RECOMMEND
RECOMMEND
SELECTED ENTRIES
CATEGORIES
ARCHIVES
MOBILE
qrcode
LINKS
PROFILE
OTHERS

10
--
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
--
>>
<<
--

青葉心理クリニック

別れ、出会い
0

    もうじき10月になるが、普通の医者をセミリタイアして、今の仕事を始めて13年になる。その間に、公私共に色々な方々との出会い、別れを繰り返してきた。仕事でお会いするのは、カウンセリングであるから、来られる方は不遇を託っておられる方々が多いのは言うまでもない。「不遇」という言葉の意味は、能力を持ちながら運悪くそれが認められないことであるが「運悪く」という言葉にまとめられてしまう、実際の出来ごとに、それぞれの方の物語があるのだと感じる。クライアントとの出会い方は場所が人為的に設定したカウンセリングの場であるから、外面的には皆さん同じであるが、別れ方は様々である。飛躍、停滞、落下、不明、抽象化してしまうとそういう言葉で表されてしまうが、そこには抽象化されない個人のそれぞれの物語がある。私的には、出会いは様々な時期に、様々な出会い方をして来たのだが、別れは、最近は死別であったり、認知症であったりする事が多い。そこにも抽象しきれない物語がある。

    さて、出会い、別れというと、普通には男女間のことを思われる方が多いと思う。脳科学的視点からは、それは男の脳、女の脳の別れという事になる。人間にとって女の脳がデフォルトであり、妊娠8週でテストステロンに暴露される事でデフォルトから男の脳はつくられる。元が同じだから、或いは同じ人間だからといっても、生まれてくる時には既に女の脳、男の脳はちがっているのである。この違いの原因を継時的にホルモンへの被爆、例えば男はテストステロンとバゾプレッシン、女性はエストロゲンとオキシトシン、で述べていくと脳科学的な発達理論が出来上がるのだが、それはまた別の機会にして、このブログの文脈で必要となるのは、男性と女性で脳に作用するホルモンが違う事が、男女の脳に異なった構造を与え、その違いが同じものを経験しても、男女で異なった現実理解を生じさせるという事を理解していただきたい事である。この違いが実は両性を結びつけるには絶望的な深淵なのである。同床異夢という言葉があるが、実は同床ですらないのかもしれない。男女は異なる現実を生きているのである。

     

    この違いによって生じる男女の行動パターンの違いを、脳科学的な表現をあえて現象的に表現すれば、男性は「fight or flight」(闘争か、逃避か)になり、女性は 「tend and befriend」(世話し、かつ 友となる。ここでのtend は 看護する、世話するという意味である。)となる。この表現は単純すぎると思われるかもしれないが、男女のもつれにおいて、もつれればもつれるほどその姿を表すものであり、異性愛のパートナーとの間で、どうすることもできないもつれが生じたときに、もつれをほどくためにまさに「原点」なのだと思う。 この違いが、男性に他者から独立することに自尊心を与え、女性には他者との密接な関係を築くことに自尊心を与えるのである。この関係を基盤にして、男性は睾丸からのテストステロンにより、会話、社交への関心が低下させられ(唯一の例外が性的なことへの関心である)、女性は卵巣からのエストロゲンにより会話、社交への傾向を与えるドーパミンとオキシトシンが分泌され、それはオーガスムに次ぐ二番目の快楽なのである。同じ脳から出発しながら、成長のプログラムに沿って、ある時期にあるホルモンが働くことで、男女の脳はある意味別物といってもいいぐらい、違ったものになってしまうのである。この事が男女の行動パターンを違うものにしてしまうのである。これはわれわれ人間が長い長い原始人としての時間を過ごして来たために、そこで生存していく目的に合わせて、合目的に役割を分担したことによる進化の痕跡なのであろう。適者生存の進化の圧力が男女の役割を決め、それが脳の構造を変えていったのであろう。 あまりに、即物的だと思われるかも知れないが、これが残念ながら科学的事実なのだと思う。それは、古代ユダヤの預言者の「So was it written , So shall it be done.」(かくのごとく記されたり、かくのごとく行われん。)と同じなのである。これが人間の男女の運命なのであろう。さらに話をややっこしくするのが、ホルモン変化による脳内のある働きを持つ領域の拡大、収縮に我々は人間的意味を与えそれで、その理論の中で思考することでその変化に意味を与えて理解しようとする。しかし、そのやり方は新たなホルモンの状態を思考で置き換え、すでに自分が知っているものに結びつけて理解しようとする、ラカンに言わせると想像的な、レヴィナスにいわせると独学者の理解の仕方なのである。それでは今まで経験したことのない新しい状況には対処出来ない。その人はそれまでの世界から出ていない。

     

    しかし、ハイデッカーのいうがごとく、人間は閉じ込められた世界を超えいでる可能性を持っていると考えたときに、そこに制約された中での自由を獲得することに本来に生きかたがあるのではないかと思う。そう考えた時に、これほど脳の構造が違ったしまった男女を結びつけるのが、或いは媒介するのが「愛」なのではないかとおもう。幻覚、妄想の類なのかもしれない。しかし、それがあることが出会いを生み、それが雲散霧消すると別れが生じるのだと思う。別れに直面したときに、想像的な、あるいは独学者的な思考から離れ、(進化の圧力やホルモンの作用を)象徴的に理解できる思考の方法をもつことが新たな出会いを創り出すことができるのではないかと思う。(これも幻想か?)

    | 1.サイコセラピー | 07:34 | - | - | - | - |
    認知モード理論 その5
    0

      認知モード理論 その5

       

      Top Brain system 、Bottom Brain system の両者を、それぞれよく使う人、あまり使わない人がいるので、組合せとしては、2X2=4通りとなる。その4つが認知モードの4つとなる。

      Top Brain を T、Bottom Brainを Bと表し、よく使うは(+)、あまり使わないは(−)とすると、

       

      1)T(+)かつ B( +)を主体者モードという。

      このモードで考える時、Tを使って計画して実行すると同時にBを使ってその結果を認識し、その後、フィードバックに基いて計画を調整する。このモードの人は自ら計画し、行動し、自分の行為の結果を目にできる立場にいる時が最も快適である。

       

      2)T(−)かつ B(+)を知覚者モードという。

      自分が知覚しているものを、Bを使って深く理解しようとする。自分が経験していることを解釈し、それをその時の状況に当てはめ、その意味合いをつかもうとする。だが詳細な計画をたてたり、それに着手することは苦手である。余談だが、木村敏先生の記載によると、有名な哲学者であり、精神病理医であったカール・ヤスパースはこのモードであったと思われる。

       

      3)T(+)かつ B(−)を刺激者モードという。

      創造的、独創的になれるが、物事の限度がわからなくなり、他人に迷惑をかけたり、自分の行動を適切に調整できなかったりする。Bによるフィードバックがかからないからである。

       

      4)T(−)かつ B(−)を順応者モードという。

      夢中になって計画の実行に取り掛かる事もなければ、自分の経験するものの分類や解釈に専心する事もない。その代わり、目の前の事象や差し迫った課題に熱中できることが期待される。行動指向性があり、進行中の状況への反応性が高い。

       

       

      実際にカウンセリングをなさっている方は、現在うまくカウンセリングが進行していない方の顔と上記の認知モードの一つが頭をかすめたのではないだろうか? その瞬間にこの認知モード理論はあなたの自家籠中のものとなるのである。現場を持っていれば、コスリンの本に限らず、ダマシオであろうが、コッホであろうが、脳科学のきちんとした本は難解ということはない。マルクスが資本論を書いた時は、当時一番資本主義が発達していたロンドンで、毎日労働者を見ていたというが、複雑極まる脳を取り扱う時には、書斎にこもって自分の脳だけを相手にしてもろくなことにはならない。診察室で、いろんな脳を観察することである。

       

       

      人により、どのモードが優位かが違い、それが性格のはっきりした特徴となるので、各自のアイデンティティにとって、認知モードは態度や信念や情動気質と並ぶ特徴であり、重要である。

      このモードを知ることで、脳が思考や感情や行動にどう作用し、ひいては学校、職場やもっと親密な状況での他人との関係にどんな影響を与えているかの理解の手助けになる。

       

      これで、認知モード理論の概説を終える。実際のカウンセリングの現場での使用には、この4つの分類をそのままで用いると、TとBによる二分法になってしまうので、それはコスリンの望むところではないので、実際の利用に際しては、よく考えられた細かいチューニングがなされていて、二分法ではなく、システムとして考えるということが徹底されている。認知モード理論のこういう考え方は、以前に人格障害に対するミロンの考え方を紹介した時にも考察しているが、現場では、なるべく単純なシステムこそが実用的であり、誤りも少ないものである。老婆心ながら、コスリンの作った診断リストは、日本人に使うには文化的背景が違うので、少し文章表現を変えなくてはならないと思う。

       

      こういう単純な考え方を現在私は脳というか、人間の理解に関して5つ持っている。それがコスリンの言い方を借りれば、二分法にならないように、システムとして考えられるように常に気をつけている。それと、考え方の限界、たとえば、コスリンはこの認知モード理論に対して、脳をどのレベルで捉えた理論なのか、情動のシステム(これは皮質下のものが大きい)はこの理論にははいっていないこと、つまり、あくまで大脳皮質の理論なのだということ、そして選択の余地がある時に働くモードなのだということをきちんと述べているのだが、それが理論を用いる場合に忘れてはならないことである。

      この認知モード理論による4つの方の分類に関して、本の中でコスリンが触れながら、実際に診断テストには採用されていない「心的イメージ」を用いることで、もっと簡易に直感的にできる方法があると思うが、心的イメージに関して誤解がないように述べるのは大変なので、次の機会にしたいと思う。

      | 1.サイコセラピー | 11:29 | - | - | - | - |
      認知モード理論 その4
      0

        認知モード理論 その4

         

         

        Top Brain に属する、視覚野から頭頂葉に向かう回路が空間関係の認識(あるものが、もうひとつのものの左側にあるなど)に、そしてBottom Brain に属する視覚野から側頭葉にむかう回路が視覚認識(顔を見てそれが誰かを認識するとか、あのネコは前に見た猫だとかを認識する)ということは言葉はともかく内容は既に神経内科の教科書にも記載がある、目新しいことではない。

         

        ここをもう少し詳しく説明する。

        1. Bottom Brainに属する側頭葉は、目からだけではなく、(聴覚中枢は側頭葉にあるので)耳からの入力信号もまとめて、ノイズを取り除き、脳の別の部位に送る。さらに他の側頭葉の部分には形状の(視覚的)記憶、音声の記憶が蓄えられているのでその情報も同じように送られる。
        2. この情報は Top Brainに属する前頭葉の上部に送られ、そのおかげで現在知覚している物体の性質についての情報が利用できる。そこで処理された情報が、今度はBottom Brain に送られる。
        3. 同じ側頭葉からの情報は、同じBottom Brainに属する前頭葉下部にも送られ、当該の物体や事象について適切な記憶を活性化させ、関連のある情動的な記憶の処理に重要な役目を果たす。(ここで辛うじて認知モード理論で情動が関連している)そしてそれがまた、Top Brainに送られる。

         

        この辺の事は、論文や本によって表現はさまざまであり、コスリンはそれらを以下のようにまとめている。

         

        1)Bottom Brain system は、感覚器からの情報をまとめるとともに、知覚されているものを、それまで記憶に保存されていた全情報と比較し、それからその比較の結果を使って、入力信号を生み出した物体や事象を分類し、解釈する。

         

        2)Top Brain system は、身の回りについての情報を(情動的な反応や生理的要求のような他の種類の情報と組み合わせて)用いて、どの目標を目指すか決める。自ら計画をたて、その計画がどうなるかを見込み、それから、計画が実行されるなかで、起こっていることを予期していたことと比べ、その結果に従って計画を調整する。

         

        3)Top Brain と Bottom Brain の二つのシステムは、常に協同する。

         

        4)我々は、常にこの二つのシステムを使う。だが使い方に2種類があり、ひとつはたとえば歩くときの脳の使い方、つまり選択の余地の無い、状況に強要されている時の使い方で、これは誰もが同じ様にTop Brain と Bottom Brainを使う。しかしもうひとつは選択の余地のある、コスリンが言うには踊る時の様な脳の使い方で、このときにTop Brain と Bottom Brain をそれぞれ、どれぐらいの割合でつかうかが、この認知モード理論の基本になるのである。ここをきちんと押さえておく事が極めて、極めて大事なのである。

         

        さあ、これでやっと実用的な4つの認知モードの話に入る。

         

        | 1.サイコセラピー | 02:02 | - | - | - | - |
        認知モード理論 その3
        0

          認知モード理論  その3

           

           

          繰り返しになるが、この理論の優れている点は、右脳ー左脳の二分法という古いパラダイムから、Top Brain , Bottom Brain という二分法ではないパラダイムを提供し、かつそれが前回ブログで述べたように脳科学の発達によって明らかにされた知見にきちんと裏づけられている事である。コスリンは、脳を大きく捉えるという手法を使っている。大きくというのは、例えていうと、脳を家とすると、その材料のレベルはニューロンのレベル、もっと細かい材料の分子構造のレベルはニューロンのたとえば、カルシュウムチャンネルのレベルになるが、それよりマクロな、家のそれぞれの部屋のレベルで脳の機能を考えているのだ。だからレベルでいうと右脳ー左脳の二分法に近いレベルで考えるのであるが、二分法では脳のマクロな部分がどう相互に関連しあって働くのかを捉えることができない。右脳ー左脳の二分法は極論すると「分離脳」になってしまい、相互作用の説明ができないということなのだ。二分法に代わって「システム」でかんがえる手法を使っている。システムであるから、「出力」、「構成要素」、「入力」があり、構成要素がシステム全体のために連合し、それぞれの入力に対して適切な出力を生み出す。認知モード理論は脳を上部と下部という大きな部分に分けて、その両方を情報を特定の方法で処理する「大きな」システムとして考えている。この大きなシステムを上部、下部にわけ、前者を後頭葉、頭頂葉、前頭葉の大半(上部)、後者を後頭葉、側頭葉(下部)という処理システムと考えるのである。そしてここが大事な所なのであるが、右脳ー左脳の二分法と違って、システム間の連合がある。そこが二分法に比べて、臨床的に役立つのである。Top Brain と Bottom Brain はそれぞれ、さまざまな部分が迅速に連絡し合って連合出来るような構成要素をもっているのだ。ただ、この理論は知・情・意の知と意のシステム理論であり、情のシステムはほとんど考えていない。辺縁脳はTop Brain にも、Bottom Brain にも入っていない。そして繰り返すが、脳を「大きな」捉え方しかしていない。このことをはじめから承知の上で、この理論を日常診療に活かしていこうというのが狙いである。脳科学が細かいレベルで発達したために、トランスポートのチャンネルの微細構造や、神経伝達物質の化学的合成、分解過程、それに基づく薬物動態などが脳科学、精神科学の本の多くのページを占めるようになった。その方向は学問としては価値のあることだが、顕微鏡の倍率を上げすぎると全体が見えなくなってしまうような面があり、日常診療には適さなくなるのだ。脳を、大きく捉え、システムとして考えると言うのは優れた着眼点だと思う。

           

          | 1.サイコセラピー | 07:16 | - | - | - | - |
          認知モード理論 その2
          0

            認知モード理論 2

             

             

            「Top brain , Bottom Brain 」の認知モード理論について、内容の説明をする前に、この本では大脳皮質の機能の理論なので、知・情・意のうち情について、つまり辺縁脳については記憶に関して僅かに触れられるが、情動、感情にはあまり触れられていない。また、右脳・左脳という二分法を否定的に捉えていること、さらに二分法自体を否定的に捉えていることを最初に紹介しておきたい。話が脱線するが、三島由紀夫がトーマス・マンの「魔の山」を読んではじめて大陸的二元論というものに得心したと言っているが、右脳・左脳もそういう二元論として捉えれば、コスリンが言うように根も葉も無いこととは思わない。コスリンは二分法ではなく、システムとして考えると言っているのは、Top Brain と Bottom Brain が、右脳・左脳ほど形態学的にはっきり二分されていないことがあるのだと思う。

             

            前回ブログで書いた通り、Top Brain の回路は視覚野(V1)から上向きに視覚連合野の後部頭頂葉(空間的な位置に関する視覚情報)を通り、前頭葉背外側(空間的な記憶を使った決定をする)に至る(superior occipitofrontal fasciculus)で、視空間認知が行われる。空間識別といわれ、ものの空間的関係を認知するのであるが、空間の中で物をどこに動かすか、身体をどう動かすかを決定する事も含まれるので、「計画を立てて実行する」のが Top Brainの作用と言える。

             

            一方、Bottom Brain の回路はV1から向きに下側頭葉(物体に関する視覚)を通り、前頭葉底部(物体に関する記憶をつかった決定)に至る(inferior occipitofrontal fasciclus)で、物体識別が行われる。つまり、それがなんであるかとか、誰であるかとかの認識を行うわけである。周りの世界からの感覚情報を分類して解釈する。

             

            Top brain 使う、使わないで2通りの認知モード、同様に Bottom brain に関しても2つもモーだがあるので、組み合すと、4通りの認知モードを設定できる。これが認知モード理論の大略である。

             

            なお、情について触れないのは、この「認知モード」というものが、「世界へどう向かい合うか、他者とどう接するかの根底にある、人間の思考法」であると述べられているので、知と意でしかないことははじめから知る必要がある。

             

             

            | 1.サイコセラピー | 21:42 | - | - | - | - |
            認知モード理論 その1
            0

               


              脳科学から出てきた理論の中で認知モード理論(theory of congnitive modes ; Stephen Kosslyn)が人格の理解、人格を変えていく方法として実用的だと考えるので、それを説明するうえでも必要と思われる脳科学的な知識の説明から入りたい。

               

              従来は大脳を前頭葉、頭頂葉、後頭葉、側頭葉と分けてきたのであるが、少なくとも肉眼的にはっきり分けられるのは、前頭葉と頭頂葉の間が中心溝で、側頭葉と前頭葉がシルヴィウス溝で分けられているだけで、頭頂葉、後頭葉、側頭葉の間にはこのような溝は存在しない。だから植村先生が言われるように、頭頂葉、後頭葉、側頭葉は機能的に分割できないひとかたまりの物、それに抵抗があるのであれば、頭頂葉ー後頭葉ー側頭葉コンプレックスとでも捉えた方が良いと思う。さらに、このコンプレックスを感覚統合脳、前頭葉を表出脳、辺縁系を中心とした側頭葉、頭頂葉の内側部を辺縁脳ととらえるのは作用から大脳を分節する上では優れた考え方だと思う。そして、哲学でよく言う、知・情・意を、それぞれ感覚統合脳、辺縁脳、表出脳に割り振るのである。人間が行動変容を起こすためには、知と情が共に意に働くことが必要になる。

              こう捉えることで、認知モード理論(theory of cognitive modes)で知られるStephen Kosslyn の 『Top Brain , Bottom Brain 』が理解しやすくなる。


              まず、知情意の知に関して。

              体性感覚皮質に対する体性感覚連合野の様に、低次機能を担当する皮質がうけた感覚情報を高次機能を担当する皮質が「統合」しているが、この統合は皮質間だけではなく、視床が複雑に関与して、前々回のブログで述べた意識を形成する、膨大な情報量と視床ー皮質コンプレックスにとって必要なものである。

              視覚においても同様の関係が視覚皮質(ブロードマンの17野)と視覚連合野(情報はブロードマンの18野→19野の順で伝わる)に認められる。ただし、この連合野での情報の伝わり方に2方向があり、頭頂葉方向に向かうものは視空間の認知に、側頭葉に向かうものは物体認知を
              司る。先に述べたKosslynのTop Brain , Bottom Brain はこの方向に基づいた分け方なのである。

               

              次に、知情意の意に関して。

              運動皮質、運動前野の関係は感覚皮質、感覚連合野の関係に似ているが、運動野にはほかに補足運動野と言うのがあり、運動前野は随意運動に、補足運動野は自動運動に関係している。

              スポーツ理論は、昔このブログのメンタルトレーニングで少し述べたが、ここがポイントなので、機会があれば脳科学から見たスポーツ理論を述べたいと思っている。

               

              最後に、知情意の情に関して。

              情は、情動と感情を分けて考えることが大切である。悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだというダマシオの理論の理解のポイントはここにある。脳科学的にも、情動は扁桃核が、感情は島皮質が司るのである。又、情の領域には外部からの刺激だけではなく体からの刺激も入力する。(Trieb を思い出してほしい)

              情の回路には、感情の興奮を司るPapezの回路(情動と記憶の感やすると言われた)と、感情の抑制を司る Yakovlev(ヤコブレフ)の回路がある。前者は扁桃体を、後者は前頭前野を結節点とする閉鎖回路である。前者の中心が海馬であり、その海馬は中間期記憶(最大2年まで)を司る。

               

               

               

               

              | 1.サイコセラピー | 13:33 | - | - | - | - |
              マインドフルネス
              0

                マインドフルネス

                 

                 

                1995年ぐらいに、Zen Keys ( Thich Nhat Hanh)という本を読んだ。第一章が マインドフルネスの修業なので、マインドフルネスという言葉の意味は現在心理畑で言われるマインドフルネスよりも、Hanhの文脈からは「気づき」としてインプットされている。

                 

                さて、現在、心理の現場、たとえば就労支援施設でも心理療法として使われているマインドフルネスについて、前述の意味とは完全には一致しないと思うので便宜上、Hanhの言うマインドフルネスは「気づき」、心理療法としてのマインドフルネスはそのままで表現する。

                 

                脳科学から分かってきたことを心理療法に結び付けていったのがマインドフルネスである。脳科学から脳の安静時のエネルギー消費が、全エネルギーの20%に達していて、これを減らす事が出来れば、脳に余裕が出来、余ったエネルギーを使って脳を元気にすることができると考えた訳である。それでは、何もしてないときに使われる脳のエネルギーは何に使われているのか?それが、過去への悔い、未来への不安なのだということなのである。そこで、もし現在に集中する事ができれば、無駄なエネルギー消費を減らせると考えた訳だ。この「今に集中すること」ということで、脳科学と禅の方法論、気づきが結びついたわけである。禅の方法論ではない、もっと機械的で、即効性のあるやり方として経頭蓋磁気刺激法という磁力で左前額部を刺激すると同じ様な効果がある方法もある。米国での成績は禅の方法論も、この磁力をもちいる方法も有効性は同じぐらいとされている。日本では後者は高度先進医療で、保険の適応になるにはきつい縛りがあり、私費で受ける方が多い様だが、残念ながら私が知る範囲では有効ではなかった方が多い様に感じる。

                 

                初めに述べたThick Nhat Hahn の本を読むと、『「はっきり目覚めている」生き方から生まれてくる深い気づき(ここは mindfullness ではなくて、awareness )を通してこそ、存在の真理があらわになってくるのだ。』とある。ここでなぜ mindfullness ではなく、awareness が使われているのかというと、深い気づきだけではまだ mindfullness(気づき) には至らないということで、本来のmindfulness (気づき)は「存在の真理があらわになる」ことなのである。その意味で、心理療法としてのマインドフルネスは道半ばということなのである。

                 

                はじめて心理療法としてのマインドフルネスを知った時に感じたのは、たとえ脳科学が無くても、既にHahnの教えは、マインドフルネスを凌駕しているということである。たしかに脳科学的な説明はより説得性は有るだろうが、今までになかった方法、たとえば磁気による刺激の様なものはないのである。だから本当は「存在の真理があらわになる」所にこそ気づきの本質があるのではないかと思う。awarenessを通してmindfullness にいたる方法論を脳科学から新たに生み出すことが求められているのではないかと思う。

                 

                | 1.サイコセラピー | 17:42 | - | - | - | - |
                精神分析と脳科学
                0

                  精神分析学と脳科学

                   

                  精神分析学と脳科学は親和性が高い事は、例えばフロイトの「科学的心理学草稿」で述べられている通道Bahnung の概念と脳科学でのニューロン同士を結合する同期発火の概念を比べると実感されるであろう。この両科学の間の時間的距離を考えるとフロイトの炯眼には驚くしかない。ただもし後者が前者の単なる新バージョン、言い換えに過ぎないのなら、カウンセリングの現場ではなんの意味持たない。そこで、両科学の親和性の低い領域を考える事で、お互いに補合えるところを明らかにして、現場での新たな展開の可能性を考えたい。

                   

                  精神分析(特に断らない場合、精神分析とはここではフロイト、ラカン、ビオン等のものを言う)は firstperson perspective 一人称的な見方 から成り立っている(平たくいえば、自分はこのように欲望するから、他者もそうするだろうということを公準として成りたつ)のだが、脳科学は thirdperson perspective 三人称的な見方、つまり客観的な科学的な見方から成り立つ。前者を主観、後者を客観といってもいいと思う。今の世界はひたすら科学的であること、客観的であることに純化しよう、させようというバイアスがかかっている。

                   

                  医学部の基礎科目の中に生理学というものがある。普通、二つに分かれ、一方は動物生理学と呼ばれ、神経系、運動系を、もう一方は植物生理学と呼ばれ消化系、循環器系を扱う。後者を「はらわた」、前者を「それ(はらわた)以外のもの」に分類する斬新で、かつ実学的な発生学もあるが、いまはそれには触れない。その動物生理学の生理学たる所は、活動電位、つまりニューロンが電気信号を創り出す物理化学的な仕組みの解明だと思う。そして、それが教科書として書かれた脳科学の本、例えば Principles of Neural Science ( Eric R. Kandel ) でも多くのページを割かれている。活動電位の作られる原理は昔、生理学で習ったことと同じであるがその仕組みの解明は分子生物学的にはるかに詳細なものになっている。まさに thirdperson perspective である。こういう解明が、科学的な病気の原因の解明や治療に結び付く事だけでも価値があることはお分かりいただけると思う。だから、医学自体がより客観的に、より科学的に動いて行くのは当然のことなのである。それを認めた上でなのだが、科学には限界がある、つまり科学は科学が証明できることしか扱わない、扱うことができないのである。thirdperson perspective が扱うことの出来ないものが我々の『生きている世界』にはあるのではないか、firstperson perspectiveと third person perspective の発展的統合が必要なのではないかと思うのである。

                   

                  比喩的にいうと(魂の実在を認めるわけではないが)、今の医学の進み方は、『仏作って魂入れず』になってはいないかということである。仏が third person perspective , 魂が first person perspective ということである。

                   

                  どうしても従来の精神分析が説明できないこととして、なぜ意識が生じるのかという問題があると思う。最初に述べた科学的心理学草稿でも意識自体については説明できていない。脳科学自体もこの問題に答えていない、むしろ問題として避けているようにさえ感じてきた。たしかに例えば脳幹網様体の働きの様に意識の必要条件については述べられてきたかもしれないが十分条件については無言であったと思う。

                   

                  しかし、先日、秋保温泉の中のピザ屋さんの本棚に、「意識をめぐる冒険」(クリストフ・コッホ)という本を見つけ、ピザが焼きあがるまでの時間軽い気持ちで読みだしたのであるが、その中の「意識の統合情報理論」というところを読んで、まさに目からウロコが落ちる思いがした。詳しくは同書を読んで頂きたいが、要点のみ引き写すと以下の様になる。


                  1. 一瞬一瞬の意識経験は、とてつもなくたくさんの種類の他の意識経験の可能性を除外するという意味で、情報量がとてつもなく多い。
                  2. 意識の内容は高度に統合されている。意識がいつもひとかたまりである(統合されている)のは、脳内の関連し合う部分同士が非常に複雑に因果的に相互作用しあい、一つの大きな皮質➖視床複合体を作っているからだ。

                   

                  このことから、あるシステムが意識を経験するためには、膨大な情報量があり、その上でその膨大な情報量が(因果的に)統合されていなくてはならない。全体として統合された時に初めて生じる情報というものがある。つまり、[意識レベル] = [全体が生み出す情報量] ー [部分が生み出す情報量の総和] 。

                   

                  こういうゲシュタルト的な考え方というのが、てんかん発作の時の意識消失を説明できるという観点から、直感的ではあるが、私はこの考え方に感激したのである。余計なことでは有るが、その本を読むのをやめられなくなり、ピザ屋さんから借りて5日で読了した。

                  この様に脳科学を導入して精神、神経の世界を分析していくことは、firstperson perspecitive,精神分析、カウンセリングには避けられない、ある意味必然なのではないなかと思ったのである。では、一方、脳科学、thirdperson perspective に足りないものはなんなのか ?

                  それは、脳科学の用語を使うとクオリアである。クオリアという表現はできても、或いは多面次元に浮かぶ結晶という表現は出来ても、それでもクオリアというものを「感じること」はできないという事実なのである。即自的に存在する事が thirdperson perspective にはできないのである。

                   

                  人間は離人症になることができるが、コンピューターはどうあがいてもなれないのである。

                   

                  精神分析家、心理学者、カウンセラーは、自分の基盤に脳科学の見方を、脳科学者は精神分析、心理学の見方をそれぞれ取り入れる事が急務であると思う。

                   

                   

                   

                  | 1.サイコセラピー | 06:23 | - | - | - | - |
                  倒錯について 12
                  0

                    今回もFinkのLacanian psychoanalysisの訳である。これで倒錯の総論が終わり、次回から各論に入っていく予定である。

                     

                    享楽から分離へ

                     

                    倒錯を論じるときにフロイトはほとんど常に主体が法を拒絶することを強調していた。主体が満足を諦めることを頑強に拒否することである。ある意味でフロイトはこのように倒錯をもっぱら倒錯者が得られ続けている満足という視点から考えているのである。

                     

                    注40) フェチシズムの利点についてのフロイトの注解を考えてみること。「フェティシュが成し遂げること、そしてそれを維持するものが何かが今やはっきりできる。それは去勢の脅威に対する勝利の印であり、去勢に対する防衛である。それはまた性的な対象として女性を耐えられるものにする特徴を女性に授けることで、フェティストが同性愛者になることを防いでいる。後年になり、フェティストは彼の性器の代用物から、なお他の利点を享楽していることを感じるのである。フェティシュの意味は他の人には知られないので、フェティシュは自制する必要がない。簡単に利用できるし、それに伴う性的な満足を容易に得ることができる。他の男たちが得ようと努め、そのために努力しなくてはいけないことをフェティストは楽々と手に入れることができるのである。

                     

                    ラカンはより古典的なフロイトの手法として的確だと認められるであろうやり方で倒錯を考察している。つまり、あらゆる他の活動と同様に、倒錯はそれがもたらす(間接的であろうが、直感的でなかろうが、)満足の視点から考慮されるべきであると同様に、法と分離の関係において倒錯がはたす機能の点からも考慮されるべきである。神経症の症候が何らかの代理の満足を患者に提供するだけではなく、「不安を拘束するために」も形成されるのと同じように、倒錯者の活動はも直接的な性的満足を得るだけの単純な目的で行われるのではない。

                     

                    注41) 明らかに、不安を拘束することは満足の視点からも理解される。快原則から要求される通り、不安を拘束することは緊張のレベルを下げるからである。それと同様に倒錯者が分離を制定することは、これから見るように、満足の視点からも理解される。 ほとんどの神経症者は、倒錯者が自分たちが人生で得られるよりもはるかに多くの満足を得ているに違いないと思っているし、実際多くの分析者も同じ罠に落ちている。そう思うことは、倒錯者の明白な「享楽への意志」(ラカンがそう呼んだように)が何によってそう仕向けられたのか、何に奉仕しているのか、何を隠しているのかを理解するのを止めてしまう。 フロイトが、存在してきたとよく仮定してきたと思われる父親、つまり、母親から息子を分離させるのになんの保留もしない父親(倒錯者はこのことが起こるのを頑として拒否する息子である)から、、権威を持って自身の問題を解決しようとしない、父親が子供に権力を振るうべきだと信じていない、子供は理性的な生き物で大人の説明が理解できると信じ、子供を妻に任せっきりにすることを好み、怖がられるのではなく愛されることを欲し、(おそらくその上)妻に自分の権威を切り下げることを許している平々凡々とした現代の父親に目を写してみると、むしろ異なった視点から倒錯者を理解しることができる。

                     

                    注42)「母の欲望」(母親の子供に対する欲望、あるいは子供の母親に対する欲望)が事実であるとすると、大概の場合その責任は母子関係の三者関係化と分離をもたらす父親に降りかかる。

                     

                    Perversion and the Law

                     

                    倒錯と法 ラカンの倒錯についての逆説的な主張の一つが、倒錯はなんでもありの、享楽を求める行動として現れることがあるのにもかかわらず、法を存在させようとするはっきりしない目的があるということである。つまり、大文字の他者を法(あるいは法を与える大文字の他者)としようとするのである。例えば、マゾヒストの目標は(多くはパートナーに不安を生じさせることによって)パートナーあるいは目撃者に法を宣言し、おそらく判決を告げるところまで連れて行くことである。倒錯者はある種の「始原的満足」ー ランガージュの主体としての彼自身の主体的な分割を超えること、を得られるように思われる(残りの我々のように、話す存在には、享楽のわずかのかけら以上のものを得ることさえできないと思われる。つまり、ラカンが「享楽は話す人誰にも禁じられている。」と言う通りである。)そして、倒錯者は神経症者が夢見るか、幻想するかしかできない、ある種の全体性、完全性を見つけているように思われるが、実際には不安が倒錯者のセクシャリティを支配しているのである。倒錯者の意識的な幻想はある種の終わりのない享楽だと思われるかもしれないが(マルキ・ド・サドの数多くのシナリオで、男性の性的器官は性的活動を再び始めるにあたりなんの制限もないのを考えてみなさい。)しかし、意識的な幻想と具体的な行動を混同してはいけない。具体的な行動は享楽に限界を置くように仕組まれているのだ。

                     

                    注43)ある人の実際の行動は、特に分析の初めにその人が気付いている幻想よりも、その人の基本的幻想をはるかによく表すことが多い。

                     

                    欲望は常に防御であり、享楽のある限界を超えて行くことに対する防御であり、それは倒錯者の欲望であれ例外ではない。例えば、マゾヒストは、幻想において、全てを大文字の他者のためにして、自分自身のためには何もしない。「大文字の他者を私に夢中にさせよう、大文字の他者がいいと思うように私を使いなさい」とマゾヒストは言っているようだ。しかし、この幻想を超えて、マゾヒストの狙いは少し違っている。と言うのはこの明白な利他主義つまり、「私には何もいらない、全ては大文字の他者に」というのを超えて、そこにはマゾヒストのためのものがある。防御としての欲望は倒錯者の基本的な幻想に現れるが、それは法に関して倒錯者の位置を示す。

                     

                    神経症者は法に関連して欲望する。つまり、神経症者の父親は子供はその母親を所有できないと言い、従って子供は無意識に母親を欲望する。一方、倒錯者は法の作用として欲望するのではない、つまり、禁止されているものを欲望するのではない。代わりに、倒錯者は法を存在させるようにしなくてはならない。ラカンはフランス語のperversionをもじって、pere-versionと綴り、父を要求し、父に訴え、父に父の機能を履行することを望んでいると言うことの意味を強調している。

                    | 1.サイコセラピー | 11:44 | - | - | - | - |
                    倒錯について 11
                    0

                      今回も、Bruce Fink の 「A clinical introduction to Lacanian Psychoanalysis」の第9章の訳出である。例によって、シェーマをブログに出せないので、Fig.8.3と Fig.9.1 は原書から拾っていただくしかないが、今回の、Being abd Having, Alienation and Separation を理解していただけば、「倒錯者の位置」ないし、「倒錯者の原理」は、いわゆる倫理道徳的な理解を離れ、Pshycosexual development の一段階への固着に過ぎないことが理解されると思う。

                       

                      Being and Having , Alienation and Separation (「〜であること」と「〜を持つこと」、疎外と分離)

                       

                      倒錯のすべての問題は子供が、その母との関係において、つまり、生物学的な(生命の維持に必要な)依存によってではなく、母への愛、すなわち母の欲望への子供の欲望によって分析の中で構成される関係の中で、母の想像的な対象とどのように同一化するのかということである。                    ーLacan, Ecrits,554/197-198

                      (この文章は、Finkの他の著作でも何度も引用されている。)

                       

                      フロイトが我々に示すのは、父の名のおかげで人は母親の性的なサービスに束縛されたままにならないですむということである。                    ーLacan , Ecrits, 852; Reading Seminars and

                       

                      倒錯に関する私の本質的なテーゼを記載するための一つの方法は「倒錯者は疎外を、別の言葉で言えば、原抑圧、意識と無意識の分裂、真に来るべき言語における主体になるべく用意する父の名を受け入れるないしは認めることを(精神病者とは違って)経験してきたが、分離は経験してこなかった」と言うことである。

                       

                      注33)この本でのラカンの用語である疎外と分離についての私のコメントは全く基本的でしかないので、詳しくは、The Lacanian Subject の5、6章を参照のこと。ここで注意すべきは、主体は疎外を通して言語の中に存在するようになるが、主体は単なるプレースホルダーとして、すなわち欠如として存在するようになるということである。本質存在という方向で何かを与えるのが分離である。 (「倒錯を理解するために」としてこの前のブログで訳出したFink のThe Lacanian Subject 5章を参照してほしい。)

                       

                      ここで、倒錯者の疎外をどう特徴付けられるだろうか? ラカンが言うように、我々は大文字の他者の欲望の部分対象としてこの世界に現れる( Ecrits, 582/225)、大文字の他者の欲望の対象となること、大文字の他者の欲望を勝ち得ることを望みながら、そして倒錯者には、彼の父親の欲望は全く言明されていないかのように思われ、母親が自分自身でその想像的対象をファルスとして象徴化する限りにおいて、倒錯者の母親の欲望の想像的対象に同一化する。(Ecrits, 554/198)

                      表現を変えると、母の欲望の想像的な対象はここではファルスであり、そのファルスは置き換えができるシンボルではなく、仮定的に言えば、母親が欲望するであろう、すべての地位を表す装いや、すべての社会的価値を設定する対象や、社会的に受け入れられた「真の男」、かってのファルスの所有者に似ている夫(あるいはボーイフレンドなど)という意味としてのファルスではなく、象徴化されない、代替え不可能な、置き換え不可能な対象としてのファルスであり、そして子供はそのファルスになろうとするのである。子供は母親の小さな宝物、フロイトならそう言ったであろう、母親の小さなペニスの代わりになろうとし、父親は多くは介入しようとしない(多分一人で居たいから)か、彼の介入の目論見は無効であるかなのである。

                      8章で導入した図を用いると、倒錯者の位置をFig.9.1のように示すことができる。この図を神経症者のそれと比較すると、倒錯者の主体の位置は大文字の他者を超えたところや、外部を必要としないことがわかる。その代わりとして、主体として、倒錯者は対象の役目を果たす。つまり、大文字の母親の空虚を埋める対象である。図式的に言うと、大文字の他者における最初の分割は倒錯者には起こっている。つまり、大文字の他者は完全ではなく、倒錯主体の大文字の母親は何かが欠けていて、何かを求めている。「私は何か?」と言う質問に対する倒錯者の答えは、「私はそれだ」それとは母が欠いている何かである。倒錯者にとって、このように、存在の永続した問いはない。つまり、倒錯者の存在の理由に関して永続した問いはないのだ。

                      男の子を母親から分離させるなら、男の子にファルスであることを辞めさせ、ファルスを持てるようにする必要があるだろう。つまり、(父親の父の認知や評価、社会的、象徴的活動の場を通して)象徴的なものを得るために想像的ファルスであることを辞めさせる必要があるだろう。男の子が母親にとってのファルスであれば、決して象徴的な位置を取れないだろう、その位置は象徴的去勢に伴うのである。母親が誇れる何者かになるよりむしろ、男の子は母親に愛情を持って抱きしめられ、撫でられ、多分性的な絶頂にさえ達するであろう何者かのままでいる。彼は世の中で有名になることができない、と言うのは彼が望みうるのは象徴的な達成ではないからである。

                       

                      注34)ここでは父親がファリックなシニフィアンを提供できていない、例えば、ハンスの想像的ファルス(この少年の夢の一つの中で、風呂桶のコック、彼のペニスのシンボル、が水道屋によって取り替えられる)のネジを緩めて外し、象徴的なファルスに取り替えることがでできない。

                       

                      彼は彼の母親の最高の目的として仕えるという水準に固着したままになる。

                       

                      原抑圧は主体が存在するのを可能にするが、それから子供は「僕は誰なの?」「両親にとって僕は何なの?」と問われるままになる。倒錯者は自身を大文字の母親に欠けているのものとして構成し、自身を母の欲望の対象とする、つまり自身を母親の対象aとするのである。彼は母親が無くしたもの(彼女のペニス/ファルス)そして彼女が欲するものに成る。子供は自身で母親の欠如を埋める。大文字の他者の欲望/欠如は、5章で詳細に説明してきた通り、名付けられない限り、不安を作り出し、この不安に対する倒錯者の解決は大文字の他者に享楽あるいは(たとえ一時的でも)欲望を消し去るある種の満足を提供することで母親の欲望を塞ぐものに成ることである。

                       

                      注35) 症候のように主体の位置は基本的には問題への解決策である。ここで注意して欲しいのは、Fig 9.1で示した倒錯者の解決策は、Fig.8.3のヒステリー者の解決策とある類似性を持つことである(倒錯者では主体の側が全く失われているが。)しかしながら、倒錯者とヒステリー者の(解決策の)間には、その使用域の重要な違いがある。つまり、ヒステリー者は大文字の他者の欲望(これは象徴的なものである)を引き起こす対象になろうとするのに対して、倒錯者は大文字の他者の享楽(これは現実的なものである)を引き起こす対象になる、すなわち、大文字の他者がそれによって満足を得る対象になるのである。第8章で見たように、ヒステリー者はそれによって大文字の他者が満足を得られる現実的な、身体的な、対象になることを拒否するのである。

                       

                      倒錯者との分析をするのがなぜそんなにも困難であるかの訳をこれが説明している。すなわち、倒錯者は分析者の欲望を満たす(塞ぐ)ことができる対象の役を演じることを期待して、対象aの役を自分自身に割り当てる。倒錯者が欲望の原因の位置を占めようと一生懸命な場合、倒錯者の分析主体(被分析者)の欲望の原因になるというやり方で転移を巧みに処理するのを強いるのは分析者には困難であろう。倒錯者は分析者を自分自身の沈思の原因とするよりむしろ、分析家の不安や欲望の原因として務めるだろう。このように純粋に倒錯者と分析をするのは極めて難しく、無意識の形成物によって、分析家が倒錯者に強調したものによって、倒錯者に興味をそそらせ、彼らの欲望を動かすのは難しい。ラカンが言うように、対象aが大文字の他者、ここでは分析家としての大文字の他者の中に、転移が可能可能になるように、主体によって位置づけられなくてはいけない。(Seminar 勝July 3,1963)

                       

                      注36) 分析家は分析主体(被分析者)の問い、あるいは満足の欠如の場所を占める。(その人の存在の理由であろうと、その人に性的満足を与えるものについての混乱であろうと)問い、あるいは欠如がないと、分析家は自分の務めを果たすことができない。ジャック・アラン・ミエールが言うように、知っていると仮定される主体が生じるためには性的享楽の場に何らかの空虚や欠落が必要なのである。

                       

                      しかし、倒錯者の位置をより厳密に明確に表現するためには、倒錯者は大文字の母親の欲望よりもむしろ大文字の母親の要求を扱っていることが強調されなくてはならない。子供の大文字の母親が「持つ」欲望/欠如が名付けられない、つまり口に出されない限り、子供は母親の要求にのみ直面させられる。厳密に言うと、欠如は象徴的体系の外部には存在しないので、子供は母親の欠如すなわち欲望に直面させられることすらないとも言える。ラカンが繰り返し用いる何が欠如を構成するかの説明は、図書館の本棚にない本の例である。知覚の見方からは、我々はそこにあるものだけ、、現存するものだけを見るので、そこにないものは見えないのだから、その本がない(ないことは見れないのだから)とは言えないことになる。その巻がその場所にないとか、なくなっているとか言えるのは(一巻と三巻がそこにあれば、その間に空間はないわけだから)例えば、デユーイの十進法の体系や、議会図書館の書籍分類体系のような象徴的な方眼が本の記号や名前を提供できるからでしかない。ある空間や場所を割り当てたり、規定したりするシニフィアンの体系がなければ、何ものもなくなっていると考えることはできない。言語がなければ、すなわち、象徴的な秩序がなければ、何ものかが欠けていると考えることはできない。

                       

                      このことが意味するのは、我々は、その母親が何かの点で欠けていると言われるまで、その母親を欠如として語ることさえできないのである。つまり、母親が自分で何かあるいは誰かへの切望、何かあるいは自身の子供へではない欲望を言葉にするまで、あるいは誰か(典型的にはその父親)が母親の欲望(例えば、母親は何々をうらやましく思っているとか、毛皮のコートを欲しがっている、昇進したい、父親にはああではなく、こう振舞って欲しい)あるいは母親の足りないところについて言明するまで。子供は、母親の欲望すなわち欠如が明確に述べられ、口に出されるまで自分の母親が欠けている、欲望していると理解しているとは言えない。一度それが名付けられるや、母親の要求の重み(例えば子供の身体的機能に関する現実的な、物理的に避けられない要求)が解除され、欲望の空間が利用可能になる、その空間では母親の欲望が明確に述べられ、動き、そこで子供は母親の欲望を自分の欲望のモデルとすることができる。

                       

                      「それ」が名付けられるまで、欠如はない。子供は要求としての大文字の母親に覆い隠され、自分自身の立場を適合させられない(欲望というものが享楽に関して立場を決め、享楽に対する防衛となる)

                       

                      注37) ここでは、最初のリビドー的な対象(すなわち、子供に享楽を与える対象)はその母親である。

                       

                      ここで子供は「欠如の欠如」と言えるものに直面しているのである。大文字の母親の要求だけが存在し、彼女は語るべき何ものも欠けていない、子供にとって象徴化できる何ものもない。

                       

                      注38) ラカンは「欠如の欠如」をやや異なった文脈で取り上げている。母親がいない、子供と共にいない時に子供は不安になると最も普通に信じられているが、ラカンはその反対に、不安は実際には、大文字の母親が常にいる時に「欠如の欠如」によって生じると言っている。 「何が不安を引き起こすのか? 言われているのとは違い、母親がいるーいないのリズムでも交代でもない。何が不安を引き起こすのかを証明するのは子供が「いるーいない」のゲームを繰り返すことで欲望を満たすことである。在の安心は、不在の可能性に基づくのです。子供にとって最も不安を作り出すのはそれを通して彼が存在するようになる関係、それは子供に欲望させる欠如を基盤としており、それが最もかき乱された時である。つまり、欠如の可能性がない時、母親が常に子供の後ろにいる時である」( Seminar 勝12月5日、1962) 倒錯者の場合にこれが示すのは、母子関係が過度に密接であるならば、母親が「所有している」子供を超えて何も欲望することはないと思われ、母親が欠けていると受け取られないだけではなく、子供自身が自分自身の生活になんの欠如も感じないし、このようであれば欲望することができない、厳密にいうと欲望する主体として存在することができない。ラカンが語る欲望は、欠如を覆うものであると同時に、不安に対する治療でもある。

                       

                      しかし、一度名付けられると、現実の欠如(母親の生活での欠如、例えば、旦那に、自分の職歴、自分の一生に満足できない、ー 語られることはないけれど息子を通してうまくやろうとしてきたもの)はある程度無効にされる。ラカンが言う通り、言葉は「もの」の死因である。「もの」(現実的欠如)は、一度名付けられると、言葉として存在するようになり、他の言葉と結バレ売るようになり、冗談などにされうる。言葉は、それが意味し、示す「もの」よりははるかに危険が少ない。と言うのは、言葉は「もの」を全滅dさせ、その圧倒的な力のいくばくかを流し去るからである。

                       

                      大文字の母親が無くしたものが名付けられると、子供が母のためにそうであったその対象はもはや存在できない。欲望がはっきり言葉で表現されたので、じっとしていられなくなり、あるものから次のものへと換喩的に転々とし、置き換わるからである。欲望はランガージュの産物であり、対象で満足させることはできない。大文字の母の欲望を名付けることは子供を対象としての子供の位置から追い出させるし、母の欲望へのつかまえどころのない鍵の追及に子供を駆り立てる。母は何を欲するのか?母親の欲望が出くわす、終わりのない物事の連続を特徴付けると思われる、言いようのない何かは、西洋社会ではファルスとして知られるものである。母親を完全にするために現実の対象(現実の臓器)は必要とされず、子供は母親の欲望が示すもの、欲望できるものとして、ファルストして暗示するものを所有することを求めるように進むことができる。 大文字の母の欠如は子供が資格充分の主体になるために名付けられるあるいは象徴化されなくてはならない。倒錯においては、これが起こらない。思考のレベルでこの欠如が存在するようにできる、その現実の重みを軽くするいかなるシニフィアンも提供されない。母親の父親も象徴化に必要な分節化を与えない。フロイトの著作に見るように、倒錯においては大文字の母おい屋の欠如の疑問は大文字の母親の性器の周り、母親の息子との性差に集中することが多い。この章の終わりで、母親の性器を中心題目とした症例で、むしろ抽象的な用語で議論された、命名(すなわち名付け)の重要性の詳細な説明を見るであろう。

                       

                      7章1において、父性隠喩には二つの契機があることを示した。大文字の母親の欲望/欠如の名付けは二番目の(論理的)契機である。父性隠喩の第一番目の契機は母親との子供の満足を与える接触の禁止(享楽の禁止)で、父の名は父の「否」の形をとる。

                       

                                        父の「否」

                                    ---------------------------------------

                                     享楽としての大文字の母親

                       

                      二番目の契機は大文字の母親の欠如の象徴化を意味する、すなわち名前(ここでは父親によって与えられる名前としての「父の名」あるいは、大文字の母親の欲望の名前としての父親自身)を与えられるという事実による欠如の構成である。

                       

                        

                                                                                    父の名              

                                                                   ------------------------------------------

                                        欲望としての大文字の母親

                       

                       

                      この二つの置き換えの契機は上記のようにシェーマとして表される。

                       

                      二番目の契機だけが純粋に換喩的と考えられる、というのは言語が名付けによって資格を有するやり方で行為するのは二番目の場合だけだからだ。この二つの契機はFig.9.1で与えられた二つのシェーマに正確に対応する。一番目の契機は大文字の母親の中での分割を招くのに対して、子供は大文字の他者が満足を得る対象として存在するようになる。一方、二番目の契機は(享楽の源としての大文字の他者から分離して)欲望する主体の出現させる。一番目の契機はラカンが疎外と呼ぶものに相当し、二番目は分離に相当する。一番目はフロイトが原抑圧と呼んだものに、二番目は二次抑圧と呼んだものに有効に関連付けるであろう。 初めに言ったように、ここでの私の本質的なテーゼは、倒錯者は疎外を経験しているが分離を経験していないというものである。精神病者はどちらも経験していないのに対して、神経症者は両者を経験している。図式的には以下のようになる。

                       

                       

                      以下の部分は、原著の179pを参照のこと。

                             疎外                         分離

                       

                                                                                              

                                                 父の「否」                                                      父の名

                      精神病者 ------------------------------------------------  倒錯者  ---------------------------------------------  神経症者

                                           享楽としての大文字の母親             欲望としての大文字の母親 

                       

                       

                             原抑圧                        二次抑圧

                             享楽の禁止                      欠如の名付け

                       

                                               φ                        Φ

                                               要求                       欲望

                       

                       

                       

                       

                       

                       

                      精神病者が父の禁止の不在、不全によると理解できるならば、倒錯者は象徴化の不在ないし不全によると理解できる。 注39) 倒錯には、後ろ向きと前向きの仕草の両者があると思われる。前者は大文字の他者に満足を与える試みを意味し、後者は、下記のように、父の名付けの行為を支えるないしは補おうとする。神経症においても、同じような後ろ向き、前向きの仕草がある。前者は大文字の他者が欲望するものになろうとすることを意味し、強迫では、大文字の他者の欲望のシニフィアンΦを完全に体現させようとするし、ヒステリーでは大文字の他者の欲望の原因(a)を完全に体現しようとする。後者は大文字の他者の欲望への固着を振り払う試みを意味するが、これが分析主体(被分析者)の進路である。                       

                      | 1.サイコセラピー | 07:50 | - | - | - | - |