことで、私の主観的なマルクスである。先ほど書いた1830年代の一方ではタコ部屋の様なところで26時間半休みなく働かされてきらびやかなドレスを仕立てている少女がいる同じ世界で、そのドレスを着て舞踏に興じる女性がいる、それが社会に現れた「疎外」であり、その現実を直視するマルクスの心情に「優しさ」を感じるのです。マルクスはその「優しさ」から、この疎外を解消するために、フォイエルバッハを通して、神に頼ることなく、資本主義の中で、人間関係の改革を、議会制民主主義の中で成し遂げようとしたのです。それがマルクスのいう革命であり、暴力革命はのちにレーニンが言い出したことで、マルクスはそんなことは言っていないのです。
      マルクスはプロレタリアートではありません。ブルジョアです。ブルジョアとして、プロレタリアートを直視し、神様や来世に頼ることなく、現実社会、人間関係を分析し、その変革で、決して暴力革命ではなく、疎外を解消しようとしたのです。彼の戦場は議会であり、議会で多数をとることにより、資本主義に制限を加えること、それも人間関係を変えていく事を目的として、疎外を解消しようとしていたのです。マルクスは資本論を書いたときにロンドンで毎日労働者を見ていたと言います。その目に「優しさ」を感じるのです。
      以前のブログで、キリスト教で言う隣人愛と論語で言う仁について書きましたが、孟子に「惻隠の心は仁の端なり」とありますが、「優しさ」とは惻隠の心なのでしょう。以前にブログで述べた吉本隆明の「カール・マルクス」からの引用で「思想と実践とを媒介するものは意志と情熱とに他ならない」というものがありますが、ここで言う意志と情熱が、私が感じた「優しさ」なのだと思うのです。

       

      | 1.サイコセラピー | 07:52 | - | - | - | - |
      自粛の延長について
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        医療の歴史によると、前近代において現在の新型コロナ感染症のように熱が出て寝込んでしまった場合、物の怪が憑いたとみなしていた。憑き物は呪術によって落とすしかない。
        近代(日本では明治維新から太平洋戦争終了まで)以降は、まず熱の原因となった病原菌をつきとめ、それを薬によって直していく。そうやって病気を治して行く。
        現代の医療でもこの流れが継続されていたはずなのに、新型コロナ感染症に対する日本の医療は前近代に退化してしまった。病原生物の特定(PCRを筆頭に、抗体検査、抗原検査など)をしないで、発熱者の診断がつかない状態で放置して、自粛、外出規制、休業要請で対処しようとするのは、100年前と同じだといわれるが、まさに前近代の手法でしかない。PCRをしなかったために、誰が感染者で、誰が非感染者かわからない状況での自粛というのは、「K防疫」といわれる韓国の体制に比してあまりに情けないものがある。韓国でのPCRの実態をみると、クリニック等での検体摂取から、検査所でその検体を検査用のスピッツに入れるまでが手作業でその後は機械で完全にオートマチックで結果が出る。それに対して日本の(PCR検査の主体となっている)衛研でのそれは完全手作業である。検査数に差が出るのも当たり前である。クラスター対策をすれば広範囲のPCRはいらないとか、PCRを広範囲にすれば医療崩壊を招くとかを公的に発言されていた方々は、じつは現代医療を前近代医療に退化させよと叫んでいたことになるのである。カタカナ英語で隠されていた本質を探ると、そういう事でしかない。
        憑き物に対しての対策を練っていたのだから、呪術としての自粛、魔除けの札としてのアベノマスクが出てくるのも納得の行く事だと思う。本来の自粛の目的はウイルスは人から人にうつるので、接触を避けましょうという事なのに、いつの間にか、自粛が手段ではなくて目的になっている。そもそも居酒屋の営業が限定的ながら認められているのだから、自粛要請自体がいい加減であったのだが、そういうことに構わず、自粛警察がでてきたのは、戦前の自警団を彷彿とさせる。
        日本にはアビガンがあったのだから、「コロナに有効性が確かめられるまでは承認されない」などと寝ぼけたことを言っていないで、平常時と緊急時はちがうのだから、すでに抗インフルエンザ治療薬として承認は受けていたアビガンを直ちにコロナに対しても承認しないと、さらに貴重な人命が失われてしまう。たとえ、エコモで救命されたとしても、後に重い呼吸機能障害を残すことにもなりうる。このままではアビガンは宝の持ち腐れである。
        国民に緊急事態宣言の延長を課するなら、国はいまの政府の得意技である解釈改憲や法律の強引な改正を使って、或いは官僚に忖度させて、直ちにPCRの広範な実施、陽性者への速やかなアビガンの投与を行うことをすべきである。

        | 1.サイコセラピー | 10:05 | - | - | - | - |
        克己復礼
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          克己復礼

           

          安倍首相が緊急事態への対応を憲法にどう位置付けるかを憲法改正を目指す立場の人たちの団体へのビデオメッセージとして送ったとの報道があった。(5/3)

           

          数々の「忖度」問題、アベノマスク、十万円支給をめぐる予算組み替えなどの指導力のなさを露呈してきた安倍首相と憲法改正を語る安倍首相の違い、内容のみならず、それらを語るときの顔つき、話し方の違いにお気づきであろうか?

           

          何が違うのか?

           

          それは意志と情熱である。

           

          十数年前にこのブログでマルクスの「疎外」概念について吉本隆明の「カール・マルクス」を紹介したことがあるが、その本の中に「歴史の唯物弁証法的な理解方式は、マルクスの言うように人類の始原と共に古い、一つの現実理解の原則的真理である。だが原則的真理なるものは真理である限りに於て、人を納得せしめるだろうが、決して人を動かすことは出来ない。真理は唯情熱の形式を以って貫かれたとき始めて人を動かすのである。」という記載がある。

           

          思想は意識作用の表象である言語によってしか伝えることが出来ない。それだけでは、他人を動かすことは出来ない。人は無意識の欲望によって動くのである。だから、「思想は実践行為の原動としてこれを媒介することはない」のであり、「思想と実践を媒介するものは意志と情熱とに外ならない」のである。

           

          安倍首相は、コロナ禍に対しては、情熱も意志もないのであり、憲法改正に対してはそれらがあるのである。それがPCR検査や、自粛要請に対して語るあの泳ぐような視線の表情と検事の定年延長や解釈改憲を語る時の何かに憑かれたような視線のそれとの違いになって現れているのである。

           

          今回の緊急事態の対応について問題は憲法にあるのではない。限界を迎えた近代資本主義により、我々一人一人の中で、「公民」と「私人」が極端に分離してしまったことこそが問題なのである。法的根拠がなくても、社会、隣人のためにしなくてはいけないことを、自粛をするのが公民であり、自分の欲のために自粛しないのが私人である。社会の中で、家で自分の課題に取り組みながら自粛している人とパチンコ屋に行く人に別れている社会は「解放された社会」ではないし、また個人の中で、他人に自分がコロナウイルスをうつすことがないように自粛しなくてはいけないというのは分かっちゃいるけど、パチンコ屋に行ってしまうというのは「真に解放された個人」ではないのである。

           

          「真に解放された個人」とは、隣人愛を得た、つまり自分を愛するように隣人を愛することができるようになった人間であり、隣人を気遣い、それが自分を気遣うことと内心で対立することのない、そういう人間である。あまりにキリスト教的になってしまうので表現を変えると、孔子が論語(顔淵篇)のなかで「克己復礼を仁となす」ということがそれに相当すると思う。

           

          社会が、個人が公民と私人に極端に分裂していることが問題であるのに、その止揚を図らず、いたずらに憲法を改正して、外から強権的に緊急事態に対応しようとするのは本末転倒である。

           

          | 1.サイコセラピー | 06:27 | - | - | - | - |
          自粛の意味
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            自粛の意味


            さかんに自粛が叫ばれているが、残念ながら若い方々の合コンや老人のナイトクラブ通いは続いている様である。こういうことについての心理分析というのは寡聞にして知らない。「若い人はこういうことに従わないのがカッコいいと思っている」という意見をどこかで見たが、説得性はないし、それでは不良老人はどうなのかというと余計説明がつかない。

             

            この現象は、内向き、外向きという事でその意見よりは包括的に説明がつくと思う。これは心理学者ではなく、夜回り先生として知られる水谷先生の説であるが、「子どもは、いじめられると4通りの型のストレス処理をする。(1)いじめられると他の友達をいじめてストレスを晴らす型、(2)いじめられると学校からいなくなる型(非行に走るタイプ)、(3)引きこもる型、(4)自傷する型 である。」この葛藤処理の型の(1)、(2)を外向き、(3)、(4)を内向きとするのである。もっとも外向きが(1)、もっとも内向きが(4)ということになる。

             

            (1)、(2)が外に向かって何かをする、(3)、(4)が内に向かって何かをするということはおわかりいただけると思う。今の時代は、外向きの人を評価する。外に働きかける、例えば、クラブの部長をする、生徒会の役員をする、ボランテイアをする、そういう行為に学校は高い評定を与える。こういう行為が向いている、好き、楽にできるのが「外向き」の人達である。一方、「内向き」の人は、心が豊かになるという利点を持ち、相手の気持ちを察するということが得意なのであるが、こういうことは学校では滅多に評価されない。結果として、今の社会では社会から「外向き」の行動を取ることが求められ、その同調圧力が「内向き」の人が社会に入りづらい、社会が怖いなどの要因になっていると感じる。

            社会の圧力が今までと違い「自粛する」となった時、今までとは逆に、心理的には、外向きに人には辛い状況、内向きの人には対してそんなに辛くない、むしろ楽な状況が出現したのである。わかっちゃいるけど外出をやめられない人は「外向き」の人が多いのであろう。外向きの人がストレスが過大になった時、自分のみならず、他の人にとっても安全にストレスを処理する方法を自分で考えだして欲しい。「自分で」ということは外向きの人には得意なのだから。

             

            自粛がなぜ必要なのか? すでに自粛している人たちはここは飛ばして読んで欲しい。

             

            コロナウイルスは原則、人から人にしかうつらない。人に会わなければ感染することはない。だから、コロナウイルスに対するワクチンがない、抗ウイルス剤がない(とされる)つまり特異的な治療法がないので、感染を防ぐためには、できるだけ「人に会わないこと」しかないのである。それしかないのである。ここは自粛しない人を対象に書いているので、あえて実例を出す。「志村けん」である。人から人にしかうつらないのだから、彼にうつした人は必ずいるということである。そのうつした人にあなた自身がならないためには、「人に会うこと」をできるだけ避けるしかないのである。彼はタレントなので、芸のみならず、パンくん、プリンちゃんとの関係も知れ渡っている。日本ではPCR検査を広く行わないことを国家が決めた(在日米国大使館の文書から引用)のだから、全ての日本人は自分が感染者として行動しなくてはいけない。あなたが、そして私がうつすかもしれない目の前の人にも、志村けんと同様に、仕事も、家族があり、彼らにとってのパン君もプリンちゃんもいるのである。パン君、プリンちゃんから、志村けんを奪った犯人に自分がならないために、すでに「政治崩壊」している政府の言う事ではあるが、それに能動的に従い、自粛する事しか今はないのである。

             

            今回のコロナウイルス感染爆発は、我々が持っている「行動様式」エートスを変えることを迫っているのである。それを、new normal という人もいる。しかし、マックスウェーバーが言うごとく、エートスを変えるのは長年の教育によって、あるいは「カリスマ」によってしかないのである。行動様式を変えられれば、コロナウイルスは克服できるのである。グローバリゼーションと言われながら、今回のコロナウイルス感染が教えたことは、行動様式が、ITの発達にもかかわらず、以前のままであったことで、これを変えられるかどうかが今回の試練を克服できるかどうかのポイントであろう。

            | 1.サイコセラピー | 12:50 | - | - | - | - |
            カウンセリングの倫理 1
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              マックス・ウェーバーが「キリスト教(プロテスタント)の精神が資本主義をつくった」と言っている事はこのブログで今までにも何回もふれている。また現在我々が生きている時代は、フランス革命の射程にある。デュルケームが「社会は個人に対して内在的かつ超越的である」といったが、たしかに欧米では個人に対して超越的でかつ内在的なのはキリスト教の精神であり、資本主義であり、フランス革命の精神であろう。しかし、日本では明治維新後は和魂洋才と言えば聞こえは良いが実際には、和魂を抑圧し、勿論洋魂は入れないで洋才のみの輸入(例えば日本の民法に関してフランスの民法学者に丸投げしようとした歴史上の事実で示されている。)をしたために、江戸時代までの土着の文化は輸入された西欧文化によって席巻されてしまい、両者に通路はない、心でも同じように、意識的な自我は西洋化されながら、土着の感情的直接性は抑圧され、その自我と無意識との間に連絡の無い状態ができてしまったのである。自己分裂である。これは高じると倒錯、自己欺瞞を生じさせる。個人でも社会でも外からの強制でしか時代に追従できなかったことが、社会でも、個人でも軋轢を生じつづけてきたのが我々の歴史であったといえると思う。先日、ゴーンさんが逃亡して、逃亡した理由に日本の人質司法をあげ、以前から問題視されていた事が再び俎上に上がり、森法務大臣は弁護士でありながら、日本の司法には問題はないと公式に発言したのは記憶に新しいところだが、自白を強要し、得られた自白をもとにして調書を作る、自白しないと拘留期間がとめどなく長くなる、保釈しない等というやり方は、じつは中世日本以来綿々と続いてきたものであり、欧米の人権思想からは理解されないものなのである。江戸時代の牢屋で、自白させるために石を抱かせる場面や、吊るし上げて棒で叩いて、気絶すると水をかけてまた叩く場面は鬼平犯科帳などの時代劇ではお馴染みだが、取り調べの形は変わっても、その精神は今だに中世のままだという事なのである。推定無罪ということは高等教育を受けたものならば誰でも知っている事であるが、それが現実には全く存在していない如くなのがこの国なのである。羊頭狗肉ともいえる状態のままである。伊藤博文が西欧化を進めるにあたり、欧米諸国には基督教があるが、わが国にはそういうものが無いので、天皇制を持ってそれに代えようとしたが、第二次世界大戦後の天皇の人間宣言以来、そこは空白のままなのである。食うや食わずだった戦争直後は食べるだけで精一杯であり、その後の朝鮮戦争による特需の経験で味をしめ、経済成長がその代わりになったのか、以来問題の解決に経済問題の解決をもってするのがこの国の習いになってしまい、それが倒錯や自己欺瞞となり、やがてIRの様な賭博を許す品の悪い国家が出来てしまった。
              日本は、個人の確立の前に社会の絆を教育される社会なので、この様な社会のあり方が、個人に強く影響してしまうのは先に述べたデュルケームの言の通りである。レーニンが言うように「人を変えるのが本当の革命」なので、この社会で個人の悩みを解消するのは、まずこの様な社会をまともなものにするしかなく、そのためには革命しかないのであろうが、それを今の社会で期待するのは世界精神の担い手が現れるまで不可能なのであろう。そうなると、人を変えることで社会を変えると考えなくてはならない。その課題として与えられるのが、個人の心の分裂にどの様にして橋をかけるのかという事になる。無意識が人を動かす力だと考えるのはマルクスもフロイトもおなじであるが、前者は制度が人間の中に無意識をつくり、後者は欲動が無意識を作ると考えたわけだが、以下後者の立場で記述して行く。
              フロイトが言うように、真に個として確立した人間から構成される社会だけが連帯を形成できるのであるから、個人の内部にある分裂を解消するために、内部のコミニュケーションの言語を媒体にして行えるようにするというのがカウンセリング(精神分析)の目的ということになる。それで内部のコミニュケーションができると、不安がすくなくなり、精神が活性化され、その事で他者とのコミニュケーションが可能になると考えるのである。
              服従は何も生み出さない。服従する為に、己を抑圧すると、それは自己に不誠実になる事なので、他者にも不誠実になるわけで、相互的なコミニュケーションは不可能なのだ。言語を媒体としたコミニュケーション、言語化がうまくいかないのは、感情と言語が接続する事ができないからである。自由連想法により、無意識と意識が折り合いをつけられるようになると言うのはこの事なのである。感情は抑圧されている限り言語化できない。自由連想法で感情が、欲望が少しづつ言語化できる事で抑圧が減って行くのである。
              こうして目の前で起ることに関して、一喜一憂せず、自分で責任を持つということができるようになり、それで初めて他者との関係がクリアになるのである。
              先ずは、自分を変えようとすること、そしてその責任を己一人で持つこと、それが求められるのである。

               

              | 1.サイコセラピー | 14:18 | - | - | - | - |
              母子癒着 その5
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                4. 終わりに

                最後に、若干の追加を述べたいと思う。ここまで母子癒着について述べてきたことを読まれた方で、なぜ、母ー子だけが取り上げられ父親が出てこないのかとか、母ー子と言っても全てが母親ー息子についてだけ述べられるのかについて疑問に思われた方もあるかもしれない。それは、猿にも近親相姦のタブーがあるらしいことがわかってきて、猿では父親というのは誰だかわからない、だから進化の時間軸では母親ー息子のタブーの関係が動物にまで遡る起源を持つ発生学的に一番古い歴史を持っていて、父ー娘、兄ー妹というタブーの関係とは次元が違うからである。この辺もフロイトがエディプス・コンプレックスをとりあげたのは正しい選択であったといえよう。タブーがあるという事は、無意識にはそれを侵犯したいという欲望、つまり近親相姦の願望が無意識内に存在するという事である。

                河合隼雄は、「中空構造日本の深層」の中で、「近親相姦に対する自然のタブーから解放されることによってまず人間の文化が始まったのではないかということである。もちろん、その後、人間は自ら解放した攻撃性や性欲を、いかに意識的に抑制するかに膨大なエネルギーを使用しなくてはならなくなったわけであるが、動物が生来的にそなえている抑制力を解放し、次にそれをコントロールするという、いわば二重否定のような構造が人間の文化の基本に存在していると思われるのである。」と述べている。そして、「攻撃や近親相姦が動物的なものではなく、むしろ極めて人間的であり、人間の特徴は、それを一面的に肯定するのではなく、その肯定と否定の間の統合の道筋に、その文化を築いてきたという事である」とも述べている。
                ここでいう統合とは、弁証法的に展開するという事であり、その為には、テーゼおよびそれに対するアンチテーゼが対象として認識される事(自分と距離を持って認識される事で、それは対象が象徴化されていることが必要になる。)が必要である。無意識的欲望は対象化されていないので、無意識の近親相姦の願望は、意識され、象徴化されて初めて、意識的な近親相姦のタブーとの間で弁証法的な展開をして、止揚aufheben されるのである。近親相姦の無意識的願望をアンチテーゼ化するためにはそれを意識しなくてはならない。なぜそんなことをしなければいけないのか? それについて河合隼雄は「人間が神々に挑戦しようとするとき、それは近親相姦タブーの意識的な破壊でなければならない。強い意識の力をもって、我々は母との合一を体験しつつ(母との合一は、原初の状態への回帰を意味する。原初への回帰は、おのれの存在を、より根源的なものへと合一せしめることを意味し、それは自我の放棄を要請する。)、なおその中から再生しうるとき、それは限りない創造的な過程となるであろう。ここに近親相姦の象徴的次元における創造の秘密が存在している。」と述べている。つまり、無意識の近親相姦の願望を昇華させることで、凄まじい創造のエネルギーが得られるというわけである。
                こういう考え方がどこから出てくるのかであるが、ユングは退行とは心的エネルギーが自我から無意識の方に流れる現象だと言ったが、自我が無意識と触れることで、病的なもの(非現実的な空想を含む)を得ることもあるが、それが未来への発展の可能性や、新しい生命の萌芽であることもある。後者を創造的退行と名ずけ、それを可能にする新しい要素を生じさせることが母子癒着の解消には必要となる。母子癒着の男が母親との結びつきを断ち切る為には、一人の新しい女性、母親とは異なる魅力を備えた女性に出会わなければならない。このことを河合隼雄は「ある程度の自立をした自我は無意識界に再び分入って、そこに母親像とは異なる女性像を見いだし、それとの関係を確立しなくてはならない」という。前回、「わが母」に登場するアンシーがその可能性を持った女性ではないかと書いたが、これで理解していただけるだろうか。

                | 1.サイコセラピー | 13:47 | - | - | - | - |
                母子癒着 その4
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                  3 . 「母性社会日本の病理」から

                   

                  ユング派のいわゆる元型として「永遠の少年」puer aeternus がある。語源は少年の神で、大地母神の力を背景に、死と再生を繰り返すことで、いつも若返って成年に達することの無い神である。現代社会の「永遠の少年」は、多くは成年に達していながら、少年のままでいる。ユングの弟子のフォン・フランツの記述では、彼らは社会への適応に何らかの困難を示しているが、彼等は自分の「特別な才能」を曲げるのが惜しいので、社会に適応する必要はないのだと自分に言い聞かせたり、自分にぴったりの仕事がなかなか見つからないと思ったりしている。ともかく、何やかやとやってみてある程度のことはしてみるが、いまだそのときが来なかったり、いまだ本当のものが見つからなかったり、「いまだ」の状態に置かれたままでいる。このような将来への期待が膨れ上がる時は、全人類を救う事を夢見たり、偉大な芸術作品を発表する事を想像したりするが、残念ながら「いまだその時ではない」のである。彼等にとって一番難しいことは、一つのことに持続的に打ち込むことである。時には、他人を感嘆させることー相当危険に満ちたことーをやってみせるが、それに持続的に取り組むことはしない。危険性よりも忍耐の方が数倍おそろしいのである。
                  「永遠の少年」のよさは、、慣習にとらわれず、直線的に真実に迫り、理想を追い求める姿勢を持っていることである。彼等は無意識から送られてくるひらめきに対してよく開かれた心を持っている。ただ残念なことに、そのひらめきを現実化する力を持ってないだけである。
                  このような「永遠の少年」達は話し相手としては、真に興味深い、楽しい相手であるが、仕事の協力者としては最も信頼できぬ、ときには危険な相手ですらある。
                  もっとも、「永遠の少年」は、このように魅力を備えているもののみではなく、眠っているのではないかと思うほど、無為な日々をおくっているタイプもある。ひたすら「時」がくるのを待ち、その間を何もせずに過ごしているのである。しかも、その「時」は永遠におとずれないかもしれないのであるが。
                  これらの「永遠の少年」たちは、すべて母親との心理的結びつきの強さを特徴としている。ここに「母」と述べたことは、実際の母でなくてもよい、「母なるもの」とでもいうべき存在との強い結びつき、母親コンプレックスの強さが特徴的である。このため、彼等は多少ともドン・ファン的か、同性愛的である。
                  彼等は女性の中に母なる女神を求め、次々と対象を探しだすが、それが単なる女に過ぎないことがわかったとき、また、母なる女神を求めて他の女性に向かってゆかねばならない。あるいは、男性性がそれほども確立していないときは、同性との集団行動の中に安定を見いだしたり、同性愛的なパートナーを得ることによって満足する。

                  大変長い引用になったが、母子癒着についての具体的、かつ網羅的な提示としてこの部分は優れていると思う。ただ、ここでは「永遠の少年」を取り巻く、社会、世界にはふれられていない。個人の心の中にはそれらのあり方も反映される。そこに日本の母性社会の問題もあるのだ。しかし、あくまでこの母子癒着と言うのは子と母の問題が主である(そこにファルスを加えるのがラカンであるが)。社会の問題が主であるとして捉えるなら、その社会の多くの人が母子癒着になるはずであり、発生的に考えてもあくまで社会の問題は従である。

                  母性の原理は「包含する」機能によって示される。すべてのものが絶対的な平等性を もつ。「わが子であるかぎり」すべて平等に可愛いのであり、それは子供の個性や能力とは関係のないことである。しかしながら、母親は子どもが勝手に母の膝下を離れることを許さない。それは子どもの危険を守るためででもあるし、母ー子一体と言う根本原理の破壊を許さぬためと言ってもよい。このようなとき、ときに動物の母親が実際にすることがあるが、母は子供を呑み込んでしまうのである。かくて、母性原理はその肯定的な面においては、産み育てるものであり、否定的には、呑み込み、しがみつきして、死に到らしめる面を持っている。

                  萌芽としての弱い自我にとって、世界は自我を養い育てる母として映るか、あるいは出現しはじめた自我を呑みこみ、もとの混沌へ逆行せしめる恐ろしい母として映るか、両面性を持ったものとして認められるであろう。

                  非常に分かりやすい記載で、母親の否定的な面についても述べているが、果たしてこの否定的な面は肯定的な面で釣り合いを取ることなどできるのであろうか?  いや、肯定的な面の動機を考えたときにそれはナルシシズムに過ぎないのではないのか? 肯定的と言えるのであろうか? 母親のエロチシズムは深淵、つまり縦のエロチシズムであり、ここで述べられている母性は水平のエロチシズムであり、その点が実際の母子癒着のケースで、言葉で説得して癒着を剥がそうとする分析家、医者、心理療法家などが、お説教と大して変わらないことしか言えないことの理由なのではないか?

                  バタイユについて三島が「この本(エロチシズム)を私が最も面白く思った点は、すべてにおいて独断的なきらいはあるが、エロチシズムの問題に、これまでにない広い包括的な展望を与えようとしている点である。」と言っているが、独断的でありながら三島が納得するのは、「その普通ではない育ち方(吉村隆明)」が納得させているのだと思う。その独断的なところをラカンは、例えば「要求」する主体が絶え間なくさらされている脅威が、しばしは母親に飲み込まれる恐怖というかたちで主体の心に現れてくる というように要求というものをそこにおくことで説明している。しかし、おそらく垂直方向のエロチシズムは言葉で迫ることは難しいので、普通でない育ち方をしなかった人間には体感できないのであろう。繰り返しになるが、「母は、神に向かって我々を(垂直のエロチシズムに)いざないゆく誘惑者であり、神自身ですらあるが、自分の体現する最高理性へ人を誘い寄せる通路が、官能の通路しかないことを知悉しており、しかもこの官能は錯乱を伴っていなくてはならないのである。彼女の愛は残酷であり、自ら迷うことなく、相手を迷わせ、滅亡の淵に臨ませ、相手の官能的知的欲求のギリギリの発現をきびしく要求し、叱咤する」のである。
                  この「母」と「永遠の少年」が母子癒着をしているのだから、治療者がもし存在するとしたら、覚悟と(ラカンの言う)倫理が必要となろう。三島が解説の最後に「小説「わが母」の最後の母の独白は、おそるべき最高度の緊張に充ちた独白であるが、全篇を読んだ人の感興にのみ真に深く訴えるこの独白を、私はわざと引用しないでおこう。」で結んでいるが、読んだ人はそこに真の意味での現実的ファルスを読み取るとおもう。治療者は母の「魅きつける力」(La Force D’Attraction ,JーB・Pontalis) と絶望的に戦わなくてはならないのである。

                  母子癒着がなぜいけないのかについて、突き詰めれば、子供が社会に入っていくことができないからなのであるが、その理由はラカンの言う意味での道徳的な理由であり、もっと平たく言えば経済的な理由からなのかもしれない。決して同じく倫理的な理由ではない。「わが母」の場合のように経済的に働かなくともいい場合には放置しても良いのだが、カウンセリングに訪れるのは、いずれ経済的に破綻する事は明白なので、なんとかしてほしいという動機がほとんどなのだから、アドバイスは道徳的にならざるを得ない。けれども垂直のエロチシズムの魅きつける力に、道徳は無力なのである。

                  河合隼雄は、父性原理を確立しつつ、なおかつ母性との関わりを失ってしまわないことと説くが、確かに精神分析理論からは、子と母の一体化にくさびを打ち込むのが父の作用であるから、その通りなのだが、垂直のエロチシズムが作動してしまっているのに、発達理論を持ち出しても学問的には正しくても、現場では役にたたないのは道徳的説教と同じである。私見ではあるが、「毒を以て毒を制する」ことしかないと思う。「わが母」の中にもアンシーという女性が登場するが、この人がまさに、毒を以て毒を制する可能性を秘めていると思う。また、「毒」という表現からは縁遠いが、ファウストが最終的には、永遠に女性的なるもの das Ewig-Weibliche に導かれて天に昇ったように、救いの道はそこにあるのではないかと思う。具体的な処方は劇薬になるのでここでは書かない。

                   

                  | 1.サイコセラピー | 06:07 | - | - | - | - |
                  母子癒着 その3
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                    2. 心理学における母子癒着

                     

                    心理学に現れる母子癒着をすべて網羅的に述べることはできないので、ウィニコットの述べることを導入として、次回にユング派の精神分析家である河合隼雄の「母性社会日本の病理」へとつないでいく。

                    ウィニコットの言う、ほどよい環境 good enough environment とは「最初幼児の世話という仕事にわが身を捧げ、次第に、自分を独立した人間と気づき直していく母親がいるということを意味」している。

                    ウィニコットは「個人の情緒発達において、鏡の先駆は母親の顔である。赤ん坊は、母親の顔に眼差しを向けている時、一体何を見ているのか。赤ん坊がみているのは、通常自分自身であると思う。」と述べ、幼児の情緒発達における「環境」としての母親の役割とは、「赤ん坊に赤ん坊自身の自己を与え返す」ことだと説明している。

                    good enough mother に対立する概念が perfect mother である。good enough は「ほどよい」という意味である。perfect motherはこどもの欲求が10あったとすると、10以上を与える母親であり、good enough mother とは7〜8を与える母親である。good enough mother が良いとされるのは、足りない2〜3を子供が我慢できるようになる、欲求不満に耐えられるようになる、そういう理由である。0しか与えないのは勿論ネグレクトであるが、それはここでは述べない。
                    さて、もしperfect mother が現実に存在したとすると、子どもも母親もお互いがお互いから離れていくことは出来ないであろう。母ー子どもの閉塞した世界は何の不足もない満たされた世界であるからだ。しかし、これは神話の世界であり、現実ではない。母には別の欲望があり、子どもはそれによる母の不在の理由を知りたがるからである。それでもこの神話を目指す母と子どもはある。母親は他の欲望を喪失し、子供は母親に呑み込まれやはり他の欲望をなくし、受け身の状態で母親に支配されている。その状態がユングの言う意味での退行現象であり、お互いの心的エネルギーが自我から無意識の方に流れている、お互いが無意識の魅力に引き込まれていることに本人たちは気づかない。自我からエネルギーが流れ出て、自我がエネルギー不足になり、白日夢、非現実的な空想、感情に溺れ切った行動が現れてくる。エネルギーが本当に足りなくなると、うつ状態になり引きこもる。

                    「非現実的な空想」という表現をしてしまうが、具体化をしないとその意味がわからない。例えば、就活をしなくても、いざとなったら起業すれば良いんだという若者がいるが、よほどの恵まれた条件がない限り、会社に務めることより起業が楽で、継続的にうまくいくことはないのである。就活がうまくいかなかったら、アルバイト、パートから始めればよいのである。就職できないことで思考に閉じこもり、自分を受け入れてくれない会社、社会を批判したり、自分を傷つけない自分が採用されない理由を「発明」する暇があるのなら、ボランティアでもいい、アルバイトでもいい、頭ではなく、体を動かすことを、行為、行動を、継続してやっていくことである。

                     

                    「いざとなったら起業すれば良い」というパロールが影響を受けやすい他の人の心に取り込まれ、浮遊するパロールとなることがある。そもそも根拠に乏しいパロールであるがゆえにそれを聞いた人の心の中で今までのその人の心的歴史の中に位置付けることが出来ない。何かの折にそのパロールが自分の考えのように、ある力を持って出てくると、その人は現実よりも「非変実的な空想」に支配されるようになる。母子癒着にある人が自分の状態を正当化するために言ったにすぎないパロールが、そばにいた人にそういう「感染」にも例えられるような事態を引き起こすこともある。それでも、母子癒着は外から見ると、母親はいつも子供のことを思う優しい母親であり、子どもはいつも母親のことを心配している親孝行な息子なのである。それで許されてしまうのが母性社会日本の病理なわけで、それを述べているのが河合隼雄である。


                    さて、前のブログで、三島由紀夫がバタイユの「エロチシズム」を解説したものを引用したが、その中で「ウィーンの俗悪な精神分析学者」という表現があったが、それは誰であろうか? ウィーンといえば、まず最初に浮かぶのはフロイトである。しかし、以前のブログで触れたように、三島には精神分析を副題にした小説さえあり、その精神分析の元祖はフロイトなので、もしフロイトだとすると精神分析自体を否定することになり、それは考えにくい。そうするとユングしかないのではと思われるが、なぜユングなのか? それはユングがリビドーを性のエネルギーではなく、単なるエネルギーと考えたことにあるのではないかと思う。そう考えると、三島のいう「垂直のエロチシズム」ではなく、水平のエロチシズムになってしまうということなのだと思う。しかし、理解のための入口は、水平のエロチシズムで良いと思う。実践の場で、現実の母子癒着を見たときに、特にそれを問題として解決しようとした場合に、方向を垂直へと変えていかなければならないのである。垂直という方向があるのだということを頭に入れて、ユング的な考え方を入口にするのである。敵は手強いのである。ラカンのいう意味で「道徳」では無く、「倫理」に解決の道を模索することである。

                    | 1.サイコセラピー | 05:16 | - | - | - | - |
                    母子癒着 その2
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                      1. 文学作品に現れた母子癒着

                      バタイユの「わが母」、「マダム・エドワルド」、そして「エロチシズム」を解説して三島由紀夫が次のようなことを言っている。もちろんこのブログの趣旨は「わが母」にあるのだが、伏線として先に他の2つから述べて行く。

                      生の本質は非連続性にあるという前提から出発する。個体分裂は、分裂した個々の非連続性をはじめるのみであるが、生殖の瞬間にのみ、非連続の生物に活が入れられ、連続性の幻影が垣間見られる。しかるに存在の連続性とは死である。かくてエロチシズムと死とは、深く相結んでいる。「エロチシズム」とは、われわれの生の、非連続的形態の解体である。(エロチシズム)

                      バタイユがエロチシズムを解明していくとき、その手段として用いている概念が「禁止」である。

                      禁止は元来、科学の事柄であった。(中略)禁止がなければ、禁止の関門がなければ、人間は明白な意識に到達することができなかっただろう。他ならぬ科学はその意識の上に築かれているのである。(エロチシズム)

                      科学を以てバタイユは文化全般を代表させ、現在ある如き労働の世界を成立させた諸種の文化的禁止を手掛かりにして、今や忘れられているエロチシズムの深い闇の奥へ入って行こうとする。

                      バタイユが、エロチシズム体験に潜む聖性を、言語によっては到達不可能なものと知りつつ、(これは又、言語による再体験の不可能にも関わるが)、しかも言語によって表現していることである。それは「神」という沈黙の言語化であり、小説家の最大の野望がそこにしかないのも確かなことである。そして小説に登場する神として女が選ばれたのは、精神と肉体の女における根元的一致のためであり、女の最も高い徳性と考えられる母性も、もっとも汚れたものと考えられる娼婦性も、まさに同じ肉体の場所から発してという認識に依るのであろう。

                      万難を排して存在を断ち切るべく、自己を超越するなにものか、すなわちわが意に反して自己を超越するなにものかが存在しなければ、私たちは、全力を傾けて指向し、同時にまた全力を傾けて排除する不合理な瞬間に達することはない。(マダム・エドワルド)

                      この「不合理な瞬間」とは、いうまでもなく、おぞましい神の出現の瞬間である。(なぜおぞましいのかは、実際にこの小説をお読みになることである。)

                      けだし戦慄の充実と歓喜のそれとが一致するとき、私たちのうちの存在は、もはや過剰の形しか残らぬからだ。(中略)過剰のすがた以外に、真理の意味が考えられようか?(マダム・エドワルド)

                      つまり、われわれの存在が、形を伴った過不足のないものでありつづけるとき(ギリシャ的存在)、神は出現せず、われわれの存在が、現世からはみだして、現世にはただ、広島の原爆投下のあと石段の上に印された人影のようなものとして残るとき、神が出現するというバタイユの考え方には、キリスト教のの典型的な考え方がよくあらわれており、ただそれへの到達の方法として「エロチシズムと苦痛」を極度にまで利用したのがバタイユの独自性なのだ。
                      ここまで、精神と肉体ののあんなにおける根元的一致のためにバタイユの小説に登場する神として女が選ばれ、その場で主体に自己を超越することで、不合理な瞬間を創り上げることで神を出現させることが、小説の目的なのだということが理解されよう。

                      ここでの主題の「わが母」は、倒錯と狂気の果てに、神聖な精神的母子相姦で終わる物語であるが三島は「この作品から、私が、近来の日本の小説でどうしても癒されなかった渇を、癒すことができたのは事実だった」と書いている。三島は、太宰治、夏目漱石、芥川龍之介と同様に母子関係が普通ではない育ち方(吉村孝明)をしているから、それゆえの「渇」なのであろう。

                      「あたしは、死の中でまでお前に愛されたいと思います。あたしのほうは、今この瞬間、市の中でお前を愛しています。でもあたしがいまわしい女であることを知ったうえで、それを知りながら愛してくれるのでなければ、お前の愛は要りません。」(わが母)

                      人を堕落に誘うとは、真理にめざめさせることであり、彼女はもはや究理者ではなくて、その信じる真理の体現者でなければならず、要するに究極的に「神」でなければならないのである。これがバタイユ小説のおそらく根本的な構造である。

                      では「母」とは何か。母は、神に向かってわれわれをいざないゆく誘惑者であり、神自身ですらあるが自分の体現する最高理性へ人を誘い寄せる通路が、官能の通路しかないことを知悉しており、しかもこの官能は錯乱を伴っていなければならないのである。彼女の「愛」は残酷であり、自ら迷うことなく、相手を迷わせ、滅亡の淵に臨ませ、相手の官能的知的欲求のギリギリの発現を厳しく要求し、叱咤する。「お前はまだあたしを知りません。あたしに到達することはできませんでした。」母の堕落の真相を知り、その中に巻き込まれて気息奄々たる息子に答えて、母が言うこの言葉は正しく神の言葉である。

                      人間の神の拒否、神の否定の必死の叫びが、実は「本心からではない」ことをバタイユは冷酷に指摘する。その「本心」こそ、バタイユのいわゆる「エロチシズム」の核心であり、ウィーンの俗悪な精神分析学者などの遠く及ばぬエロチシズムの深淵を、われわれに切り拓いて見せた人こそバタイユであった。

                      母子癒着とは、このようなエロチシズムの深淵に関わることなのであり、精神的知的母子相姦のデヌーマンなのだということを最初に理解した上で、心理学的な記載を理解されるべきだと考える。

                       

                       

                       

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