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青葉心理クリニック

『他者』
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    『他者』

     

    前に述べたように、ストレスチェックの余波で、いわゆる正常者でストレスを過大に抱え込んでいる方とお話をさせて頂く機会が増えてきて、だからこそ以前より強く感じるようになったのが『他者』である。何が過大なストレスの源かと言うと、抽象すると『他者といかなる関係を結ぶか』という事になる。病気が関係してくると他者との関係を結べないレベルになる訳だが、いわゆる正常者であるために、関係自体は持つ事は出来るが、それが過大なストレスの原因になる場合、単純化しても、当事者同士のどちらか、或いは両者が悪いと言うこともあるが、どちらも悪くないが関係が悪いとでも言うしかないものもある。これを対象関係論で、即ち、対象の持ち方に、部分対象と全体対象を置き、前者は幼稚な、後者は成熟した関係として、人格障害を理解して行くやり方で解釈するのではなく、より根源的に考えてみたい。

    説明に便利なので、他者をラカンにしたがって、小文字の他者(今あなたの周りにいる普通の他者たち)と 大文字の他者(神様にイメージされるあなたの生殺与奪の権を我が物にしているような圧倒的な他者)とに分けてみたい。大文字の他者として初めてあなたに現れるのは「母親」(カッコを付けたのは、母親の役割をしてくれる人と言う意味で、別に生物学上の母親である必要も無いし、女性である必要もないからである。)である。幼少時、寄る辺ない存在であったああなたにとって「母親」はあなたの生存を支配する絶対的な存在であった。そういわれると、頭では理解するかも知れないが、大きくなったあなたにとってはなかなか実感はなくて、今付き合っている人のほうが大切であろう。なぜそうなのか、そうならないと大人といえない、社会にでれない、いろいろな便宜上の理由はあるが、そのより始原的なことを考えてみたい。ここから比喩を用いた説明になる。絵画の技法に vanishing point 消失点というものがある。平面的な絵画に立体感を与えることができる技法であるが、われわれが普通に景色を見る時に脳裏に浮かぶその像も、普通は3点の消失点をもっている。ちなみに消失点が一つの絵画として、ダヴィンチの「最後の晩餐」がある。絵の中央のキリストの頭の上にそれが設定されているが、勿論、その絵には像としての消失点は無い。絵には描かれていないが、その絵を陰で支えているもの、それが消失点であり、その様なものが「母親」なのである。なぜ大文字の他者が必要なのか?それは消失点がその絵に秩序を与えるように、あなたが母親の子宮といういわばエデンの園から放逐された後に、魑魅魍魎としたこの世界を理解可能にしてくれるのが「母親」であり、あなたにとっての始原的な大文字の他者なのである。ただ、この始原的な大文字の他者は、貴方にとって不安を引き起こすものでもある。つまり、在ー不在が不規則なのである。在のときは貴方の世界に秩序をもたらすが、不在のときには世界は再び混沌としたものになる。もちろん栄養摂取の欲求という生物的な理由もあるのだが、世界に秩序を与えてくれるという「母親」の存在が、あなたが成長して大人になって、その大文字の母親が、非人称の大文字の他者(例えば、神のイメージ)に代わったとしても、始原の大文字の他者としての「母親」の痕跡は残る。この「母親」との関係を基にして、その後の父親、同胞、友人、恋人というような小文字の他者との関係が成り立ってくるのである。あなたの世界の消失点が「母親」だということが理解されたときに、この「母親」が気まぐれであるという事が、あなたの世界の後世に影響を与える。なぜ気まぐれであるのか?そこに母親の欲望がある。子供にとって、「他者」がいつもそばにいてくれることが、世界に秩序を与え、この世界にいてもいいことを保証してもらえることなのである。しかし、母親の欲望は気まぐれである。いつもあなたを欲望しているわけではない。あなたは何とか、母親の不在の時も世界に秩序を与えたい。気まぐれな母親の欲望を、気まぐれではないものにしないとあなたの世界に秩序がなくなってしまう。そこで、母親の欲望の先に「父親」(これも実在の父親ではなく、『大文字の父親』)の欲望を見なくてはいけなくなる、ここで「父の名」が必要になり、そしてエディプスコンプレックスにつながるのだが、今はそこには触れない。

    むしろ、母親の欲望が気まぐれである事はあなたには悪いことのように感じられるかも知れないが、もし気まぐれではなくてあなたしか欲望しないとか、気まぐれなのにあなたがそれを気まぐれではないと勝手に理解してしまったら、「他者」はあなたが望むようにあなたを欲望してくれると思うであろうし、そうなると、大文字の「他者」の欲望はあなたにとって確信的なものに成り、ひいてはその延長線上にある、小文字の他者」の欲望も確信的になる。それはパラノイアの世界ではないか。「母親」の欲望が気まぐれであることで、母親に欲望されることを欲望するあなたの欲望は、必然的に弁証法的展開を見せる事になる。この「揺れ」(恋占いを花弁で行うことをイメージしていただけると分かりやすいと思う。)こそが、あなたが、他者の欲望を欲望する時に、他者の欲望に幅を与えてくれるわけで、単純化の誹りは免れないであろうが、その幅の無いのがパラノイアの対人関係、幅が狭過ぎるのが、今問題にしている正常者の悩める対人関係、そもそも「他者」が存在しないのが精神病の対人関係ではないのかと思う。

     

    最後にきわめて情緒的ではあるが書きたいことがある。このブログを書いている時にBSの番組で、何十年かぶりでマイク眞木が歌う「バラが咲いた」(浜口庫之助 作詞作曲)を聞いた。単純な歌詞とメロディーであるが、「バラが咲いた」ことに気付く時が、世界に秩序が与えられた時、つまり「母親」という消失点が与えられ、世界が秩序をもった日、それにより寂しかったぼくの庭(世界)が明るくなった、ずっと咲いていてほしかったのに、いつの間にか「バラが散った」、その時が母親という大文字の他者を失った時で、にもかかわらず世界が秩序を失わないのは、庭が、世界が「母親」という赤いバラによって明るくなった体験があったために、庭は再び淋しくなったが「寂しかったぼくの心にバラが咲いた」からなのであろう。想像的なものとしての「母親」を失っても、象徴的なものとしての「母親」を心に持つ事で、世界はある幅の揺れを保ちながらも安定するのであろう。昔、小此木先生が、喪が開けるとはそれまで亡くなった人を思うとその人が具体的な姿で心に現れるのが、脱人格化された時、、つまり姿形を伴わず、完全に自分に同一化されたときが「喪が明ける」事だという意味のお話をされたのを、これもまた何十年ぶりかで思い出した。

    | 2.エッセイ | 11:01 | - | - | - | - |
    患者は医者を選べるが、医者は患者を選べない。
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      『患者は医者を選べるが、医者は患者を選べない。』 この言葉は、私が医者になりたての頃に、虎の門病院の当時副院長の三村信英先生から言われた言葉である。当時は多少の違和感のある言葉であったが、先生の普段の生き方に身近で接していたことで納得せざるをえなくて、盲目的に従ってきた。今でも診察時にはこの言葉を忘れた事がない。いまでは全く違和感はなくなったが、自分がこの言葉を自分で若い先生に伝えてもなかなか理解してもらえない。改めてこの言葉を自分でどう解釈して来たかを述べなくてはならない年齢になったと思う。ドイツ語に、Beruf という言葉がある。辞書的には「職業」という意味であるが、かって大塚久雄がマックスウエーバーのプロスタンティズムの倫理と資本主義の精神を訳す時に、この Beruf の訳を悩んで「天職」と訳したというエピソードがある。それは、「あたかも労働が絶対的な自己目的ー(Beruf :天職)ーであるかのように励むという心情」という事があるからである。つまり、(Beruf としての)職業は神からの召命であるということである。天職に恥じないように医師として働けというのが、三村先生のおっしゃりたかったことだったと、今の私は(勝手に)理解している。なぜ、職業が召命なのか?それは、修道院で言われた「祈りかつ働け」という事がそこに有り、更にそれは、予定調和説に立つキリスト教での「救い」に直結するのであろう。もし、医者が患者を選んだら、それは神の召命を拒否したことになる。鈴木正三という禅僧が、農民から「仏行に励めと言われても、農業が忙しくて、仏行にはげむ時間がない」と相談されたときに「農業即仏行なり」と答えたという話があるが、職業を仏行、天職とすることしか「救い」の道はないとしたら、それなりの職業への取り組みがあるということを忘れてはいけない。それは始原を忘れないこと。医者になろうとしたときに自分が何を思ったかを忘れない事だと思う。私事だが、職業としての医師は、自分の専門知識を使って困っている人を助ける者だと思う。それに邁進していく事が天職としての職業で有り、そうする事で、もしお金が貯まって金持ちになるのであればそれでよいし、自家用飛行機を持とうが、何をしようが構わないと思う。しかし、資本主義の精神が失われたこの時代に、医師といえどもその影響は受けるので、金もうけを目的に医師になるのも仕方ないとは思うが、それでは「祈りかつ働く」とはいえず、天職とは言えないと思う。利潤を出さなければ病院が成り立たないのは仕方ないが、せめて『患者を選ばない』事は心においてほしいと言うのが老婆心である。
      | 2.エッセイ | 22:42 | - | - | - | - |
      作為の契機 その2
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        仙台で今の仕事を始めて10年を過ぎ、本来であれば、例年のごとく、昨年一年の総括の他に、この10年をまとめ、新年へ向けて方針を述べるべきなのだろうが、年末から喪中であるため、今回はそのような事は差し控えたいと思う。よって、前回のブログの続きを書きながら、その中で脱線して昨年の事に触れる事でもあればそれで代わりとしたい。 もう何十年も前に、ある経済学者から、日本社会の構造的欠陥は、本来は下部組織であるはずの、会社、官庁、学校という、本来はなんらかの機能を司る機能的集団が運命共同体になってしまうことで、このエートスは、戦前も今(昭和50年代)も変わっていないし、敗戦により天皇制とそれと同型の農村共同体が崩壊したことにより、共同体論理と対立するものがなくなってしまった為に、却って強化されているということを聞いたのであるが、彼の慧眼は現在の日本の世相を正しく予言していたことになる。このエートスが、たとえ日本国内のことであろうと、憲法、法律よりも、運命共同体化した、それぞれの組織の論理を優先させ、この国の論理を二重化させてしまった。建て前と本音と言う表現では包括し切れない醜悪なダブル・スタンダードの国になってしまった。今はあまり聞かなくなったが、日本人がエコノミック・アニマルと揶揄された頃、日本では紳士然とした方々が、一度海外に出るや買春に走り、現地で顰蹙を買う事があったが、これなどは共同体の外、しかも国外という事になると、大脳新皮質の抑制が外れ、野獣化してしまうということである。運命共同体の中だけ、その共同体独特の倫理を守りさえすればいいということになる。共同体の中でのみ紳士であれば良いのである。心に神をもたず、共同体の中にしか神はいないということであろうか。 振り込め詐欺はもちろん犯罪として処罰されるが、官僚は経済政策の失敗で税金をドブに捨てようが、政策決定の書類を無くそうが、誰も責任を問われない。これは、真珠湾攻撃の前に宣戦布告を怠った駐米大使がその後も順調に出世したことから分かるように、同じ国に住みながら所属する共同体がちがうと、規範さえちがうということである。しかも、運命共同体化している日本の組織では、そこに属する個人がその共同体から外れた瞬間に、今までの生活を維持する事は極度に困難になる。 余談だが、こういう見方を、日馬富士の暴行事件における貴乃花と相撲協会の関係に適応するとマスコミの説明とはちがうものが出て来る。本来暴行事件をその場で見た人は第三者であろうが、すみやかに警察に連絡する義務があるし、また被害者の保護のために救急車の要請をすべきであろう。まして、第三者ではなく、直接の関係者、しかも他の力士の模範となるべき横綱がいたのであるから、本来はそれを怠ったことこそが第一に責められるべきであり、後日事実を知った貴ノ花が警察にしか訴えず、相撲協会に何らの連絡もしない事が一番に責められていることはあまりに理不尽ではないか。相撲協会というまさに典型的な運命共同体であり、、元検事をその長とするなんとか委員会などは共同体内の組織に過ぎないし、捜査権も何も無い。暴行事件という刑法上の犯罪には、警察、検察にしか捜査権はないのだから、少なくとも起訴の有無がはっきりするまでは、共同体の中で処分しようとするのは、いわゆるリンチなのではないか。 基本的人権という人間ならば誰にでも保障されているはずの権利が本来は機能的集団にすぎない組織が運命共同体化してしまっている事で軋轢を生じているというのが、ブラック企業のみならず、全ての会社、役所、学校で起きている問題なのではないのか、そういう思いを強くした一年であった。 社会制度は人間が作った物だから、変えられるのだということを、彼女が目指したものは疑問はあるが、具体的にチャレンジして空中分解したのが、小池百合子であった。チャレンジした事だけは、ほかの議員の男どもが盲従する中で、評価したいが、何故失敗したかを分析したい。それは、昔高校時代に漢文で習った李斯の「逐客を諌める書」にある  「泰山は土壌を譲らず、故によくその大を成す、河海は細流を択ばず、故にその深をなす、王者は衆庶を却けず、故にその徳を明らかにす。」 で明らかである。彼女は私と同い年なので、高校時代にこの漢文に接しているはずである。歴史に学ぶというのはこういうことなのではないか。 思い出すと昔、自民党で「加藤紘一の乱」という茶番のようなことがあったが、この乱とも言えない様な乱が自民党内のハト派で あった宏池会の衰退を招き、それがタカ派の福田派の継承である今の安倍派独裁につながったのではないか? とりとめのないブログになってしまったが、自分が閉じ込められている環境世界から抜け出すことが出来るところに、人間とほかの動物を分けるものがあるのであり、そういう意思を持った生き方ができるかどうかである。
        | 2.エッセイ | 09:47 | - | - | - | - |
        作為の契機
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          ストレスチェックが広く行われるようになり、「〜病」とカテゴライズできない、つまり過大なストレスに悩みながらも、社会生活、家庭生活を普通に営んでおられるいわゆる普通の方々とお会いすることが多くなり、医学部で習う事があまり役に立たない、むしろ社会科学でしか分析のできない事が多くなったように感じる。 簡単に言うと、本来なら三人で行う仕事の量が、人員削減で一人でしなくてはならなくなったなら、単純計算で一日八時間労働として3人分で24時間、それを一人でしたら丸一日かかる訳で、それで平気で社会生活、家庭生活を送れたとしたら、その方が不思議ではないのか? 新聞紙上で、学校でのいじめ、不登校に関して自殺者が出て、情報開示が当たり前のように唱えられているのに、現場では学校ぐるみの隠蔽が堂々と行われていて、それでいじめや不登校をなくす事ができたらこれもまた不思議ではないか?さらに言えば、上司からのパワハラで、鬱になった方に、太陽に当たって(セロトニンをあげて)症状を良くしようとするということに疑問を感じないのか? 例をあげるとキリがないのであるが、個人と組織の関係で起きている問題がこれだけ多いのに、組織を変えるという事は手を付けずに、個人を変えようとしているようにしか思えない事が多い。 この点について、丸山眞男が言った「作為の契機」に基づいて分析を行うと、日本人は自分の属する組織に対する帰属意識が優先し、つまり日本国よりも、属する会社、組織が共同体になってしまっていて、その結果、直接的な人間関係が規範化されてしまう。さらに規範化されたものは、それが自分達が作り出したものであることが、つまり始原の事実がやがて忘れ去られ、元々は自分たちが規範化したものにただ従うだけ、もう自分たちでは変えられないものとして、その中でのみ生きて行くことになる。どういう訳か、それが最近強くなってきている所に、ストレスチェックで引っかかる人が増えている大きな要因があるのではないかと思うのである。始原を忘れることで、あたかもそれが自分たちには変えられないと思い込む、というより無意識的に支配されている事が問題なのだ。社会制度は「作為の契機」なのであり、自分たちで変えられることなのである。組織は変えられるのである。 資本主義の精神はキリスト教にあるというのはウエーバーのいうとおりであるが、キリスト教は、相手が神様でも契約を変える事が出来る。だから聖書に、新約、旧約があるのだ。契約を変えられないのはイスラム教である。 このような世相を分析していると、そのメカニズムはパラノイアのそれと同型ではないかとという気になってくる。 ハイデッガーは、人間のみがその環境世界を超えいでる事が出来る、他の生物は自分の環境世界に閉じ込められ、その世界から出る事ができないと言ったが、今の世相から言うと、われわれは、我々の世界から出る事が出来なくなってしまったのではないか? 人間が人間らしく生きれなくなっているわけだから、ストレスチェックに引っかからない人のほうが、じつは本来的生き方ができていない(頽落)ということになるのではないか? ハイデッカーがよく言葉の語源にもどって解釈をしているが、それは始原を取り戻し、生成途中にある不在ということを我々に示すためだったのではないか? 作為の契機を明らかにして、もともとは我々が作り出したにすぎないものに無頭的に支配されない主体的な生き方が、「過去を不断に捉え直しをして、その有限な未来に向かって、現在を生き生きとして生きていく」ことを可能にしてくれると思う。
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          内心の自由
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            内心の自由

             

            正直なところ、この年齢になって、「内心の自由」についてこの様な文章を書くことになるとは思ってもみなかった。そもそものきっかけは東京都議選の安倍首相の街頭演説なのであるが、その後、菅官房長官が公式にこの首相の発言には何ら問題がないといい、それに対するマスコミの反応が情緒的すぎると感じたことにある。

             

            さて、カウンセリングで一番大切なことは「共感」であると前にも何度か述べているが、その前提になることが、クライエントの内心の自由の尊重である。これは私見ではあるが、もしカウンセラーがクライエントの内心に直接土足で踏み込む様な、あるいは内心を否定する様なことをした時、それはカウンセリングが「暗示」に堕ちてしまうのだと思う。

             

            内心の自由の由来は、神が自身が創った世界に対して絶対的であるのと同じ理由で、人は自身の心に対して絶対的であるということなのだと思う。キリスト教の真の信仰は、内面の信仰であり、外に現れる行動ではないというのと同型の考え方である。1700年代に啓蒙専制君主の典型とされるフリードリヒ2世が、「反対するのは自由である。ただし服従せよ」と言っているが、それから200年以上経過した(進歩した?)我々の世代で、専制国家より以前の認識を公に聞かされるとは思わなかった。 言論の自由は、内心の自由によって保証される。首相は、自分の信条、思想に全面的に攻撃してくる者の言い分も聞き、それも国民の一つの意見だとして尊重しなければならない。それが近代デモクラシーの権力者として当たり前のことである。人の内面に対して、外面的制裁を加えるということは、(専制国家でも)あってはならないことである。首相は、ヤジに対して感情の赴くままに発言してしまったわけで、これは近代デモクラシーの否定であり、それを擁護した官房長官は首相の発言のデモクラシーに対する意味がわからず、さらに自分の無知をさらけ出してしまったのである。本来なら、反デモクラシーの発言と、その擁護なので、お二人とも議員辞職は当たり前なのだが、不思議にそうならない。

             

            それはマスコミが機能不全であることがその一因だと思う。 先日成立した共謀罪というのは、例えば不逞の輩が徒党を組んだ、あるいは組みそうだと権力者が判断した時に、それを処罰することができるというものである。近代デモクラシーの権力者は、不快だと思うまでは自由であるが、それを権力を使って外面的な行動がないのに処罰することは、個人の内心に侵入することなので許されることではないのだが、それを可能とする法律なので、フリードリヒ2世より以前の時代に退行しているということになる。この様な権力の行使は近代デモクラシーの権力者は自制しなくてはいけないし、この様な権力の行使を認めない様に監視するのがジャーナリズムの働きなのであるが、例えば、家計事件における読売新聞の前川元文部省事務次官に対する報道は、その情報源は警察だそうであるが、事務次官としての仕事ではなく、取るに足りない倫理的なことで記事にしたことは、ジャーナリズムの機能の自己放棄であろう。

             

            内心の自由というのは最も基本的な自由であることを、そしてデモクラシーにとってその肝であることを他ならぬ自由民主党の方々にお分かりいただきたい。

             

            | 2.エッセイ | 09:01 | - | - | - | - |